荷台の雨は、トンネルへ入っても止まなかった。
高田はラジオの音量を下げた。後ろの幌を叩く音なら、出口まで続くこともある。濡れた布から水が落ちるのだ。けれど聞こえているのは、細かな雨が土に沁みていく音だった。次の退避所へ寄せ、助手席の本田に言った。
「後ろ、何かこぼれてないか」
本田は窓を少し開けた。冷えた空気が入り、二人とも肩をすくめた。
山の花農家を回って、空の出荷箱を届ける仕事だった。高田は運送屋を辞め、春からこの集荷組合で働いていた。花を積む前の空箱なら軽くて楽だと聞いたが、農家の庭へ入れる道を覚えるのに苦労した。本田は二十四で、方向音痴の高田を笑いながらも、曲がるずっと手前で教えてくれた。きょうも助手席へ乗る必要はなかったのに、雨になるからと付いてきた。
午後二時、最後の農家へ着いたときには土砂降りだった。老夫婦が玄関の庇から手を振り、奥の納屋へ入れろと言った。庭には、花を入れていた緑の箱が二十ほど重ねてあった。回収するのはその箱だった。本田が雨に出て、高田は荷台で受け取った。底に細い穴のある、両手で抱えられる箱だ。
途中から、妙に重い箱が混じった。
「水入ってる」
高田が傾けても、水は出なかった。本田は、穴が泥で塞がってるんだろ、と答えた。農家の妻が雑巾を貸しに来た。彼女は高田の持つ箱を見て、あら、と言ったが、それ以上は何も言わず、濡れた二人へ雑巾を渡した。
全部積んで幌を閉じるころには、雨脚が弱まっていた。本田の合羽だけがひどく濡れていた。脱いで振ると水が散り、シャツは乾いていた。高田も上着を脱ごうとして、自分にはほとんど雨が当たっていないことに気づいた。荷台から出なかったからだと思い、そのまま発車した。
退避所には古い自動販売機と、屋根のないベンチがあった。本田は先に降り、荷台の留め具を外した。高田が車を回ってくるまで、ほんの数秒だった。
「そっちじゃない」
本田の声がした。
幌の中は暗かった。左右に積んだ箱のあいだに、本田はいなかった。
高田は幌を持ち上げた。濡れていない。積んだ箱の底も、荷台の溝も乾いていた。だが一番手前の箱の中だけ、雨が降っていた。水が溜まっているのではない。指先ほどの深さの暗い土があり、そこへ細かな雨が落ちていた。車の下を覗くと、舗装に水滴一つなかった。
「高田さん」
今度は箱から声がした。高田は勢いよく顔を寄せた。雨の降る土に、黒い長靴が一本立っていた。小さな玩具ほどに見えたが、靴底が減って白くなった箇所まで、本田のものだった。もう片方は隣の箱にあった。二本とも膝から上が見えず、箱の奥へ伸びている。
高田は本田の携帯を呼び出した。箱の間で着信音が鳴った。声で返事をしているのに、電話は出ない。高田が留め具へ手をかけると、本田が強く言った。
「登るな。いま高田さん、上にいる」
「お前はどこだ」
「庭。さっきの庭にいる。でも箱がない」
高田は農家へ電話した。妻が出た。あの若い人が戻っていませんかと聞くと、誰も来ていないという。雨はもう上がった。二人が出たあと、すぐ日が差したそうだ。高田が雨の音を聞かせようと携帯を荷台へ向けると、妻は、花を濡らしたら駄目だよ、と言った。聞こえていないらしかった。
組合にも電話し、車の位置を伝えた。本田がいなくなったと言ってから、話せている、と言い直したので、事務の女性は事故なのかと聞いた。説明できないから来てほしいと頼んだ。高田は自分の声を、知らない人のもののように聞いた。何十年も車に乗ってきて、場所と状態を伝えられなかったことはない。
幌の下で靴が動いた。隣り合っていたはずの両足が離れ、片方が箱の隅へ滑った。本田が呻いた。
「坂になってる。庭が」
高田は箱を一つ持ち上げていた。手を止め、元の高さへ下ろした。雨の中の長靴が立ち直った。荷台の右奥からも雨音がする。高田は荷物の数を数えかけ、やめた。どれが空で、どれに本田が入っているのか分からない。
本田が、自分の左手が見える、と言った。高田にも見えた。積んだ箱の取っ手から、赤く冷えた指が一本出ていた。手首はない。高田が触れると、指が爪を立てた。
「そこだ。引いて」
引くと本田が叫んだ。右奥の箱が浮き、違うところから肘が出た。高田は離した。本田も謝った。すみませんと二度言い、三度目は声にならなかった。
雨が強くなった。退避所は乾いたままだった。箱の上へ置いた高田の腕時計に、内側から水滴がついた。彼は時計を外し、運転席へ放った。自分の手に雨が当たっている。頭上に雨はないのに、腕の表だけが冷えていた。
「顔、上げられるか」
「上は駄目だ」
「どうして」
「車が来る」
本田が言い終えると、荷台の箱が一斉に沈んだ。高田は車の下へ目をやった。タイヤが潰れかけていた。遠くで何かが軋み、幌に、長い泥の跡がついた。内側から、車輪が一本通ったような跡だった。
本田は農家の庭にいると言った。そこへ高田が車を入れ、箱を受け取った。高田は、本田が最後に幌を閉めたときの顔を思い出した。頬から雨が落ちていたのに、荷台も高田も乾いていた。あの庭で降っていた雨まで積んできたのかもしれない。それ以上考えると、どちらの高田が車を動かすのか分からなくなった。
退避所の奥に、道路補修の資材を置く空き地があった。高田はそこまで車を進めると言った。本田は、動くとどうなる、と聞いた。
「箱を下ろす。落ちても土の上になる」
高田にはそれしか言えなかった。
「下ろしたら、迎えに来て」
本田の返事は、いつもより幼く聞こえた。
高田は車を十メートルほど動かし、草のない平らな場所へ止めた。荷台の後ろを開いた。雨の入った箱は、空箱の何倍も重かった。単独で下ろすと本田の体が伸びるので、積んだ形を崩さず、二段ずつ荷台の端へ滑らせた。肩に力を入れた瞬間、自分の足首へ冷たい指が回った。下を見る余裕はなかった。
一つ目が土へ着くと、本田が息を吐いた。二つ目の底が割れた。高田は舌打ちしたが、次の瞬間、割れ目から本田の長靴の先が出た。今度は人が履く大きさだった。黒いゴムへ、空き地の土がついた。
「本田、足出せるぞ」
「箱が邪魔で曲がらない」
高田は荷台の工具箱から、刃の短い鋸を出した。柔らかな樹脂を切るための道具ではなかったが、手近にあったのはそれだけだった。本田がどこに体を置いているのか確かめながら、外側の縁を少しずつ切った。中の暗い土には刃を入れない。切り取った端が落ちた場所へ、雨が数滴落ちた。
箱を壊すたび、雨の降る範囲がつながった。本田の足が二本そろい、次いで腰が、空き地の土へ横になった。上半身はまだ別の箱にあった。高田は合羽の背を掴み、引かずに支えた。胸が上下しているのが分かった。喋れるだけではない、生きてここにいる体だった。
顔が現れたとき、本田は泥を吐いた。高田の肩に爪を立て、うしろ、と言った。最後の箱の中に、ハンドルが見えていた。高田がさっきまで握っていた、擦れた黒いハンドルだった。その向こうで誰かが両手を動かし、窓の外を覗こうとしていた。高田は箱を蹴って伏せた。雨音が詰まった。
本田を引き離した直後、伏せた箱が地面を擦った。車の曲がる幅だけ、大きく向きを変えた。高田は本田を抱え、ベンチまで運んだ。膝が笑い、二人とも途中で倒れたが、地面は濡れていなかった。道路を、組合のワゴン車が上がってきた。
本田は一週間入院した。高田は荷台から転落したのではないと何度も説明したが、誰も箱の中の雨を聞けなかった。壊れた箱には土さえ残っていなかった。農家の妻は、あの日、庭で古い排水穴が陥没したと言った。二人が無事でよかった、そればかり繰り返した。
高田は最後の一箱の弁償を申し出た。組合は処分すればいいと言ったが、彼は車庫の奥に伏せて置いた。ごみ収集車へ載せるところを想像すると、腕時計の内側についた水滴を思い出した。雨音のする日は車を外へ出し、車庫を開けたまま夜を明かす。
本田は事務の仕事に移った。最近、右耳で雨を聞けなくなった、と高田に打ち明けた。検査では異常がないらしい。高田は笑って済ませず、車庫の鍵を渡した。自分が来ない朝には、人を連れて開けてほしいと頼んだ。
その翌日、伏せた箱のそばに、片方だけの靴跡があった。高田のものだった。作業靴の踵に刺さった小石の跡まで同じだった。箱は静かで、外には朝日が差していた。高田は車に乗らず、事務所の本田へ電話した。
「きょうは、そっちから迎えに来てくれ」


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