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倒木の椅子

根の裏に、誰かが腰を下ろしていた跡があった。

二つの丸い窪みがあり、その前だけ土が擦れていた。宮坂は手袋の土を払い、もう一度覗いた。台風で倒れた杉だった。根は人の背より高く起き、草と石を抱えたまま壁のようになっていた。座るにはちょうどよい高さの窪みだが、根が地面の中にあったころには、横を向いていたはずだった。

「猿だろ」
元請けの高梨が言った。
宮坂が、猿にしては、と言いかけると、高梨は自分の尻を窪みの前へ寄せた。人間が座る幅があった。彼は笑わずに立ち直り、明日切ろう、と話を変えた。

宮坂は製材所の従業員で、山へ来ることはめったになかった。今回は倒木の量が多く、搬出する前に使えそうな幹を見分けるために呼ばれた。高梨は作業を請け負い、使える木の代金で費用の一部を相殺するつもりだった。根の土を落とし、幹を運べる長さへ切る。宮坂の仕事はその先の材を見ることだった。

所有者の女性は、小野寺と名乗った。雨が上がってから何度も山を見に来たらしく、長靴に土が厚くついていた。倒れた木は彼女の弟が植えたものだという。弟はまだ生きていて、隣県の施設で暮らしていた。木まで弟の病気に結びつけるようなことを、高梨は言わなかった。ただ、早く片づけたほうがいい、と繰り返した。

根の窪みを見せると、小野寺は顔を近づけた。何か分かるかと聞かれ、いいえと答えたが、持っていた袋をそこへ置きかけた。途中で気づいたように腕を戻した。宮坂にはその動きが妙に見えた。小野寺は窪みの広さを確かめもせず、袋の底をそこへ合わせていた。使い慣れた椅子へ荷物を置く手つきだった。

翌朝、根の土が少し落ちていた。窪みの周囲だけが滑らかになり、前へ伸びる太い根が肘掛けのように見えた。高梨は昨日ここへ座ったかと聞かれ、腰を当てただけだと答えた。若い作業員が、そのくらいで形は変わらないでしょう、と笑った。宮坂は窪みを測った。幅が昨日の写真より広くなっていた。

写真を撮っても、根は普通の根だった。人が座った跡に見えるのは近くで見ているときだけで、離れると土の凹凸へ紛れた。それなのに、手を当てると、座布団の上から人の体温を確かめるように温かかった。朝の冷えた空気の中で、そこだけ乾いた匂いがした。

高梨が幹の枝を払っているあいだ、宮坂はその場から離れた。根返りした木は動くことがあると、朝礼で確認していた。根の近くへ入らず、木が動いても人が挟まれない位置で待った。仕事を見ていると、高梨の片脚が折れた。膝が曲がったのではない。ふくらはぎの途中が、座った脚の角度へ曲がって見えた。

宮坂が声を上げた。高梨が機械を止めると、脚は真っ直ぐだった。
「何だよ」
彼は不機嫌になり、ズボンをまくって見せた。長靴の上に赤い線が一筋あった。さっき根へ触れたところだろうと高梨は言ったが、宮坂には、椅子の縁に長く脚を当てていた跡に見えた。

昼、小野寺が弁当を持ってきた。宮坂たちは離れた場所で食べた。高梨が根の方を見て、あそこで食えば泥がつかない、と言った。宮坂は反対した。高梨は顔をしかめたが、立ち上がらなかった。袋から箸を出すとき、彼の右肘が誰かに支えられたように高く止まった。

宮坂は自分の弁当を閉じた。
「高梨さん、座りたくなるんですか」
高梨はすぐに否定しなかった。飯を飲み込み、水を飲んでから、昨日から腰が楽だ、と言った。何年も痛みが続いていた。家の椅子も車の座席も長く座れないのに、昨夜は居間で一度も立たずにテレビを見られたという。

小野寺が箸を止めた。宮坂が彼女を見ると、弟もそうだった、と答えた。山仕事から帰った日だけは足腰が楽だと言っていた。どうして山を歩く方が楽なのか聞いても、体を動かすからだとしか言わなかった。小野寺は、年取ってから山へ来られなくなって、急に悪くなった、と続けた。

宮坂は、午後の作業は止めたほうがよいと言った。高梨は、明日になれば何か変わるのか、と聞いた。宮坂は答えられなかった。

幹を短くするだけなら危なくない。高梨はそう判断した。宮坂は根から十分離れ、切る位置へ印をつけた。自分が止めると言いながら、仕事を終えやすい方へ手伝っていることが分かった。その時は、自分もここを早く離れたかった。

切断が終わる直前、根の壁から土が大きく落ちた。三人とも作業を止め、退避した。木は立ち上がらなかった。むしろ根だけがゆっくり後ろへ下がり、土の穴へ戻ろうとしていた。窪みが上を向いた。椅子として使うのに、もっとも自然な向きになった。

高梨が歩き出した。宮坂は腕を掴んだ。高梨は振り払わず、待ってくれ、と言った。
「座らないと、足が折れる」
両足が勝手に曲がり、膝が前へ出ていた。立っている高さのまま腰だけが落ち、何もないところに座ろうとしていた。宮坂が体を支えると、ずしりと重かった。

軽トラックの助手席へ運ぼうとしたが、近づくにつれて高梨が痛がった。ドアを開け、腰を載せると、彼は叫んだ。座面へ体が沈まず、尻の下に硬い木があるように止まった。宮坂は再び抱え上げた。高梨の両脚の形は、根に残った窪みの前の二本の枝に似ていた。

小野寺が毛布を持ってきた。地面へ広げ、高梨を横にした。横向きで膝を抱くことはできた。高梨は土を握り、息を整えた。宮坂は救急の連絡をし、林道の入口で人を待つよう若い作業員に頼んだ。小野寺は高梨の頭の下へ袋を入れた。

「もう、木は売らない」
彼女が言った。高梨は目を閉じたまま、仕事代は、と尋ねた。小野寺は、払います、と答えた。根の周りで、乾いた土が少しずつ崩れていた。

宮坂は切り離した幹を見た。切断面に黒い節が二つあった。左右に並び、その下を木目が広く包んでいた。根の窪みと同じ形だった。近くで見ると、節の内側に細かな皺があった。宮坂が手袋を外しかけると、小野寺が、触らないで、と言った。

彼女は切断面をずっと見ていた。弟が使っていた作業ズボンの尻が、いつも左右同じところから擦り切れたという。言われてみれば布の織り目にも見えた。だが、宮坂はそれを弟の尻だと決めることができなかった。片方の窪みが、見ているあいだに高梨のズボンの色になった。

「ここにもいる」
宮坂が言うと、高梨が顔を上げた。切ったから二つになったのか、と聞いた。宮坂は答えなかった。高梨はそのまま顔を伏せ、自分で切った、という言葉を何度も繰り返した。

救急の人が来るころには、高梨の足は普通に伸ばせた。道具を止め、横になって休んでいたと説明した。彼は担架へ乗るのを怖がったが、二人の隊員が腰と脚を支えると素直に従った。宮坂は車が出るまで付き添い、仕事の続きを心配する高梨に、きょうはもうやらないと言った。

残った木をどうするか、誰にも決められなかった。小野寺は人の入ったものを家具にはできないと話した。宮坂は、誰かが入っているとまでは、と言いかけたが、言葉が続かなかった。見分けて値をつけるために来たのに、何を見ているかさえ分からなくなっていた。

その後、高梨は退院した。脚の骨に異常はなかったと聞いた。元請けとしての仕事は続けているが、車には寝かせられる長い座席が必要になった。腰掛けようとすると、知らない椅子の縁が膝の裏へ当たるらしい。宮坂は見舞いへ行き、立ったまま話す彼と一緒に立っていた。

切り離した幹は、宮坂の製材所へ引き取った。山に置いたままでは下へ転がる恐れがあり、土場の外れへ寝かせた。皮は剥がさず、製品には使わないと札をつけた。宮坂は扱ったことのない木だとだけ社長に説明し、保管費を自分の給料から引いてもよいと申し出た。社長はそこまではせず、近づく者へ一声かけるようにと言った。

冬になり、幹が乾き始めた。切断面の二つの黒い節が離れ、そのあいだに小さな窪みができた。宮坂は最初、それが子供の座る場所のように見えた。昼休みに椅子を持ってきて比較しようとし、自分の考えに驚いてやめた。

小野寺から、山の根はほとんど地面へ戻ったと知らせがあった。土をかけたわけではない。雪が降る前に見に行くと、根のあった穴には誰かが正座したような跡だけが残っていたという。宮坂は弟さんの体調を聞きかけたが、先に、弟は元気です、と言われた。そうですかと答え、それ以上訊かなかった。

今朝、宮坂が土場へ行くと、幹の切断面に新しい跡があった。尻の窪みの前へ、二つの膝が出ていた。右の膝に、小さな丸い傷があった。子供のころ自転車で転んだ、宮坂自身の傷と同じ位置だった。

宮坂はしゃがまなかった。木へ印をつけたとき、自分がどこへ膝を置いたか思い出していた。呼びに来た同僚へ、きょうは立ってやる仕事を回してくれ、と頼んだ。後ろで幹の割れる音がした。人が長く座ったあとで膝を伸ばすような、短い音だった。

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