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切り揃えた爪

押入れの奥へ手を入れたら、爪を切られた。
ぱちん、と音がして、右手の中指がすっきりした。爪の白いところだけを、ちょうどよく切られた感じだった。

引っ越して三日目だった。荷物はまだ半分も片づかず、炬燵の脚を入れた袋が見つからなかった。押入れの下段には段ボールを並べ、上段には布団を突っ込んでいた。袋は、布団の後ろへ落ちていた。
腕を抜き、中指を見た。爪が短くなっている。縁が滑らかで、どこかへ引っかけて欠けたのとは違った。ほかの指の爪は伸びたままだった。
しばらくしてから、ようやく怖くなった。押入れには誰もいない。いや、誰もいないかどうか、布団を全部どかすまでは分からなかった。

私は部屋の入口へ下がり、不動産屋に電話した。人がいるかもしれない、と言おうとして、言葉が詰まった。
「押入れって、奥に何かありますか」
電話に出たのは、鍵をくれた若い女性だった。何かというのは、と聞き返され、穴とか隣へ通じるところとか、と答えた。女性は管理の者へ確かめますと言った。
電話を切るまで、押入れから目を離せなかった。布団も段ボールも動かなかった。開けた襖の前に、切られた爪は落ちていなかった。

折り返してきた管理人の話では、隣の部屋との間は壁になっていて、押入れの天板から人が出入りすることもないという。物音がするなら見に行くが、今日は夕方になる、と言われた。
私は頼むと答えた。爪のことは言えなかった。立ったまま、自分の中指へ親指の腹を当てていた。きれいに切り揃えられた角が、妙に気持ちよかった。
電話を持ったまま、もう一度その縁を擦った。何かに噛まれたのなら、手を見せて訴えられた。血も出ず、腫れてもいない。人に話す前から、たかが爪じゃないか、という声が自分の中にあった。

夕方、管理人と一緒に布団を出した。奥に袋があった。私が見つけた時と同じ位置に、炬燵の脚が四本入っていた。背板は薄く、押せば少したわんだが、穴はなかった。
管理人は小さなライトを天井へ向け、それから段ボールも全部出してくれた。私も手伝った。何も起こらなかった。
「これで大丈夫でしょう」
そう言われて、礼を言った。何を確かめてもらったのか、自分でもよく分からなかった。帰り際に、彼は私の手を見た。
「怪我してませんか」
いいえ、と答えた。私はずっと中指を押さえていた。

その日は爪を全部切ることにした。右手も左手も、足の爪まで切ってしまおう。切るところがなければ、と思ったのだ。
しかし右の薬指に爪切りを当てた時、部屋の中で別の音がした。押入れの方ではなかった。目の前で、自分の左手の、人差し指の爪が切られた。
爪切りは右の薬指へ当てたままだった。
私は左手で爪切りを握り、右の爪を切っていた。刃のある先端から離れたところで、爪切りの底を支えている人差し指。その指の先へ、ひんやりしたものが触れたのだ。
爪の白いかけらが、テーブルへ落ちた。

私は爪切りを置いた。両手を広げたまま、じっとした。
見えている左の人差し指の爪は、確かに短くなっていた。切ったのは私の爪切りではない。さっきまで爪があった場所を、見えないものが擦っていた。紙やすりのような、細かなざらつきだった。
手を引くと、そのざらつきも一緒に動いた。指先の向こうで、誰かが私の手を持ち替えた。小指の側から支え、親指を少し開かせた。
私は壁へ両手を押しつけた。見えない手の指が、壁と私の掌の間に挟まった。潰れる感じも、力を抜く感じもなかった。ただ、厚みだけがそこに残った。

玄関へ行き、靴を履いた。両手を使って紐を結べた。鍵も掛けられた。自分の手が動かなくなったわけではなかった。
でも、別のところにも手があった。
その手は、私より大きかった。誰かに指を開かれた時、小指がいつもより遠くへ動くのが分かった。掌の皮が引かれ、人差し指の付け根にあるはずのない、硬い瘤が擦れた。
外へ出ると夕飯の匂いがした。階段を下りながら、右の指を一本ずつ曲げた。目の前の指は曲がった。感じている方の薬指は、誰かに押さえられたままだった。

駅前の明るい店へ入った。カウンターに座ってうどんを頼み、割り箸を割った。
そのあいだも、片方ずつ、爪を整えられていた。痛くはなかった。爪の脇の皮を、丸いものでそっと押される。指の腹を揉まれ、掌が返される。私が汁を飲んでいる時も、相手の手は休まなかった。
爪を噛む癖のある同僚のことを、ふと思い出した。あの人なら、ここまで丁寧にしてもらえばやめられるかもしれない。そう考えた直後、吐きそうになった。私は何を、誰に勧めようとしているのだろう。

会計の時、指先が硬いものへ当たった。
店員から釣り銭を受け取った感触とは、別だった。知らない手の先に、細長い溝があった。五本の指を、その溝へ一本ずつ入れられた。
私は釣り銭を落とした。拾おうとした店員へ謝り、自分で屈んだ。掌が、向こうでも下を向いた。
その瞬間、溝の底で何かが動いた。一本ずつ入れられた指へ、下から小さなものが巻きついた。柔らかく、生温かかった。
指を抜こうとしたが、抜けるのは目の前の自分の指だけだった。私は何もないところから手を引き、何度も掌を返した。店員がこちらを見ていた。

家へ帰りたくなかった。友人の慎二へ電話し、今夜泊めてくれないかと頼んだ。理由を聞かれ、押入れに何かいる、と答えた。
慎二は笑わなかった。住所を言え、と言い、車で迎えに来てくれた。
車へ乗る時には、向こうの手は溝から出されていた。濡れた指先を、何かで包まれていた。私の指は乾いている。濡れているのは、私ではない手だった。
車の中で、爪のことから順に話した。どんな手だ、と慎二に聞かれた。分からない、と答えた。見えないのだから、そう言うほかなかった。

慎二の家で話しているうちに、だんだん分かってきた。
人の手ではなかった。
指を開かれるたび、付け根が違うところにあった。私の小指に当たるものは、ほかの指よりずっと長かった。親指だと思っていたものは、掌の内側へ曲がり込んだ。力を入れると、腕まで一緒に、二つに割れそうな感じがした。
「今、何してる」
慎二が訊いた。
「拭かれてる」
「誰に」
「分からない」
彼は返す言葉がなくなり、私の前へお茶を置いた。

私は実際の手を彼に見せた。彼は右の中指と左の人差し指を見比べ、爪の長さが違うな、と言った。
見られているうちに、ぱちん、と鳴った。
右手の親指の爪が、斜めに落ちた。慎二の顔の前だった。彼は椅子を蹴るようにして立ち、私も立った。どちらも何も触っていない。
「今の」
慎二はそこで黙った。私の親指の先へ、血が小さく丸く盛り上がった。今度は少し切りすぎていた。
指を押さえると、向こうでも同じ場所を押された。湿ったものが当たり、じんと温かくなった。ひどく丁寧だった。

病院へ行こう、と慎二が言った。私は頷いた。
車へ乗るまで、私は両手を握っていた。握れば、目の前の指は全部、掌の中に入る。それでも向こうでは開かれたままだった。指の間を柔らかいものが通り、一つずつなぞられていく。
助手席で、右の肘の内側を何かが触った。
それまで感じていた、手首や掌のすぐ近くではなかった。ずっと遠くにあったものが、こちらへ触れた感じがした。上着の袖をまくったが、何もいなかった。
慎二が信号で止まり、私を見た。
「痛い?」
私は首を振った。痛いのとは、違った。

向こうにあるものが、ゆっくり立ち上がった。
足で地面を押す感じはなかった。長い指の先が、床に触れた。さっき溝へ入れられた指だった。それで、身体を支えた。
私の掌の下へ、硬い床の手触りが来た。膝も、肘も、頭もそこへ近づいた。車の座席に座っている私の身体は、そのままだった。なのに、前のめりになった大きなものが、自分の体の形をほどくようにして歩き始めた。
長い指が、一本ずつ床をつかんだ。
切り揃えられた爪が床を掻き、肩まで、ざらついた振動が上がった。

私は慎二の名前を呼んだ。何を頼みたかったのか、分からない。
車は大きな通りへ出ていた。街灯が何本も、窓の外を通った。慎二が、もうすぐ着く、と言った。
私は両手を持ち上げていた。車にも、自分にも触れていない。それでも掌の下では、湿った床と乾いた床が交互に過ぎた。段差が来ると、指を大きく開いて乗り越えた。
少し先に、柔らかいものがいた。向こうの手が、そこへ伸びた。
私の指先に、誰かの髪が触れた。

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