給料のことだけは、自分から訊かないと決めていた。
四か月ぶりの面接だった。募集に書かれている額が本当なら、それで十分だった。私が前の会社でいくらもらっていたかは、もう関係がない。そう何度も考え、借りた会議室の階へ上がった。
応募したのは、古い業務用家具を修理して売る会社だった。営業経験があれば年齢不問、と求人にはあった。私は四十八歳で、似た業界を知っていた。肩書きのない仕事へ戻る覚悟はできていたつもりだったが、受付で若い人に案内されると、腰の低くなりすぎた自分が嫌になった。
「お荷物はこちらへ」
女の社員に促され、私は鞄を椅子へ置いた。自分の座る椅子は、向かいのものより少し低かった。
面接官は三十歳前後に見えた。求人の担当者と同じ姓を名乗り、丁寧に頭を下げた。
「遠いところ、ありがとうございます」
彼は履歴書を見なかった。封筒から出したまま、机の端へ置いていた。最初に訊かれたのは、退職理由だった。
私は用意した説明をした。事業の縮小、部署の統合、残る人員と役割の整理。嘘ではなかった。自分から辞める形にしたのは、次の仕事を探す時に少しはましだと思ったからだった。
面接官は、嫌でしたか、と訊いた。
「何がでしょう」
「残った方の下で働くことが」
私は水の入ったコップを見た。飲む前に、違います、と答えた。
面接官は頷いた。否定を受け入れた顔だった。私は少し安心して、職務の説明を続けた。
会議室の外で、車輪の音がした。古い事務椅子を運んでいるらしかった。家具を扱う会社なのだから不思議はない。男の声が二つ聞こえ、一人が腰を上げる時の低い声を出した。
面接官は扉を見て、今、担当を替えているところなんです、と言った。
「営業の方ですか」
「長かった人です」
彼はそう答えた。
次に訊かれたのは、若い頃に辞めた会社のことだった。履歴書には名前しか書いていない小さな会社だった。入社して半年で辞めたので、面接では必ず訊かれる。
「勤務条件が、事前に伺ったものと違いまして」
私は答えた。
「朝、何時に起きていましたか」
意外な質問だった。六時くらいと答えると、面接官は初めて紙に何か書いた。
「最初の電車には、乗らなかった」
私はコップを持った。勤め先は遠く、最初の電車へ乗れば間に合った。だが私は起きられず、何度も遅刻した。そのことを、この人が知るはずはなかった。
「以前、どこかでお会いしていますか」
面接官は少し笑った。
「それは、これから決めていただければ」
意味が分からなかった。言い間違いだと思い、私も笑った。話を止めて不利になりたくなかった。
休憩を挟むと言われ、廊下へ出た。面接にはまだ二十分ほどしか経っていなかった。窓辺に紙コップの自動販売機があり、私は水を飲み直した。
壁際の椅子に、年配の男が座っていた。灰色の作業着を着て、膝の上に革の鞄を載せていた。修理の社員かもしれなかった。
「面接ですか」
男から声をかけてきた。私は頷いた。
「まだ、座り心地は悪くないでしょう」
椅子のことを言っているらしかった。家具の会社らしい冗談だと思い、そうですね、と返した。
男は鞄の持ち手を両手で擦っていた。爪が短く、指の付け根に小さな染みがあった。何かを作る人の手だった。
「ここで、長いんですか」
「長かったです」
さっき面接官が言った人かもしれなかった。
「働きやすい会社ですか」
訊くと、男はしばらく黙った。
「辞めた時のことは、よく覚えてるんです」
私は返事ができなかった。男は窓の外へ目を向けた。窓はすりガラスで、空の明るさしか見えなかった。
呼ばれて戻ると、私の椅子が替わっていた。さっきより背もたれが高く、肘掛けがついていた。修理品の試用でも兼ねているのだろうか。座ると、左の膝が机へ当たった。
面接官は、どうですか、と訊いた。
「少し高いですね」
「皆さん、最初はそう言います」
私は調節するレバーを探した。指が触れる前に、面接官が次の質問をした。
「三十六歳の時、独立を考えられましたね」
私は手を膝へ戻した。
仕事仲間と二人で小さな事業を始める話があった。会社も辞めるつもりだったが、相手が資金を出せなくなり、取りやめた。履歴書に書くことではなかった。
面接官は、相手の名字を言った。
合っていた。
私は、誰から聞いたのですか、と訊いた。前の会社へ問い合わせたのかもしれない。仕事のつながりは狭い。そう考えなければ、その場に座っていられなかった。
「ご自身が話されたことです」
「あなたに?」
面接官は答えず、机の紙を裏返した。そこに私の字があった。独立をやめた日のことが、短い文で書かれていた。相手が来なかったから助かった、と。
私はそんなことを書いた覚えがなかった。
助かったと思ったのは本当だった。
失敗しても相手のせいにできるのは、話が始まる前までだった。自分には、会社の名前を外して仕事を取る力がないのではないか。そう思っていた。それを、誰にも言わずにいた。
面接官は紙を戻した。
「こちらでは、長く続けていただける方を探しています」
私は何度も頷いた。
隣の部屋から、男の笑う声がした。廊下の人の声だった。電話をしているらしかった。
「そうだよ。あの時、お前が来なくて」
私は椅子を引いた。足元で車輪が鳴った。
面接官は私の足を見た。
「まだ終わっていませんが」
「すみません。少しだけ」
返事を待たず廊下へ出た。
男はさっきと同じ椅子にいた。携帯を持っていなかった。膝の鞄へ両手を載せ、楽しそうに壁を見ていた。
私が近づくと、顔を上げた。目元に、自分の父親に似たところがあった。いや、父親ではなかった。髭を剃る時に鏡で見る、自分の顔の形だった。
「何の話をしていたんですか」
私は訊いた。
「若い頃の話ですよ」
男は立ち上がった。壁を向いたまま、見えない相手へ、またな、と言った。
私はその人の鞄を見た。角の革が剥げ、留め金が一つ壊れていた。私が三十代まで使っていた鞄と同じだった。捨てたのは駅の近くの、ごみ集積所だった。男の鞄には、その時に貼った紙の跡が残っていた。
「返してください」
思わず言った。男は鞄を胸へ寄せた。
「これだけは、持って帰りたいんです」
受付の女が来て、こちらへどうぞ、と私を促した。私はもう面接を続けないと伝えた。女は引き留めなかった。
会議室へ戻り、自分の鞄を取った。椅子の座面には、さっきまで座っていた人の形に布が沈んでいた。尻の跡が、背もたれのほうへ大きくずれていた。深く腰掛けたつもりはなかった。
面接官は履歴書を封筒へ戻した。
「本日は、ご縁がなかったということで」
私は受け取らず、返却不要ですと言った。触りたくなかった。
面接官は初めて困った顔をした。
「職歴だけでも、確認をお願いします」
封筒をこちらへ滑らせた。私は紙を出した。自分の名と住所は合っていた。最後の勤務先も合っていた。だが、若い頃に半年で辞めた会社の欄が空いていた。独立を考えていた時期の年が、二年分飛んでいた。
私は空欄を指した。面接官は、足りないところは後日でも、と言った。
廊下から、車輪の音が近づいてきた。
私は履歴書を机へ置き、そのまま部屋を出た。階段を下りる途中、上で男が礼を言う声がした。長い間、本当に、と、同じ言葉を何度も繰り返していた。受付の女が、出口はこちらです、と答えた。
私は振り返らず、建物の外へ出た。
その会社について、後から仲介の担当へ問い合わせた。募集をした会社自体は存在し、家具の倉庫もあるという。面接担当者の名も合っていた。だが、その日の面接は、応募者が来なかったため中止と記録されていた。
担当者は、場所を間違えたのではないかと訊いた。私は住所を確認した。間違っていなかった。
仕事は別の会社で見つけた。今度は給料のことを最初に訊いた。面接では退職の理由を、用意していた通りに話した。隠していたことまで話す必要はなかった。相手も、それ以上は訊かなかった。
ただ、半年で辞めた最初の会社の話をしようとすると、事務所の場所が思い出せなかった。駅からの道も、遅刻した日に何と言われたのかも。あんなに嫌だった朝が、平らに抜けていた。
最近、古い同僚から電話があった。
私が独立を考えた時、一緒に会社を作るはずだった人だ。街で私に会い、少し話をしたという。
「ずいぶん老けたな。無理すんなよ」
私は、その場所へ行っていなかった。
彼は笑い、昔使っていたあの鞄をまだ持っているのか、と訊いた。
「あの時のこと、もういいって言ってくれてさ」
彼は、ありがとう、と言った。ずっと気にしていたのだという。電話の向こうで、声が少し震えた。
私は、自分が誰かに気にしていてほしかったことまで、覚えていなかった。
昔の同僚が泣き始めた。私はその理由を、最初から説明してもらわなくてはならなかった。


コメント