雨の日に村瀬さんの机を覗くと、靴の下に草があった。一本だけ、灰色のカーペットを割って出ていた。雑草の名前は知らない。細い葉が二枚あり、その間へ小さな水滴が挟まっていた。
私は入社して四か月目だった。会社は雑誌に載せる広告を作っていた。村瀬さんは組版を担当し、私は原稿を整理して彼女へ渡した。最初の仕事で、消してはいけない名前を消してしまったときも、彼女が納品前に見つけてくれた。
「間に合ううちなら、間違えてもいいよ」
そう言う人だった。私は何でも村瀬さんへ聞くようになっていた。
草を見つけた朝、私は紙屑だと思って拾おうとした。村瀬さんが椅子を後ろへ引いた。
「そこ、濡れてるから」
靴は乾いていた。ストッキングにも水の跡はなかった。机の下だけ、雨上がりの公園の匂いがした。
掃除機を持ってきましょうかと訊くと、彼女は、小さいからいい、と答えた。自分で抜くとは言わなかった。
その日、村瀬さんが辞めたいと思っていることを初めて聞いた。退職する後輩への寄せ書きを回していたら、私も書かれる側になりたいな、と彼女が呟いたのだ。軽い口調だったので、困りますよ、と私は笑って返した。
「私、一人で何もできないです」
村瀬さんは、もうできるでしょう、と言った。そのあと何か続けかけたが、内線が鳴って話は終わった。
夕方、廊下へ泥の足跡が続いていた。会社は四階にある。窓から誰かが泥を投げ入れるような場所ではない。跡は女性の細い靴の形で、事務室から階段へ向かっていた。
私は村瀬さんの席を見た。背中を丸めて画面を見ていた。足元の靴と泥の跡は、踵の細さまで似ていた。彼女がいったん外へ出て戻ったのなら、逆向きの跡もあるはずだった。
総務の西尾さんへ言うと、明日掃除が入るから、と返された。村瀬さんの机の草も伝えた。西尾さんは聞こえなかったように給湯室へ入り、戻ってから、飲み物こぼしたんじゃない、と言った。
私も、それ以上言わなかった。まだ、何をしつこく言っていい会社なのか分からなかった。
金曜日、仕事が長引いた。月曜に渡す広告の写真が差し替わり、村瀬さんの画面で配置を見ながら、私が電話で客先に確認していた。九時を過ぎても彼女は靴を脱がなかった。
足がむくみませんか、と訊くと、むくまなくなった、と返事をした。目は画面から離れなかった。私は自分の椅子を持ってきて、隣へ座った。
十一時前に終わった。村瀬さんへ帰りましょうと言ったが、あと少し、と言われた。何が残っているのか訊くと、明日の分、と答えた。
土曜日は休みだった。私は彼女の机の端にあった本を見た。植物園の写真集だった。付箋が何枚も挟まっている。彼女は私の視線に気づき、本を閉じた。
「家だと、開く前に寝ちゃうんだよね」
先に退社し、駅へ向かう途中で村瀬さんを見た。歩道橋の下にいた。黄色いスカートだったから、遠くからでも分かった。追いつこうとして走ったが、彼女は人込みへ入ってしまった。足が速かった。会社で見る村瀬さんは、いつも静かに、机を避けながら歩いていた。
そのとき初めて、私は彼女の顔を見ていないと気づいた。
月曜日、村瀬さんは同じ黄色のスカートを履いていた。金曜のことを話すと、駅へは行っていないと言った。
「タクシーで帰ったんですか」
「帰ってないの」
言い終わってから、彼女は小さく首を振った。
「いや、帰った。ごめん。ちょっと覚えてない」
引出しから櫛を出して、髪の片側だけを何度も梳いた。
私は西尾さんへ相談した。村瀬さんが休めていないのではないか。仕事が集中しすぎているのではないか。西尾さんは、本人に言われたの、と訊いた。
違います、と答えると、じゃあ大丈夫、と言った。
「村瀬さんはああ見えて、家にいるより会社のほうがいい人なの。皆それぞれ事情があるから」
事情という言葉を聞くと、私には先が言えなくなった。
次の雨の日、机の下の草が増えていた。踝の高さまで伸び、靴の周囲を囲んでいた。村瀬さんの靴は、少し土に沈んでいるように見えた。カーペットの上には、土などなかった。
私は屈んで、足、どうしたんですか、と訊いた。
村瀬さんが画面の明るさを落とした。
「会社では、見なくていいよ」
怒ってはいなかった。目を合わせないので、むしろ辛かった。
昼休みに誘って、外へ出ようとした。近くの定食屋が新しいメニューを出していると言った。彼女は鞄を探すふりをして、家から持ってきたから、と答えた。机に弁当箱はなかった。私は買ってきます、と立ち上がった。
「一緒に行かなくて、ごめん」
背中にそう言われた。私は、そんなつもりじゃないです、と振り返ったが、村瀬さんはもう仕事をしていた。
弁当を二つ持って戻ると、彼女の席は空いていた。よかった、立てるのだと思った。
すぐ、違うと分かった。村瀬さんは机の下にいた。床へ横になり、手を伸ばして、奥を探っていた。靴が二つ、机の脚の間へ揃っていた。彼女のスカートの裾には何も続いていなかった。
私は弁当を落とした。
村瀬さんは、見つかった、と言った。草の間から細いベルトを引き出した。靴の足首へ回す部分だった。
「片方だけ、持っていったんだ」
どこへ、と私が訊くと、さあ、と答えた。机の縁へ両腕を掛け、身体を上げた。私は反射的に彼女の脇を支えた。抱えた重さが、あまりに軽かった。椅子へ座らせると、裾は膝のあるはずのところで凹んだ。
救急車を呼ぼうとして電話を出した。村瀬さんが私の手を掴んだ。
「説明、できる?」
私はできないと言った。でも来てもらうからと続けると、彼女は手を離した。その指には、土が詰まっていた。
電話が繋がる前に西尾さんが戻った。私を見て、どうしたの、と訊いた。私が指す先で、村瀬さんの足が揃っていた。草の上に、同じ靴を履いて。
西尾さんは、急に立ったから貧血でしょう、と言った。村瀬さんは俯いていた。私には、足が付いているようには見えなかった。膝とスカートの間に、暗い隙間があった。二本の脚が、それぞれ別に椅子の下へ立っていた。
私は呼び出しをいったん止め、相談窓口へかけ直した。本人が倒れて回復したが受診させたい、とだけ伝えた。相談した先からは、本人の意識と様子を確認して受診を勧められた。村瀬さんは明日行くと言った。
結局、彼女が病院へ行ったか、私には確かめられなかった。私は直属の上司にも見たことを伝えた。返ってきたのは、本人を追い込まないように、という言葉だった。仕事は減らされず、私だけ村瀬さんの席へ頻繁に行かないように言われた。
彼女はそのあと、私の作った原稿を一つだけ直し、赤いペンで、これなら大丈夫、と書いてくれた。
雨が止んだ夕方、もう一度、黄色いスカートを見かけた。今度は会社の裏の空地にいた。草が膝まで生えている。古い駐車場だったが、工事待ちで柵が半分開いていた。
そこに立っていたのは、村瀬さんの腰から下だった。スカートの上は平らで、ベルトのところへ、白い裏地が折り返されていた。裸の傷口は見えなかった。風に揺れる裾の下で、片方の靴が土を掘っていた。
私は声を掛けた。脚は向きを変えた。私へ来るのかと思って下がると、追ってこなかった。草のあるほうへ一歩移り、爪先でゆっくり地面を踏んだ。
村瀬さんの写真集を思い出した。私は会社へ戻り、彼女に、裏にいます、と言った。
村瀬さんは暫く目を閉じた。
「そこまで行けたんだ」
連れてきましょうか、と私は訊いた。彼女はすぐ首を振った。私は、でも、と続けた。村瀬さんが机の上の写真を片づけ、まだ半分残った仕事を開き直した。
「あなたも、連れ戻すの」
私は椅子から手を離した。
その週、村瀬さんは長いスカートへ替えた。歩くところを見なくなった。私が帰るときには机におり、朝来ても机にいた。受け取った原稿は丁寧に直され、締切に遅れたことはなかった。私も一人で作業を覚えた。もう教えてもらわなくていいはずなのに、彼女の席が空くことはなかった。
空地の草は、工事が始まる前に刈られた。その日、私は会社を休んだ。窓を開けて家にいると、昼前、外を細い踵の音が通った。足音は一度止まり、また遠ざかった。
翌朝、村瀬さんの机へ行った。草は全部枯れていた。私は旅行のパンフレットを渡し、今度は休みを取って行きませんか、と言った。
村瀬さんは受け取った。表紙の花畑を長く見ていた。それから紙を裏返し、余白に小さく、もう行ったよ、と書いた。
彼女の椅子の下へ、新しい靴が置いてあった。私が昨日、玄関で脱いでいたのと、同じ靴だった。


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