奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

戸を閉めずに

皮が焼けるまで、ほかのものを頼まないことにした。腹が減っている時ほど、最初に好きなものを食べたい。そう言ったら、店のおばさんに笑われた。
「時間かかるよ、お兄さん。待てる?」
「今日は待てます」
明日も休みだった。駅の売店で買ったばかりの雑誌を鞄へしまい、私は麦茶のグラスを、なるべく焼き台から遠い所へ置いた。

隣の男が、一人ぶん横へずれてくれた。五十代くらいで、ワイシャツの袖を肘まで捲っていた。まだ結び目の残ったネクタイを胸ポケットへ押し込んでいる。私も仕事帰りによくやるので、少し気が楽になった。知らない店へ一人で入る時には、注文よりも、どこへ立てば邪魔にならないのかが分からない。
「ここの皮、待つ価値はあるよ」
男は自分の皿を私の方へ傾けた。串が二本、何もついていない骨みたいに載っていた。

カウンターだけの小さな焼き鳥屋だった。椅子はない。入口の引き戸が半分開き、その前へ大きな扇風機が置いてあった。羽根の風を焼き台へ送る向きになっていたが、間に太い木の柱があるため、私のいる端まではあまり届かなかった。柱へ画鋲で留めた短冊が、時々一枚だけ裏返った。
おばさんは焼き台の前へ立ち、串の柄を少しずつずらしていた。客は私と男の二人だった。

「あんまり、こっちへ寄せないでね」
おばさんが、男の空いた皿を奥へ押し戻した。カウンターの角がすり減り、皿を置くと傾くのだという。
「いつも言うね」
「いつも置くから」
男は笑って皿を引いた。そのやり取りを見て、私はグラスを少し手前へ寄せた。おばさんは頷き、焼き台へ戻った。足元の蓋つきの缶を、爪先で奥へ寄せた。
「その缶、炭を片づけるやつだからね。空でも、手を入れちゃ駄目よ」
灰皿を探していた男が、途中まで伸ばした指を引っ込めた。

私の頼んだ皮には、焦げ目がつき始めていた。おばさんは串を返してから、何かを小さく吹き払った。脂が炭に落ちると、白い煙が立った。扇風機に押され、男の肩の上を通っていく。男は顔をしかめもせず、目だけを閉じた。私も同じようにしようとして、煙が柱の横で丸くなっているのを見た。
煙草を吸う人が作る輪に似ていた。ただし、人の頭がすっぽり入るほど大きかった。

輪は縦に立っていた。丸い縁の内側で、細い煙が同じ向きへ走っていた。上の方からほどけそうになるたび、その端が下へ戻った。おばさんは皮の具合を見ている。隣の男も、最初は見ていなかった。
「煙、面白いですね」
私が言うと、男は柱の短冊を見上げた。違います、ここ、と示す間に、皿から一本の串がなくなった。

落ちた音はしなかった。二本並んでいた空の串が、一本になっている。私は足元を見た。床は細かな木屑のようなもので汚れていたが、串はなかった。
「一本、落ちませんでした?」
男は皿の縁を持ち上げ、裏を見た。おばさんが焼き台の脇から、使い終わった串を一本つまみ上げた。
「これ、そっちの?」
三人とも手を止めた。男が首を伸ばして見た。串の持ち手に、薄い桃色の紙が巻いてあった。

男は、つくねのだ、と言った。私は注文するところを見ていないが、皿にはさっき、紙の巻かれた柄が載っていた。おばさんの指と男の皿の間には、カウンターと焼き台がある。どちらも、串を投げてはいなかった。
おばさんは串を返そうとした。伸びた腕の下で、煙の輪が揺れた。
「あ、いいです。捨てちゃって」
男が言うと、おばさんは腕を引き、足元のゴミ箱へ落とした。私は輪を見ていた。輪は一度傾いたが、また縦に戻っていた。

「その煙、ずいぶん残るな」
男が手を振った。掌は輪の真ん中を通り、何も起きなかった。次に、空いた皿で縁のあたりを扇いだ。皿の白い面を灰色の筋が横切った。皿の手前と向こうに、同じ丸い形が続いている。ぶつかった音はなく、煙は少し薄くなっただけだった。
「変な風が当たってるんじゃない」
男はそう言い、皿を戻した。私もそうかもしれないと思った。煙がそこへ溜まる理由なら、風でよかった。

おばさんが皮を皿へ載せた。塩を振る小さな缶を持ち上げた時、柱の方で、硬いものを削る音がした。木を鋸で切る時の、引く方の音だった。
煙の縁が柱へ触れていた。柱は茶色く塗られていたが、その上に白い筋ができた。筋は輪と同じ丸みを持ち、端から薄い木片がめくれた。輪が揺れると木片も揺れ、その下から新しい白さが見えた。

私は皿を受け取らなかった。おばさんが私の顔を見て、次に柱を見た。皮の串が載った皿を、塩の缶の横へ下ろした。
「何これ」
おばさんは返事を待たず、扇風機の方へ来た。私たちはカウンターから離れ、入口へ寄った。おばさんが風を止めると、普通の煙は天井の方へ上がった。丸い煙だけが柱の横に残り、木片を一枚、下へ落とした。

男のグラスに、灰色の筋が重なっていた。グラスは輪の下の端に掛かっていた。男が手前へ引くと、底から口まで筋が通り過ぎた。割れもしないし、中の飲み物もこぼれなかった。
そのすぐ上で、柱がまた鳴った。
「触らない方がいいですよ」
私はグラスを持ったままの男へ言った。男は、もう触っちゃった、と言ってから、笑うのをやめた。

おばさんが入口から顔を出した。隣の店へ声をかけるのかと思ったが、開けてあった戸を、もう片側へ滑らせただけだった。
「ちょっと外で待ってて。煙、抜くから」
私たちは歩道へ出た。男はグラスを店の中へ置き、私は鞄だけ持った。夜の風が、汗ばんだ首へ当たった。焼き台に脂の落ちる音が続いていた。煙から離れると、鼻の奥が楽になったので、あの丸いものもすぐに崩れるような気がした。

おばさんは焼き台へ戻り、焼いていた串を全部外した。私は少し安心した。火から出ているものなら、出なくすればよい。
隣の男が、皮、もらっとけばよかったな、と言った。私もそう思いかけた。つい今まで食べたかった匂いが、戸口を通ってきていた。
中で、おばさんが短く声を上げた。

柱の白い傷が、さっきより低い所まで続いていた。輪が横へ傾き、カウンターの上に伏せかけていた。おばさんの前掛けの紐が、その縁に引っ掛かっている。紐は腰から斜め上へ引かれ、結び目が脇へずれていた。おばさんは自分で結び目をつかみ、引き戻そうとしていた。
男が一歩入ったが、おばさんは来るなと怒った。いつもの、皿をそこへ置くなと言う声とは違った。

紐が裂けた。切れ端が輪の縁に残り、おばさんは焼き台へ肩をぶつけた。網がずれたが、火の上にはもう食べ物がなかった。おばさんは紐を見ず、火ばさみで炭を一つずつ蓋のある金属の容器へ移し始めた。
「そこ、離れてください」
私が言うと、おばさんは、これだけ、と答えた。
「火、入れっぱなしじゃ。あとで誰か触るよ」

男は戸口で待っていた。手を出せる隙間がないのではなく、おばさんが手を動かしているので、近づく方が邪魔になる。私はさっきまで、逃げるか助けに入るかしか考えていなかった。おばさんは容器へ蓋を載せ、足元へ置いた。それからようやく、私たちの方へ来た。
前掛けの下の服には、穴はなかった。裂けた紐だけが片方、長く垂れていた。

三人とも外へ出た。おばさんは裸の手のひらを見て、膝へ擦りつけた。指が震えていた。
「手、切れました?」
男が尋ねると、首を振った。
「蓋が熱くて」
声は掠れていた。私は中を見た。炭を移した容器は、焼き台の下にあった。天井近くの煙は薄くなり、電灯がはっきり見え始めていた。

輪の縁に、裂けた紐が巻きついていた。煙は白かったのに、そこだけ青い糸が絡んでいる。輪がゆっくり傾くたび、糸の端が垂れた。もう風は送っていなかった。
カウンターの上に、私の頼んだ皮が載っていた。おばさんが下ろした塩の缶の横ではなかった。さっき私が立っていた場所に、皿ごと来ていた。

「あれ、出してくれたんですか」
私はおばさんへ聞いた。
「まだ。待たせてごめんね」
そう答えてから、おばさんは皿を見た。私が何を尋ねたか分かったらしく、口を結んだ。男も中を覗き、少し前へ身を乗り出した。
「届くけど」
私が、いいです、と言うより先に、男は腕を下ろした。皿のすぐ上に、輪の端があった。

おばさんは引き戸の取っ手へ手を掛けた。店を閉めるのだと思い、私も立つ場所を空けた。男が、待って、と言った。
「中、見えなくなるだろ」
戸には乳白色の硝子が入っていた。下の方は木で塞がれている。閉めれば柱も皿も、輪の一番下も見えなくなる。おばさんは戸を戻し、取っ手から手を離した。

「誰か入ったら困る」
「暖簾、外しておこう」
男が頭上へ手を伸ばした。暖簾の棒は戸口のすぐ内側にあった。男が引き抜くと、おばさんが端を受け取った。二人は何も言わず、それを畳みかけた。私は店の名前が折れて隠れるのを見て、これだけでは伝わらない、と思った。暖簾のない飲み屋へ、入ったことなら私にもある。

私は鞄から、さっき買った雑誌を出した。中綴じの紙が固く、手で破ろうとすると細い帯になった。おばさんが、何するの、と訊いたので、休みだと分かるように、と答えた。男が胸ポケットからペンを出した。私は表紙の裏を平らにしようとしたが、字を書く所に大きな写真が印刷されていた。
おばさんは笑わなかった。店の横に積んであった箱を一つ潰し、白い裏を上へ向けてくれた。

本日休み、と書きかけたら、おばさんが、煙に触らないで、も書いて、と言った。私はペンを止めた。輪は遠目には細く、電灯の反射より弱かった。煙に触る人などいないと、何も見ていなければ思っただろう。
男が私の肩越しに紙を見た。
「危ない、でいいんじゃない」
おばさんは、うん、と頷いた。私は大きく、入らないでください、と書いた。

段ボールは入口の外へ立てた。戸は開いたままにした。おばさんは隣の店へ電話をかけ、今日は客をこっちへ回さないでほしい、と頼んでいた。何が起きたの、と何度も訊かれているのが、受話口から聞こえた。おばさんは柱が削れていると言い、それから、煙が、と言って黙った。私は段ボールを片手で押さえ、あいている方の手で、店内を指してみせた。電話の相手に見えるはずもなかった。

輪がカウンターから起き上がった。
私は声を出さず、おばさんの肘へ触れた。男も気づいていた。三人で店の中を見た。煙は柱へ寄らず、奥の壁と平行になった。中の空いた所から、塩の缶が見えた。白い煙の縁が缶の手前を通り、後ろへ抜ける。そのあとで、缶は私の皮の皿の横へあった。

跳んだところは見えなかった。煙が薄い筋になる一瞬、私はそこに目を凝らしていた。それなのに、丸い缶のあった場所が空き、別の所に同じ蓋が光っていた。皮の皿と塩の缶が並び、私のグラスだけが少し離れていた。
隣の男が、皿を置かれているな、と呟いた。
「もう要らないから」
男は店の奥へ言った。おばさんも私も隣にいたのに、いつもの追加を断るような声だった。私は男の見ている所を見た。焼き台の網が、ずれたまま載っていた。

おばさんは電話を切った。隣から人が見に来ると言う。私は呼んだことより、隣の店までこの店が普通に営業していると思っていたことに驚いた。焼く音は止んでいた。もういい匂いもしなかった。
「今日は食べられないね」
おばさんが私へ言った。
「また来ます」
そう答えたら、おばさんは何も言わずに頷いた。

男は畳んだ暖簾を片腕に掛けていた。おばさんはそれを受け取らず、開いた戸の端へ立った。私は段ボールが倒れないよう、横にあった空の瓶箱を寄せた。駅へ向かう人が、男の腕の暖簾を見て歩調を緩めた。おばさんが片手を上げると、その人は段ボールを読み、道の反対側へ渡っていった。破り損ねた雑誌の細い紙が、私の靴に貼りついていた。

焼き台の脇で、木の削れる音がした。丸い煙の上の方が柱へ触れ、白い筋を深くしていた。下の端に絡んだ青い糸だけは、同じ長さで垂れていた。
私はそれを見ていた。戸を閉めれば、聞かずに済むほど小さな音だった。おばさんも男も、取っ手には手を掛けなかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました