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昼間に来た人

高瀬は、訪ねる時刻を昼の二時にした。
水野からは、いつでもいるよ、と言われていた。退職したばかりの二人が夜に会うと、酒を飲んで会社の話になる。それでは今までと変わらない気がした。昼に顔を出し、近くでお茶でも飲む。そんな付き合いを、今から始めたかった。

玄関先で菓子の袋を渡すと、水野は大げさに受け取った。
「俺に持ってきたんだろ。娘にやるなよ」
そう言ったすぐ後ろから、沙織が出てきた。三十代の半ばだと聞いていた。高瀬の知っている沙織は小学生で、前歯が一本抜けていた。その顔を思い出している間に、彼女は袋を受け取った。
「ありがとうございます」
高瀬を見てから、窓の方を見た。外の明るさを確かめるような目の動きだった。

家には一度だけ来たことがあった。水野の妻が亡くなる、少し前だ。会社の仲間四人で庭の植木を動かし、台所で昼を食べた。沙織は八つか九つで、父親の膝へ乗りたがった。水野が重いと押し返すと、向かいにいた高瀬の膝へ来た。人見知りしない子だと思ったことを覚えている。

その後は外で水野と会った。違う営業所へ移ってからは、年賀状と、たまに来る電話だけになった。最後に一緒に飲んだ店の名を、高瀬はもう思い出せない。昨日、退職の挨拶代わりに電話した時も、どちらが先に連絡を絶やしたかという話はしなかった。今度こそ会おうと言うと、水野は、それなら明日、と答えた。

居間の座卓へ案内された。テレビの横にあった大きな棚はなくなり、低い椅子が二脚置かれていた。庭は狭く見えた。あの時動かした植木のどれが残っているのか分からなかった。
沙織はお茶を運び、高瀬の前へ、菓子の入っていない皿を置いた。
「甘い物はあとですよね」
高瀬が顔を上げると、彼女は父を見た。
「先にお茶。いつもそうだったから」

水野が、何だそれ、と笑った。高瀬も笑いかけたが、沙織は盆を持ったまま立っていた。
「以前来た時、言ったかな」
「言いました」
「そうか。よく覚えてるね」
沙織は頷かなかった。高瀬の湯呑みを、縁の細く欠けた方が向こうになるよう回した。高瀬はその手つきを見て、少し喉が詰まった。この欠けた湯呑みには、覚えがあった。

夜に、お茶を飲む夢だった。
知らない家ではなく、水野の家だった。小さな沙織と二人で、父親の帰りを待つ。テレビには魚が映っている。音が小さく、何の番組かは分からない。沙織は菓子を食べ、高瀬は茶を飲んでいる。眠っている間のことなので、彼女がいくつか、何のために自分が来たかを考えたことがなかった。

何度か見た。続きのようで、同じところを繰り返してもいた。沙織が洗面所へ行き、高瀬は廊下の電気を点けてやる。帰ってきた彼女が、まだいる、と言う。いるよ、と返した。そんな短いやり取りが、なぜか目覚めたあとにも残っていた。
最後に見たのは、十年くらい前かもしれない。高瀬は膝の上で指を組み直した。湯呑みの欠けた縁を見ているうちに、忘れていた夢が戻ってきた。

「お母さんが亡くなったあと、何度も来ましたよね」
沙織が言った。
水野は高瀬を見た。
「そうだったのか」
「いや」
すぐ否定すると、沙織の顔が硬くなった。高瀬は、昼間に来たのは一度だけだと思う、と言い直した。ほかの時刻なら来たという意味に聞こえたらしく、水野が、夜か、と言った。

「お父さん、いつも寝てたから」
「起こせばよかったのに」
水野は軽い調子で答えた。沙織は空の盆を持ち直した。
「起こしてって言ったよ」
部屋が静かになった。水野は覚えていない様子だった。高瀬も、彼の顔を見ているうちに、昔の飲み会で酔っていた水野を送ったのかもしれないと思った。だが一度ならともかく、何度もこの部屋へ来た記憶はない。

沙織が椅子の背へ上着を掛けた。七分袖の腕を擦り、窓が開いていないか見た。高瀬には、むしろ暑かった。庭へ向いたガラス戸に日が当たり、水野は額へ汗を浮かべていた。
「寒いのか」
父に訊かれ、沙織は、ちょっと、と答えた。それから居間の入口へ椅子を寄せ、そこへ座った。台所へ盆を返すこともしなかった。

水野が退職したあとの話を始めた。朝の起きる時刻が変わらない、新聞をゆっくり読んでも午前が余る。高瀬にも同じことがあった。時間ができたらやろうと思っていたことより、やめてもよいことが分からなくなった。会社へ行かないのに、日曜の夕方だけ気が重い。そう言うと、水野が膝を叩いて笑った。

沙織は笑わなかった。父親の湯呑みに手を添え、もう冷めてるよ、と言った。水野は一口飲み、冷めたって茶だろ、と返した。
「ちょっと歩いてくれば」
「せっかく来たんだぞ」
「一緒に。駅の方、喫茶店あるから」
高瀬は、それもいい、と立ちかけた。外へ出れば、夢の話をしなくて済む。水野は腰を上げず、まあ少し座れ、と高瀬の膝を押さえた。

「あとで行くよ。まだ、来たばかりだ」
水野がそう言って、椅子へ深く寄り掛かった。沙織はすぐに父の名を呼んだ。高瀬は、娘が父を名前で呼ぶのを初めて聞いた。
「眠らないで」
「寝ないよ」
水野は目を開けていた。けれど返事をしたあとで、瞼がゆっくり下がった。高瀬も昼食のあとにはよくそうなる。歳のせいだと二人で笑うつもりで、水野の肩へ手を置いた。

沙織がその手をつかんだ。
掌がひどく冷たかった。
「高瀬さん、起こしてください」
頼んでいるのに、高瀬の手を止めていた。指が袖口へ食い込み、それから急に離れた。自分が何をしているか分からなくなった時の動きに見えた。
高瀬は、水野、と呼び、肩を二度叩いた。水野は顎を上げたが、目は開かなかった。息が鼻を通る音が、小さく続いた。

玄関で鍵が回った。
女が玄関に立っていた。高瀬は初め、沙織の姉かと思った。よく似ていて、年頃も同じくらいに見えた。紙の袋を片手に持ち、踵を揃えて靴を脱いだ。台所へ来て、蛇口の方へ袋を置いた。灰色の袖を肘まで上げる。その仕草を見た時、一度だけ昼を食べた日の、麦茶を注ぐ手が重なった。水野の妻だった。

「まだいたの」
妻は高瀬に言った。
夢でも、そう言われたことがあった。買物から戻った人の言い方だった。高瀬は、その声を聞くまで忘れていた。水野を待つ夢には、彼の妻も来ていたのだ。
水野の妻が亡くなってから、二十年以上になる。高瀬は葬儀へ行った。香典を出したとか、誰と車に乗ったとかいうことより、あの日、水野が焼香の順番を間違えた客へ頭を下げた姿を覚えていた。

沙織は母を見なかった。水野の前へしゃがみ、もう一度名前を呼んだ。
母は流しへ手を置いていた。爪の端に土がついていた。袋には小さな植木鉢が入っていて、縁に細い草が絡んでいた。高瀬は夢の続きを思い出そうとした。たいてい、ここで目が覚めた。沙織を一人にせずに済んだと思い、また少し眠った。

「起こさないで」
母が言った。
沙織の肩が動いたが、振り向かなかった。母は高瀬へ顔を向けた。
「せっかく寝たのに」
高瀬は答えなかった。水野は椅子で眠っていた。頭の傾きも、胸の動きも変わらない。母の声を聞けば起きるはずだと、そんなことを考えた。亡くなった人の声で友人を起こせると思っている自分が、急に怖くなった。

母は袋から鉢を出した。植えられたものは、枯れた茎が一本だけだった。鉢の底から土がこぼれ、流しの縁へ落ちた。沙織が顔を下げた。
「それ、外に置いて」
母は聞こえなかったように、鉢を少し回した。
「水、やってなかったんだね」
沙織は父の腕を握った。高瀬は立ち上がり、台所と居間の間へ出た。母まで、三歩ほどだった。

「水野は、退職したんです」
何を言っているのかと思いながら、言葉を続けた。
「娘さんも、もう大人で」
母の目は、高瀬の顔から沙織へ移った。沙織は父を起こすのをやめていた。高瀬を見る顔は、怒っているようだった。
「お母さん、分かってるよ」
沙織が言った。
「分かってて、同じこと言うの」

高瀬は口を閉じた。死んだ年のままの人だから何も知らないのだと、勝手に思った。沙織は椅子の脇へ手をつき、ゆっくり立った。母と娘が向かい合うと、母の方が少し若く見えた。沙織の手には、指輪を外した白い跡があった。母もそこを見た。
「今日は、お父さんに会いに来たんです」
高瀬は言った。誰に向けて言ったのか、自分でもはっきりしなかった。

母が小さく頷いた。
「じゃあ、あの人が起きるまでいてあげて」
高瀬は、その頼み方を知っていた。誰かが来るまで待つ。それなら自分にもできると思い、夢の中で頷いていた。母が来れば帰ってよいと、沙織にも言ったことがある。
母は鉢を持って廊下へ出た。沙織が一歩動き、止まった。二階へ上がる階段の下で、母が振り返った。
「沙織。こっち」

沙織は両手で口を覆った。母は鉢を持ち直した。
「聞こえてるでしょ。返事は」
沙織の指が頬へ押しつけられた。母の顔は、沙織へ向いたままだった。同じ言葉をもう一度言おうとする口元が見えた。
高瀬は水野のそばへ戻り、彼の肩を揺すった。さっきより強く、名前も大きな声で呼んだ。水野の目が開いた。
「何だよ」
高瀬の手が肩をつかんでいるのを見て、水野は少し身を引いた。廊下へ目を向けると、誰もいなかった。靴は玄関に三人分だけあり、流しの上には、洗った湯呑みが一つ伏せてあった。鉢も袋もなかった。

沙織は父の前から離れ、流しの縁を指で拭った。黒い粒が二つ、指についていた。水野は寝てないよ、と言った。高瀬は、今、奥さんが、と言いかけた。
「会ったんですね」
沙織が先に言った。
高瀬は頷いた。彼女は指を洗い、蛇口を閉めた。それから、父にも見てほしかった、と低い声で言った。

水野が何度も妻の名前を呼んだ。部屋を見回し、庭を見て、最後に沙織の顔を見た。娘は父を見ず、椅子を元の場所へ戻した。
「昔、起こそうとすると、怒ったでしょう」
「そんなこと」
水野は否定しかけてやめた。高瀬が来た夜のことは知らない、と言った。沙織は、知ってる、と答えた。高瀬には、もう何度も聞いた答えを受け取る声に聞こえた。

高瀬は、自分が見た夢の話をした。沙織が廊下から帰ってきたこと、お茶を先に飲んだこと、母親が戻るまで待ったこと。話す間、沙織は台所の入口に立っていた。
「帰っていいって、いつも言いましたよね」
彼女が言った。
「お母さんが来たら、もう大丈夫だからって」
高瀬は廊下を見た。洗面所の灯りは消えていた。

「私は、お父さんが起きるまでいてほしかった」
沙織はそう言って、父の菓子皿を取った。水野は手を伸ばしかけたが、皿を渡した。高瀬は自分の皿を手に取り、沙織が重ねた二枚の下へ入れた。彼女は三枚を流しへ置いた。
外で宅配便の台車が通る音がした。水野が立って玄関を開けた。自分の家への荷物ではなかった。戸を閉めるまで、高瀬と沙織は互いを見なかった。

高瀬は上着を取った。今日は帰る、と言うと、水野は駅まで送ると言った。沙織も外へ出てきた。門を閉める時、父の腕へ自分の腕を通した。
「私も、歩いていい?」
水野が、いいに決まってる、と答えた。
高瀬は二人と並んで歩いた。もう一度会おうと簡単に言えなくなっていたが、黙って別れてしまうこともできなかった。

駅前で水野が、次はもっと早く来いよ、と言った。高瀬は別れの挨拶を返した。沙織は父を改札まで送らせず、券売機の前で足を止めた。
改札を通ってから振り返ると、二人はまだいた。沙織が父の口元を見ていた。水野は欠伸を途中で押さえ、手を下ろした。沙織はその手を取った。
高瀬は電車の空席へ座らず、扉の脇に立った。窓に額をつけて眠る人が、隣の車両にいた。降りる駅まで、そちらへ顔を向けなかった。

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