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黒板の先生

三年の秋、私と佐山は、美術準備室の黒板へ知らない先生を描いた。

文化祭に出す絵を、顧問の藤野に二人とも描き直させられた日だった。私の絵には遠近がおかしいと言い、佐山の絵には、上手に描けるものだけ描いていると言った。そのあと藤野は職員室へ戻り、私たちは紙を広げたまま、窓の外が暗くなるまで腹を立てていた。

「何でも褒めてくれる先生がいたらいいのに」
佐山が言って、黒板に丸を描いた。藤野がいつもここで構図を説明していたから、チョークは何色も揃っていた。私が眼鏡を足すと、佐山は髪を描き、横に分けた。男か女か分からない顔になったので、耳に丸い飾りをつけた。

二人で少しずつ直した。痩せすぎは感じが悪い。笑わせると馬鹿にしているように見える。怒っていなくて、こちらの話をちゃんと聞く顔にしよう。制服のリボンを描くより、その知らない先生の口を描くほうが難しかった。最後は佐山が、口角をほんの少し上げた。

翌日、黒板の前に椅子があった。先生の絵は胸までしか描いていなかったが、椅子に腰かけているように高さが合っていた。
藤野が置いたのだと思った。彼はその絵を見ても叱らず、これは二人で描いたのか、と訊いた。頷くと、人物も描けるんだな、と言った。その言い方に、私はまた腹を立てた。

佐山が先に変なことを言い出した。
「昨日、褒められたよ」
藤野に、と私が聞くと、首を振った。準備室に戻って画板を片づけていたら、横から、そこはよく見ているね、と言われたという。部屋にいたのは佐山だけだった。藤野は職員会議だった。
「こっちの先生」
佐山は、黒板の眼鏡を指した。冗談だと思って、よかったじゃん、と答えた。

その日の放課後、私にも聞こえた。椅子に置いた鞄が邪魔で、黒板の前へ立ったときだった。
「手がよくなった」
女の声だった。私は自分の手を見た。絵の中では、二人の小学生が手を繋いでいた。描き直しの途中で、昨日までその手は袖に隠れていた。今朝、私が小さく指を出していた。
部屋の後ろで佐山が笑った。嬉しそうだった。私も、ありがとうございます、と言ってしまった。

絵を完成させて廊下へ運んだとき、同じクラスの子に、先生変わったの、と聞かれた。私たちが準備室へ入る前、眼鏡を掛けた女の先生が、廊下から二人の絵を見ていたそうだ。職員室の場所を聞こうと声を掛けたら、少し待って、と答えたという。
どんな服だったか尋ねると、子供の描いた服みたいな、と笑った。

私たちは黒板を見に戻った。肩から下に、白い線が二本増えていた。袖だった。佐山に描いたか訊くと、私が足したのではないかと逆に聞かれた。袖口の先に手はなかった。そこまで描くと、黒板の下へはみ出してしまう。
私はチョーク受けへ手を置いた。白い粉の中に、五本の細い溝があった。

文化祭の日は、準備室を閉める予定だった。展示は廊下だけで十分だったし、中には刃物や塗料があった。佐山は、扉を少し開けておこうと言った。
「先生だって見たいでしょ」
私は何も言わなかった。絵を褒められたことは、親にまで話していた。藤野の名前は出さず、美術の先生がいいって言ってくれた、と。それを取り消したくなかった。

昼過ぎ、来校した女の人が展示の前で私を呼び止めた。
「奥の方、どなた?」
準備室の扉の隙間に、女の顔が見えた。頬も眼鏡も白い粉でできていたが、首のところだけが肌の色だった。赤い細い筋が何本も走っていた。
私は、先生です、と答えた。女の人は、じゃあ失礼のないように、と声を落とした。
「あの方、さっきから、あなたたちの絵を舐めてるの」

私が走っていくと、女は黒板の中にいた。首の赤い筋は消え、元の平らなチョークの絵へ戻っていた。展示の絵には何もついていなかった。ただ、私が描いた子供の手だけ、紙が薄くなっていた。裏から触ると、指の形にぬるかった。
佐山は画面に顔を寄せ、絵の具が乾いてなかったのかな、と言った。昨日から乾かしていたのを、彼女も知っていた。

私は藤野を呼んだ。彼は何も訊かず、準備室の扉を閉めた。
「描いたの、君たちだよな」
私たちは頷いた。
「どこかで見た人?」
見ていないと答えると、藤野はしばらく黒板を眺めた。それから、明日まで触らないように、と言った。佐山が、消すんですか、と声を強くした。
「黒板なんだから、使うときには消すよ」
普通の答えだった。その普通さに、私は少し安心した。

翌朝、藤野は手に包帯を巻いていた。右手の甲から親指まで覆っていて、職員室で人に訊かれると、湯をこぼした、と答えていた。
準備室の絵は消えていなかった。黒板の中の女が、片手を胸の前へ出していた。白い手袋のような手だった。親指のつけ根に赤い色が一筋あった。
「手、描いてくれたんだ」
佐山が言った。
私は、もうやめよう、と彼女に言った。何を、と返されると、答えに困った。

藤野は翌週から学校へ来なくなった。代わりの講師が来たが、美術部の指導まではできないと言われた。文化祭が終わって、私たちも受験勉強をするはずだった。それなのに佐山は、毎日準備室へ行った。黒板の前へ自分の絵を立て、椅子に座っていた。
私は二度、彼女を呼びに行った。二度とも、まだ見てもらってるから、と言われた。

三度目には、佐山の前に私の絵があった。私は黒板の前の椅子に鞄を置き、両手を空けて彼女へ近づいた。
「これ、ここを直したらもっといいって」
彼女は子供の腕を指した。私は絵を取り返そうとした。佐山は画板を握り、手を離さなかった。黒板の女の首が、少し前へ突き出した。
「友達の話を聞きなさい」
初めて叱られた。低い、よく通る声だった。私の肩が勝手に下がった。

佐山が立った。椅子の座面に制服のスカートが張りついていた。彼女が前へ出るにつれて、プリーツが浅くなり、腰の横から黒い粉が落ちた。
私は腕を掴んだ。細くなっていた。夏に二人で絵具を買いに行ったとき、ぶら下がった腕をふざけて引っぱった。そのときの硬さと重さがなかった。
「痛い」
佐山が言った。私はすぐ離した。

黒板の前には椅子が二つあった。いつ増えたのか覚えていなかった。片方にはまだ、私の鞄が載っていた。佐山はもう片方に座り直した。スカートは座面と同じ高さになり、膝だけが椅子の前へ白く出ていた。
「座りなよ。帰らなくていいから」
彼女は私の鞄を持ち上げた。鞄の底へ、白い指が五本ついていた。

私は鞄を取らずに廊下へ出た。職員室まで走り、佐山がおかしいと伝えた。先生たちが来たとき、彼女は普通に椅子へ座っていた。膝に画板を置き、鉛筆を持っていた。
引っ張られて痛かった、と彼女は言った。私は謝った。女の先生の話をすると、誰かが黒板を見て、よく描けてるね、と言った。
佐山が、ありがとうございます、と返事をした。

私はそのまま美術部を辞めた。佐山の欠席が増えたのは冬からだった。教室へ来ても、窓のない側の席を嫌がり、黒板に近い机へ移りたがった。模試の名前を書くのにも、ひどく時間が掛かった。
卒業式には来なかった。担任は体調が悪いと言った。私は何度も彼女の家へ電話をしたが、母親は、今日は疲れて寝ています、と答えた。

藤野に会えたのは、卒業してからだった。商店街の店で偶然見かけた。右手を上着のポケットから出さず、私の顔を見て、佐山さんは、と訊いた。
知らないと答えると、そうか、と言った。私はあの黒板を、どうして消してくれなかったのか尋ねた。
藤野はポケットの中で手を動かした。
「消したところを、自分が教えないといけなくなる」
それだけ言った。包帯の端が袖から見えた。

その夏、忘れていた画材を取りに学校へ行った。準備室は使われていなかった。新しい顧問は、美術室の棚で足りるからと言った。扉を開けても、椅子には誰も座っていなかった。

黒板には女の先生と、制服の生徒が一人描かれていた。生徒は横向きで、手元に小さな絵を持っていた。その絵には、二人の子供が手を繋いでいた。
私は扉のところで止まった。女の先生の手が、白い線のまま上がった。生徒の頭を、ゆっくり撫でた。

消し残したチョークの粉が落ちてきた。椅子の上に、一粒ずつ積もった。私は鞄を捜さず、扉を閉めた。中で佐山が、私の絵、どうですか、と聞いた。

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