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対岸の昼

男を降ろした岸は、帰りに振り返ると、もう水の下だった。

崖も木も沈んでいたのではない。さっきまで平らな土が続き、男が靴を鳴らして歩いていった場所を、水面が覆っていた。私は櫂を止めた。向こうの山が、湖を回るように動いていた。近くの切り立った岩は、少しも動かなかった。

その夏だけ、小さな貸し舟の番をした。祖父の知人が営んでいた店で、主に釣り客へ木の舟を出していた。腰を傷めた主人が人を探し、資格試験に落ちて時間のあった私に、祖父が話を持ってきた。私は舟を漕ぐのが得意ではなかったが、係留と掃除、救命胴衣の受け渡しならできた。

月曜日は客が少なく、主人も昼から町へ出かけた。私が桟橋の板を拭いていると、背広を着た男が歩いてきた。上着は腕に掛け、紙袋を一つ持っていた。釣り客ではない。向こうへ渡してくれ、と言われた。
「貸し舟ですよ。渡しじゃなくて」
私は料金の札を指した。男は少し困り、それでは一緒に漕いでもらえないかと頼んだ。

向かい岸に何があるのか訊いた。林しかない場所だった。男は、店、と言った。
「昼に帰るって、言ってあるんです」
私は時計を見た。一時半を過ぎていた。男は腕時計をしていたが、見なかった。店の主人へ電話した。近い岸なら私が舟を出してもよいが、風が強くなったら戻るよう言われた。客が何を探しているのかは、自分で確かめろという。

男は救命胴衣を着るのに手間取った。片手で紙袋を持ち続け、下へ置かない。何が入っているのか聞くと、昼飯だと答えた。袋の底に油が滲んでいた。私は舟の床へ自分のタオルを敷き、その上なら置けると言った。彼は礼を言い、ようやく両手を空けた。私も昼に食べるつもりで買ったパンを舟の隅へ置いた。

漕ぎ出してしばらくは普通だった。男は船縁を持ち、足を揃えて座っていた。私は左右の櫂へ交互に力を入れ、思った場所へ進めない自分を気にしていた。男は急かさなかった。袋が倒れそうになると、片手で支えた。油の匂いが漂い、私も昼飯をまだ食べていないことを思い出した。

湖の中ほどへ来たとき、男が、あそこです、と言った。私は舟を止めた。木の間に小さな屋根が見えた。赤いトタン屋根で、軒先に人が立っている。さっきまでその場所へは、水が直に岩へ当たっていたはずだった。
「前から、店があるんですか」
「ええ」
「道は?」
「今日は、通れなくて」

男は足元の紙袋を見た。私は向かいの屋根を見続けた。近づいているはずなのに、家は大きくならなかった。背後の山だけが左へ流れていく。舟が横へ向いてしまったのかと櫂を止めたが、山はそのままゆっくり動いた。近くの岩と家は、同じ場所に残っていた。

私は桟橋の方を見た。白い係留の柱が見えたので、ほっとした。あそこへ戻れるうちは大丈夫だと思った。
「きょうは、どこから来たんですか」
男は少し考え、店を出て、弁当を買いに、と答えた。
「昼前に?」
頷いた。
「歩いて?」
また頷いた。私は何を訊いているのか分からなくなった。店から歩いて来て、舟でしか戻れないところに店がある。

岸にいた人が手を振った。男は立ち上がりかけ、舟が揺れた。私は座ってと強く言った。男は言われた通りに座り、紙袋を膝へ載せた。顔が青くなっていた。水面を見ている。袋の底の油が、ズボンへ広がった。
「覚えてないんです」
彼は小さく言った。
私は黙って櫂を持った。
「来た道も、一緒に出た人のことも。弁当は二つあるんですけど」

男が袋を開けた。同じ紙に包んだ弁当が二つ入っていた。温かい湯気が少し上がった。私は手を止め、男の顔を見た。一時間半以上前に買ったのなら、冷めていてもよさそうだった。
「歩いてたら、ひとりになってました」
誰かと来たことだけは覚えている。道を間違えたのかもしれないと思い、戻ろうとしたが、振り返る方向が分からなくなった。そこで舟の店を見つけたのだという。

私は主人へ電話しようとした。電波がなかった。岸ではつながっていた。舟を戻すと男へ伝えた。あの岸へは行けない。私では分からない。男は顔を上げ、もう見えてるのに、と言った。
「人がいるでしょう」
軒先に立つ人は、まだ手を振っていた。男の方へ振っているのか、私の方へ振っているのか分からなかった。

舟を回すと、屋根が私の背後へ回った。櫂を何度か動かした。係留柱へ向かっているはずなのに、男の背後に同じ屋根があった。私は反対へ回した。今度は桟橋が見えなくなり、岩が一つだけ見えた。岩の白い傷は、最初から同じ形だった。
岸が動いている。そう思ったが、それでは舟の向きも、帰る方角も確かめようがなかった。

男が、下ろしてください、と言った。
「ここ、近いから」
彼が指す岸は、すぐ櫂の先にあった。低い土の浜で、水際へ古い木箱が置いてある。赤い屋根とは別の場所だった。私はその浜を見たことがなかった。
「あそこでいいんですか」
「歩けば、帰れます」
男はもうこちらを見ていなかった。袋を胸へ抱え、片足を舟の前へ寄せた。

私は舟を岸へつけた。自分の足を岸へ下ろすのは怖かったので、櫂を土へ当てて支えた。男は礼を言い、救命胴衣を脱いだ。紙袋を片手に持ち替えると、もう一方の手で舟を押さえてくれた。ありふれた親切だった。
「そっちは、店と違いますよ」
私が最後に言うと、男は、知ってます、と答えた。
それから土を踏み、屋根の見えない林へ入っていった。

男の姿が見えなくなると、紙袋の油の匂いも消えた。

私はすぐ舟を離した。さっきまで回れなかった舟が、軽く向きを変えた。振り返ると岸は水だった。男を下ろした土も、古い木箱もない。私は声を上げた。名前を聞いていなかったので、ただ、すみません、と呼んだ。返事はなかった。

櫂の先へ泥がついていた。岸はあった。自分が漕ぎ疲れて場所を見間違えたのではない。そのことだけは確かだった。私は水へ櫂を入れず、膝へ載せた。男を乗せて来て、どこへ下ろしたのか。それを説明できないまま戻ってよいとは思えなかった。

遠くに係留柱が見えた。私はそちらへ漕いだ。途中で、水の下に赤い屋根が見えた。深く沈んでいるのではなく、ほんの薄い水の膜をかけたように、瓦礫もない屋根が静かにあった。私は舟を止めなかった。岸の人が何を振っていたのか、今になって分かりそうで、分かりたくなかった。

店へ戻ると、主人はもう来ていた。遅いと怒られた。時計は三時を過ぎていた。男をどこへ下ろしたか聞かれ、向こうの岸、と答えた。迎えに行く必要があるなら、と主人は舟へ近づいた。私は腕を掴んだ。
「いまは、行かないでください」
主人は手を離せと言った。私は離せなかった。泥のついた櫂を見せ、何があったか全部話した。

主人は話を聞くと、舟を桟橋へ縛った。私の代わりに通報し、最後に見た場所を説明した。警察に聞かれて、男の服、顔、紙袋を話した。紙袋に店名がなかったかと訊かれたが覚えていなかった。男の名前は最初から聞いていない。

翌日も男は見つからなかった。捜している人からの連絡もなかった。私は自分のしたことが、行方不明者を増やしたのか、間違って来た人を戻したのか、分からずにいた。主人はしばらく客を出さず、私にも店へ来なくていいと言った。

最後に荷物を取りに行くと、舟の中へ紙の包みが一つあった。男の弁当ではなかった。私があの日食べずに置いていった、自分のパンだった。私は見つけて安心し、それから袋へ触れた。まだ温かかった。買ったときは冷たいパンだった。

私はそれを食べず、持ち帰った。その後は普通に冷え、普通に硬くなった。捨てるときも何も起きなかった。だが、あの日から昼の光を見ると、目の奥が重くなる。

家の窓から見る夕方の空は赤くなる。仕事帰りの道も暗くなる。それなのに、昼に一度見た場所をもう一度通ると、私にだけ日が残っている。誰かと一緒なら、目を閉じてその場所を過ぎる。ひとりの時は、立ち止まって人が来るのを待つ。

先日、駅前のパン屋の前で動けなくなった。閉店の札が出ているのに、窓の内側は真昼の明るさだった。奥から背広の男が出てきた。紙袋を二つ持っていた。
私は店の戸へ手を掛けなかった。
男は窓越しに私を見て、一つの袋を上げた。先に食べていてもいいのに、という顔をしていた。

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