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塗ってしまえば

清水には、大学の頃からひとつ嘘をついていた。
俺には幽霊が見える、と言っていたのだ。
別に金を取ったことはない。ただ、飲み会で話が途切れた時や、女の子と二人になった時などに、少しばかり都合がよかった。いるとかいないとか言えば、誰かがこちらを見た。大抵はその晩かぎりで忘れてくれた。清水だけが、十年も覚えていた。

家を買ったので見に来てくれ、と連絡が来た。
古い団地の一室だった。ずいぶん安かったそうだが、値段を聞いても、得なのかどうか私には分からなかった。私たちは二人とも独身で、清水はもう一生そこに住むつもりらしかった。
「いい場所なら、何も言わなくていい。まずいものがいたら教えて」
電話の最後にそう言われた。
今になって、本当は何も見たことがない、と言うのは恥ずかしかった。行って飯を食って帰れば済む。そう考え、土曜の昼に訪ねる約束をした。

部屋は四階にあった。階段で息が切れ、玄関を開けてくれた清水に、エレベーターがないじゃないか、と文句を言った。
「だから安いんだよ」
中は明るかった。窓が広く、向かいの棟まで距離があった。清水は買ってきた寿司をテーブルへ並べ、私が渡した菓子を早速開けた。昼間からビールを飲んだ。
壁はだいぶ汚れていた。クリーム色だったらしい面が茶色くくすみ、家具を置いていたところだけ四角く白かった。清水は業者へ頼まず、自分で塗り直すという。
「こういうの、やってみたかったんだ」
ソファの代わりに座っていた箱の中に、塗料と刷毛が入っていた。

変なところはないか、と聞かれたのは、二本目を開けた時だった。
「ないよ。いい家じゃない」
そう答えると、清水は箸を止めた。
「本当に?」
私は台所、窓、隣の部屋へ順番に顔を向けた。何もないところをそれらしく見るのは、昔、よくやったことだった。
それから、清水の後ろに男がいるのに気づいた。

いや、最初は男の形をした染みだと思った。
窓と押入れの間だった。裸の男が壁へ背をつけ、気をつけをしているように見えた。頭のところが丸く、胸の下に二本の細い線があり、脚が長かった。全体が壁より少し濃い茶色をしていた。
清水は私の視線を追わなかった。
「そこ、気になるんだよな」
私は黙っていた。
「染みだと思ってるんだけど。家具の跡にしては変だろ」
男の顔には目も口もなかった。膝に当たるところだけ、皮をつまんだような小さな皺があった。

「染みだろ」
口に出すと、それ以外の言い方ができなくなった。清水は、そうか、と笑った。
私も笑った。何も見えていない人間に話すような大きな声が出た。
「塗っちゃえば分からないよ」
清水は何度も頷いた。それから、寿司を食べ終わったら手伝ってくれないか、と言った。飯をご馳走になり、ビールまで飲んだ私は断りにくかった。濡れた壁を背に、一日何も起こらなければ、自分も安心できる気がした。

床に新聞紙を敷き、低い棚を部屋の真ん中へ動かした。清水は私に古いシャツを貸した。刷毛は二本あった。
私が染みのない側を塗り始めると、清水は例の男の足元に屈んだ。塗料を含ませた刷毛で、下から上へ白くしていく。
足首、ふくらはぎ、膝。
刷毛が膝の皺を通る時、清水の肩がぴくりと動いた。
「引っかかるな」
私は見ていないふりをした。自分の前の壁へ、同じ幅の白い線を重ねていた。

昼過ぎには半分ほど終わった。白くなった壁の前へ立つと、部屋全体が少し広く感じられた。染みも消えていた。
清水は満足そうだった。残りは明日やるからと、私の刷毛も一緒に洗いに行った。
その時、壁が息をした。
白い面の一部が手前へ膨らみ、静かに戻った。人が腹で息をする時の動きだった。
見間違いだと思いたくて、視線をそらさなかった。もう一度、同じところが膨らんだ。男の胸は、周りの壁と同じ白さになっていた。

清水を呼べなかった。
私の目の前で、胸の両脇に細い線が開いていった。腕と胴の間が離れたのだった。男は壁から身を起こし、首を片方へ傾けた。足の裏が新聞紙へ下りると、紙のしわが一枚ずつ潰れた。
背後には、塗られていない茶色の壁が残った。細長い、人の形だった。
白い男は足音もなく、部屋の隅へ移った。
私は後ずさりし、棚に腰をぶつけた。白い壁を背にすると男の胴体は見えなくなった。塗り残した黒い小さな穴が二つ、顔のあたりに浮いていた。目だった。

水を止める音がして、清水が戻った。
「どうした」
私は口を開けたまま、部屋の隅を指した。清水は私の指先を見て、少しだけ眉を寄せた。
「まだ出る?」
まだ、という言葉を聞いた。
清水は隅へ歩き、黒い穴の間へ手を差し出した。額のあるはずのところへ、人差し指の先が触れた。白い塗料が指へついた。
男は動かなかった。
清水はその指を自分のシャツで拭き、私へ向き直った。
「これも、そういうのじゃないんだよな」

清水に見えていないわけではなかった。
私は壁の塗り残しを指し、それから男のいる隅を指した。人の形で、動いた、と言った。途中で声が裏返った。
「それは知ってる」
清水は、そんなことを言った。
越してきた晩からいたらしい。朝は壁と同じところに立っていて、夜になると部屋の中を歩く。冷蔵庫の前にいたり、風呂場で上を向いていたりする。触っても何もしない。声も出さない。
「でも、何なのか分からなかったから」
清水は、洗った刷毛を右手へ持ち替えた。
「貯金、ほとんど使ったんだよ。出ていけって言われたらどうしようと思ってた」
それで、私の到着を待っていたのだった。
「お前が来るまでは、ちょっと怖かった」

私は、見えるなんて嘘だった、と言った。
言い終わるまで清水は黙っていた。怒ると思った。十年も馬鹿にしていたのかと殴られても、仕方がなかった。
ところが清水は、唇だけで笑った。
「今は、見えてるだろ」
見えていた。目の二つの穴が、ゆっくりこちらへ向いた。壁に残った茶色い人型の跡も見えた。
「見たことないんだ。こんなの」
「俺だってないよ」
清水はそう言って、床の塗料缶へ刷毛を浸した。男が立っていた部分を白く埋め始めた。

私は荷物を取りに行った。テーブルの下の鞄へ手を伸ばすと、そのすぐ横に白い膝が差し込まれていた。
隅にいた男が、いつの間にかテーブルのそばへしゃがんでいた。まだ濡れた足首に、新聞の文字が逆向きについていた。爪はなかった。足先が五つに分かれず、丸い袋のようになっていた。
鞄の紐だけをつかみ、引いた。
脚が動いた。
私の手首へ冷たいものが軽く触れた。つかまれたのではなかった。白い指が一本、私の甲に置かれていた。私は紐を放した。その指も、すぐに離れた。

清水、と呼んだ。
振り返った彼の顔には、さっきまでの笑いがなかった。刷毛から、白い雫が畳へ垂れた。新聞紙を外れた場所だったが、清水は拭こうとしなかった。
「俺の時は、触ってこなかった」
私たちは男を見た。
身体は壁より近くにあるのに、同じ白さのせいで距離が分からなかった。二つの目だけが、私の顔の高さまで上がってきた。男は膝を伸ばしていた。立ち上がっても立ち上がっても、まだ上に頭があった。
その腹のあたりで、小さく塗料が割れた。横向きの細い線ができた。

清水が玄関へ走った。
私も続こうとしたが、鞄を踏んで転びかけた。棚へ手をついて身体を戻した時、白い腹がすぐ前にあった。
線が開いた。
中には、乾いた灰色の歯が並んでいた。口だった。息が頬へ当たり、塗料の匂いが鼻へ入った。
私は壁へ背を押しつけた。男の腕は、私の両脇へ下りていた。
玄関の戸が大きく開く音がした。清水が戻ってきて、私のシャツの肩を引いた。男は避けなかった。清水も私も、白い身体の縁を擦りながら通った。上がり框で片足だけ靴へ突っ込み、つまずきながら戸を出た。

階段を二階分下りて、二人とも足が止まった。
清水は裸足だった。私は片方だけ靴を履いていた。胸の前で何かが鳴るので見ると、借りたシャツの布が薄く固まっていた。白い塗料がべったりついていた。
清水はそれに触ろうとして、手を引いた。
「塗ればいいと思ったんだ」
彼は小さな声で言った。私が言わせた言葉だった。
返事をしようとした時、上の廊下で、何かが手すりに当たった。

白い塊が、階段の途中からこちらを覗いていた。
部屋の壁から離れても、その身体には、団地の階段の灰色が映っていた。塗料が乾きかけるところから、少しずつ周りと同じ色になっていった。
清水が私の腕を引いた。上から、何かがぴたぴたとついてきた。
一階の出口は明るかった。二人でそこを抜け、駐輪場を回って大通りまで走った。

買い物帰りの女の人が、道の真ん中で不意に身をひねった。
何かとぶつかりそうになり、避けたように見えた。女の人は変な顔をして後ろを見たが、そのまま歩いていった。
私たちは足を止めていた。
「どこにいる」
清水が、私のシャツをつかんだ。私は答えられなかった。自転車を押した老人が一人、歩道の端へ大きく寄った。小さな子を連れた母親が、その子を持ち上げた。
人が避ける場所が、少しずつこちらへ来ていた。

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