担架を持つ手を替えると、顔が変わった。
猪の顔だったはずなのに、右から覗くと人の頬が見えた。布をかけた頭の一部だけで、誰なのかまでは分からなかった。三谷は反対側へ回り、もう一度覗いた。黒い鼻と、短く硬い毛があった。
「そのまま見といて」
後ろを持つ野崎に言うと、彼は顔をしかめた。
「何を」
「猪に見えるかどうか」
二人は役場から頼まれ、林道脇の死んだ獣を回収に来ていた。普段は廃棄物を運ぶ会社で働いている。専門の職員が行けないときだけ、こういう仕事が回ってくる。三谷は何度か経験していたが、野崎は初めてだった。気分が悪くなるかと聞くと、工場の掃除の方がきついですよ、と答えた。
死骸は沢から少し上がったところにあった。朝、通りかかった猟師が見つけ、車を止める場所まで目印をつけてくれた。猪は横向きに倒れ、腹の下へ草が深く入っていた。傷は見えない。三谷は一度車へ戻って袋を追加し、二人で近づいた。
目がなかった。
鳥に食われたのだろうと三谷は思った。鼻先は湿り、耳にも傷がない。死んで間もないのかと顔を寄せると、野崎が袖を引いた。
「さっき、こっち見ました」
三谷は目のあった穴を見た。空だった。
「これで?」
言ったあと、笑わなかった。笑えるような明るさが、周りからなくなっていた。
大きさの割に軽かった。二人で厚い布へ転がし、簡易な担架へ載せた。頭を沢の方へ向け、足元側から運ぼうとすると、野崎が先を持つのは怖いと言った。三谷は黙って持ち替えた。そのときだった。布の隙間に、人の頬があった。
三谷は担架を下ろした。野崎もすぐに手を離した。布をめくると、猪が載っていた。目のない顔が空を向いている。もう一度被せ、横から持つと、人の耳が見えた。耳の裏へ青い筋があった。三谷の父親の耳によく似ていた。
父は海で仕事をしていた。何年も前に沖で事故に遭い、体が戻らなかった。三谷は顔を見ていない。似ていると思ったのは、古い写真で帽子の縁から出ていた耳だった。そう考えた途端、人の頬が少し痩せた。写真の父の頬へ近づいた。
三谷は布の中を見ないよう、顔を上げた。
「誰に見える」
彼が聞くと、野崎は答えなかった。
「男か、女か」
「女です」
野崎は布の端を指でつまみかけ、手を戻した。
「誰か分かる?」
「知らない人です」
その返事は速すぎた。
会社へ電話し、人の遺体かもしれないと伝えた。上司は二人ともその場で動くなと言った。近くの駐在所へ連絡を入れ、確認を頼む。三谷は少し安心した。これ以上、自分たちの判断で運ばずに済む。
野崎は立ったまま沢を見ていた。水の中を白いものが動いていた。細長い布を立てたように、川底へ触れず流れていた。三谷がそちらへ向くと、野崎は目を逸らした。担架は二人の間へ置いてあり、さっきから地面にめり込んでいるように見えた。重さが増しているのかもしれない。三谷は触らなかった。
警察官が来た。三谷の知っている人だった。道を間違えなかったかと聞こうとしたが、声が出なかった。警察官は布をめくり、猪ですね、と言った。
「もう一度、持ってもらえますか」
三谷が頼むと、なぜかと聞かれた。持つと人に見える。そう答えると、警察官は野崎の顔も見た。野崎は頷かなかった。
三谷は一人で前を持ち上げた。布の下に父の顔があった。もう耳だけではなかった。濡れた眉が額へ貼りつき、閉じた口の端から水が流れた。三谷は警察官へ見せようとしたが、相手は眉を寄せたままだった。
「下ろしてください」
言われた通りにすると、猪だった。
警察官は写真を撮った。人ではないと確認し、役場へ連絡した。三谷は野崎に、一緒に説明してくれと目で頼んだ。野崎は俯いたまま、猪だと思います、と言った。そのひと言で仕事が戻ってきた。
警察官が帰ると、三谷は野崎を責めた。
「お前も見たんだろ」
「何をって聞かれたら、分かんないんですよ」
「さっき女だって」
「知らない女です」
野崎は声を強くした。三谷はそれ以上を聞けなかった。自分も父だと説明すれば、父を見たいだけではないかと思われる。それを野崎にさせようとしていた。
二人はもう一度持った。三谷には父に見えた。野崎は目を閉じるように細め、布の縁を見ていた。担架を上げると、水が布の下から落ちた。猪のいた土は乾いていた。水は三谷の長靴へ流れ、冷たかった。
人を運んでいるように歩いた。担架を傾けず、枝が顔に当たらない高さを探し、声を掛けて段差を越えた。三谷が初めて回収した獣は、車へ積むまでに何度も地面へ擦れた。それとはまるで違う扱い方をしていた。足を止めるたび、父の体がもっとはっきりした。
野崎が自分の手首を見た。
「いま、あの人が」
声を詰まらせ、担架の上へ顔を向けた。布の下から白い手が出て、野崎の手首へ触れていた。三谷には猪の前脚に見えたが、先に人の爪があった。野崎の腕を撫でると、布の中から女の笑い声がした。
三谷は担架を下ろした。手は消えた。野崎も手を離し、自分の腕を擦った。
「誰なんだ」
三谷が聞くと、彼は首を振った。
「まだ死んでないんです」
それだけ言って、車へ戻りかけた。三谷は呼び止めた。
担架へ猿が一頭近づいてきた。
若い小さな猿だった。こちらを窺い、二人が動かないと分かると、布の端を鼻で嗅いだ。三谷は追い払おうと腕を上げた。猿は両手を顔の前へ上げ、少し背を丸めた。殴られると思った子供のようだった。野崎が、やめて、と言った。三谷は腕を下ろした。
猿は布を引いた。猪の顔が見えた。目の空いた穴を覗き、しばらく動かなかった。それから三谷へ顔を向け、口を開いた。鳴かなかった。三谷には、その口の奥に小さな歯が幾列もあるように見えた。猿は後ずさりし、藪へ消えた。
野崎が座り込んだ。三谷も担架から離れて腰を下ろした。運ぶのをやめれば、獣のままここへ残る。運べば自分には父になる。三谷は長靴の水を見た。どちらにしても、猪として焼くところへ持っていくことだけはできなくなっていた。
役場へ電話し、二人とも具合が悪く、作業を続けられないと伝えた。別の手配をするまで、目印と場所を残すよう言われた。三谷は承知した。まだ遺体だと思うのかと聞かれたが、それには答えなかった。野崎は電話が終わるまで目を閉じていた。
布を外し、担架を抜くことにした。道具は持ち帰らなくてはならない。三谷は獣の背を押そうとして、手が止まった。猪に触っているはずなのに、父の背中の厚さを知ってしまう気がした。野崎が自分の上着を丸め、布の上へ置いた。三谷も同じようにした。二人で衣服越しに押し、担架から横へ転がした。
何も落ちなかった。
布が平らになり、二枚の上着だけがずれた。猪はいなかった。土には重い物の跡が残り、沢から水を上げたような細い筋が続いていた。三谷は布の下まで見た。野崎はもう見なかった。
「行きましょう」
彼は言った。上着を取り、裏側を外にして丸めた。
帰る道で、三谷は一度だけ立ち止まった。後ろから父に呼ばれた気がした。声ではなかった。肩へ手を置かれる前に体が反応する、あの感じだった。野崎が歩き続けたので、三谷もついていった。車まで二人とも口を開かなかった。
後日、役場からは獣が見つからなかったと連絡が来た。警察官の撮った写真には猪が写っている。誰かが持ち去ったのだろうということになった。三谷も野崎も、それ以上のことは聞かれなかった。
三谷は担架を洗って倉庫へ戻した。まだ使っていない。今でも仕事の終わりに近くを通ると、誰かが背を起こす気配がする。肩へ触れられそうになる前に、自分から振り向いていた癖だけはやめた。
野崎は春に会社を辞めた。別の仕事が決まったのだという。最後の日、三谷は食事へ誘ったが、家で食べると言って断られた。家に誰がいるかは聞かなかった。野崎が帰る車の助手席に女がいた。見覚えはなかった。女は三谷へ会釈したが、窓の内側から、片手で自分の目を隠していた。


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