真鍋さんは、魚をすくうときだけ煙草を口から外した。火をつけない煙草を、いつも唇の端にくわえていた。
「水の中へ落とさないんですか」
私が聞くと、彼女は胸のポケットへしまってみせた。
「落としたことあるから、外すんでしょう」
叔父の養殖場を引き継いで二か月、私はまだそんな質問をしていた。勤めていた会社で水産物を扱ってはいたが、伝票に載る魚と生きている魚とは違った。山の水を引き込んだ長い槽が六つ、尾根の陰へ並んでいた。真鍋さんは叔父より先にここで働いていて、週に三日だけ来る約束だった。私が頼めば残りの日にも来てくれた。賃金の話になると、ちゃんとつけといて、と言い、叔父のように曖昧に済ませようとはしなかった。
大きな魚を見つけたのは、祭りへ出す分を選別している日だった。一番下の槽の隅にいた。ほかは二十センチそこそこの岩魚なのに、それは私の腕ほどあった。真鍋さんへ知らせると、そんなの入れた覚えがない、と言った。
水路から紛れ込んだのだろうと私は考えた。少し前の雨で山の水が濁り、取水口に枝が詰まったことがあった。網目を抜けてきたのではないか。真鍋さんは、あの大きさで、とだけ答えた。私は魚を見た。胸鰭を広げ、水面すれすれに止まっていた。尻尾に白い斑点が一つあった。
取引先の料理屋へ出せばいい値になる。私は長い柄の網を持ち、槽へ入れた。近づけても逃げない。なのに、すくうと空だった。魚は少し右へ移り、白い斑点をこちらへ向けた。二度、三度と続けるうち、私は自分が笑っていることに気づいた。久しぶりに仕事で面白いことが起きていた。
「先に小さいの、やろう」
真鍋さんが呼んだ。私はあと一回と言った。結局十分ほどかけてもすくえず、背中を汗で濡らして戻った。選別済みの魚を入れた桶が、空になっていた。
「逃がしました?」
「そっちへ二十六。あんたが数えたでしょう」
桶には、たしかに蓋があった。留め具も閉まっていた。
二人で槽の周囲を調べた。魚が跳ねたなら、どこかに落ちているはずだった。側溝へも目をやったが見つからない。真鍋さんは私にもう一度数えたのかと聞き、私は間違いないと答えた。疑われたのが悔しかった。空の桶の内側に、白い粘りが薄くついていた。網にも同じものがついていて、真鍋さんは水へ流さず、布で拭いた。
午後、私は携帯を三脚へつけ、選別する手元を撮った。自分の手順が間違っていないか見直すつもりだった。魚を十匹すくい、蓋をする。今度は私が桶の前に座り、真鍋さんが槽にいた。しばらくして彼女が、あれおる、と言った。
私は振り返った。大魚が腹を見せかけ、ゆっくり身をひねった。白い斑点が、目のように私へ向いた。気づくと腰を浮かせていた。網を持ちたくなった。真鍋さんが私の腕を叩いた。
「桶」
開けると、また空だった。
動画を見た。私が蓋をするところも、振り返るところも写っていた。だが、持ち上げた網には最初から魚がいなかった。私は空の網を何度も桶へ入れ、何もないところへ蓋をしていた。真鍋さんが私から携帯を取り、顔を近づけた。黙って画面を返されたとき、ひどく情けなくなった。
「私、休んだほうがいいですか」
「私も見たよ、十匹」
真鍋さんはそう言って、空の桶へ手を入れた。底で、見えない魚が一度跳ねた。掌が濡れた。彼女はその水を作業着へ擦りつけず、腕を下げたまま私を見た。
叔父へ電話をした。病院で治療を受けた帰りだったらしく、声が疲れていた。下の槽へ変な魚を入れたか聞くと、知らないと言った。
「大きいのがいるんだ」
「どれくらい」
私はさっき見た魚の大きさを思い出そうとした。腕ほどだったはずなのに、今は槽の長さより大きく感じられた。三メートル、と答えかけ、口をつぐんだ。叔父は、全部止めて休め、と言った。大きい魚の話ではなく、私の働き方のことだった。
祭りの注文は四百匹あった。初めて自分で取った仕事で、叔父の名前を借りずに見積書を出した。午後のうちに必要数を選ばなければ、翌日の支度に間に合わない。私は最下段の槽だけを外そうと決めた。真鍋さんは頷き、仕事を続けた。大魚を捕まえようとは、もう言わなかった。
三番目の槽ですくっていると、真鍋さんが空の方を見た。鳥でも来たのかと思った。彼女はその姿勢のまま、網を落とした。柄が縁へ当たり、水の中へ沈んだ。大きな魚が、その槽にいた。下から二つも上の、別々に仕切られた水の中だった。
魚は真鍋さんの足元に沿って泳いだ。腹に黒いものがついていた。彼女の影だった。私は急いで彼女の腕を引いた。西日が低く差しているのに、真鍋さんの足元から何も伸びていなかった。自分の影だけがコンクリートの縁を越え、隣の槽へ入っていた。
「そっちに引かないで」
真鍋さんが小さく言った。首が後ろへ曲がり、濡れた頬に光が当たっていた。水の中の魚が、彼女の影を腹へ押しつけてひねった。真鍋さんの胸も同じ方へ向いた。私は腕を離せなかった。こちらへ引くほど肩の形がおかしくなった。
私は網を水へ入れた。魚を叩こうとしたのではない。絡まったものを外すつもりだった。すると、腹についていた影が私の網を掴んだ。真鍋さんの両腕は私が抱えていた。その指は開いたままだった。水の中でだけ、彼女は自分から網へ手を伸ばしていた。
「いま引かない」
彼女は歯を食いしばって言った。
「下で、私が持ってる」
私は網を放した。魚の白い斑点が、またこちらへ向いた。そこへ目が吸い寄せられた。捕まえれば全部戻る、そんな気がした。だが、さっき捕まえたいと思っていたのは売るためだった。魚のほうを向くたび、桶の数や真鍋さんの体を忘れてしまう。私は槽に背を向け、彼女の濡れた靴を見た。
養殖場の上に、遮光用の大きな幕が巻いてあった。真夏だけ使うもので、端の支柱は腐りかけていた。叔父に補修を勧められ、金ができてからと後回しにした。あれを広げれば、魚に吸い寄せられる影を消せるかもしれない。真鍋さんを日陰に入れるため、私はまず自分の上着を頭上へ掲げた。
彼女の顎が少し戻った。私は上着を柵へ掛け、彼女にその陰から出ないでと頼んだ。真鍋さんは、分かってる、と答えた。大魚のいる水面を見ずに、幕の綱を引いた。金具が錆びて動かない。強く引くと支柱が傾き、幕が片側だけ開いた。槽の縁の私の影が、長く裂けた。
膝から力が抜けた。水の中で、私に似たものが四つん這いになった。顔をこちらへ向ける前に、私は綱へ体重をかけた。支柱は根元から倒れた。幕が三つの槽へかぶさり、水が跳ねた。日陰が広がると、真鍋さんが地面へ倒れ込んだ。
幕の下から、魚が大量に跳ねた。普通の岩魚だった。コンクリートへ腹を打ち、排水溝へ滑っていった。私は手を伸ばしたが、真鍋さんに止められた。
「拾わなくていい」
彼女は自分で起き上がろうとした。私は肩を貸した。水の下で、何かが幕を持ち上げていた。尻尾ではない。人が天井を押すような、五本の出っ張りが並んだ。
取水口を閉じ、二人で槽から離れた。幕も魚も取り戻さなかった。私は祭りの担当へ電話し、納品できないと伝えた。代わりの仕入れ先を探す声が向こうで飛び交った。なぜなのかと問われ、水の事故です、と答えた。謝っているあいだに、目の前の真鍋さんから煙草が一本落ちた。彼女は拾わず、靴の横へ影が戻るのを見ていた。
暗くなって叔父が来た。倒れた支柱と幕を見ても怒らなかった。私たちの体を見て、医者へ行け、と言った。私は注文の弁償があると答え、叔父にもう一度同じことを言われた。
数日後、水を抜いた槽にはほとんど魚が残っていなかった。排水溝の出口には網を張ってあったが、破れていなかった。白い斑点のある大魚も見つからない。叔父と私は取引先へ頭を下げて回り、その年の出荷をやめた。真鍋さんの賃金は、来てもらった日を全部数えて払った。
最後に槽を見回った夕方、底に二人分の影があった。私と真鍋さんは縁に並んでいた。影は正しい方向へ伸びていて、私が手を上げるとその通りに動いた。真鍋さんは少しだけ肩を回してみせ、うん、と言った。
それから、場外の舗装を何かが横切った。大きな魚の影だった。泳ぐ動きをせず、二本の脚でゆっくり歩いていく。白い斑点のある尾が、道の曲がり角で一度こちらを向いた。私は真鍋さんの顔を見た。彼女もこちらを見ていた。どちらも、あれを捕まえようとは言わなかった。


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