猿は檻の中から、私に椅子を勧めた。
小屋の隅にあった丸椅子を指し、それから自分の前の地面を指した。片手を膝に載せ、こちらを見ている。似た動作を偶然したのだろうと思った。私は携帯を胸へ戻し、依頼主が来るのを待った。
何でも運ぶわけではない。だが、運ぶ物を選んでいたら商売にならなかった。夫と二人で始めた軽貨物の仕事を、離婚してからは私が一人で続けていた。東野という農家からの仕事は、月に何度かある。野菜や肥料の袋を運び、春には犬を動物病院へ連れていった。その犬がひどく大人しかったので、生き物も頼めると思われたらしい。
電話では、山で捕まえた猿を連れていってほしいと言われた。私は引受先を確かめ、相手の名を聞いた。東野は獣医の名を言ったが、運ぶ日はまだ決まっていないという。檻の大きさを見て、車に載るかだけ確かめてほしい。それならと下見に来た。
猿は大きかった。赤い顔をして、口の周りの毛だけが白かった。餌の芋が檻の外へ転がっていたが、食べようとはしなかった。私の足先を見て、また丸椅子を指した。爪は短く、指先に人が野良仕事をしたあとのような黒い汚れがあった。
「それ、動かさんで」
東野が小屋へ入ってきた。私が座るために椅子を引いていたので、慌てて戻した。東野は檻に背を向けたまま、車の荷室の寸法を聞いた。私が答えるあいだ、猿は口を開けて彼を見ていた。怒っているのか笑っているのか、分からなかった。
檻は車へ入る大きさだった。だが、積み下ろしには私のほかに人がいる。引受先が決まったらまた連絡をくれと言った。東野は帰ろうとする私を止めた。
「見といてくれるだけでいいから、もう少し」
「今日は運びませんよ」
「うん。そりゃ分かっとる」
東野は小屋の外から別の椅子を持ってきた。自分が座り、私には丸椅子を使えと言った。さっき動かすなと言ったのは何だったのか。立ってますと断ると、東野は不機嫌になった。猿は静かに私を見ていた。私には、座るのを待つ顔に見えた。
小屋の前には桃畑があった。収穫は終わっていたが、枝に残った小さな実へ蠅がたかっていた。東野は猿の群れに畑を荒らされた話をした。捕まえた一頭を見せておけば、仲間は寄らなくなる。ところが、その一頭を捕まえてから、夜になると畑に人が来るという。
盗みに来るのかと聞くと、何も取らないと言った。木の下へ立って、朝まで小屋を見ている。顔を照らすと誰もいなくなり、消したらまたいる。東野は、あんたの車の前にも昨日おった、と言った。私は帰りたくなった。こんな話を聞くために時間を空けて来たのではない。
檻の下で鎖が鳴った。猿は動いていなかった。東野が長靴を引き、音がした方を見た。足首から細い鎖が伸びていた。床の藁に紛れて分からなかったが、鎖は猿の檻へ続いていた。
「それは、何ですか」
私が指すと、東野はズボンの裾を下ろした。
「これも一緒に運んでくれりゃいい」
「あなたも?」
東野は答えなかった。
鎖には、留め金が見当たらなかった。東野の長靴の外側を一周し、どこにも継ぎ目を作らずつながっていた。猿は檻の内側で、同じ足を少し上げてみせた。足首に鎖はない。私がそちらへ目を向けると、東野の足元で鎖が二度跳ねた。
私は立ち上がった。座った覚えがなかった。両手を膝について腰を上げたとき、丸椅子が体についてきた。尻の下で木の座面が温かかった。東野が両手を伸ばし、私の肩を押さえようとした。私は強く払った。
「何をやらせるつもりですか」
「おれが捕まえたとこを、見てくれりゃいい」
いま捕まえるのか、もう捕まえたのか。聞くと東野は、先月だ、と言った。それでは私は見られない。そう言っても納得せず、見ましたって一言でいい、と繰り返した。猿は彼と私を順に見て、片手を檻から出した。掌の向きは上だった。
私が運送の伝票を持っていたからだろうか。猿はその手を、受け取りの判を押す人のように前へ出した。東野はうなずき、鞄にあるだろうと言った。私は紙を出さなかった。椅子から体を剥がすように立ち、戸口へ下がった。今度は椅子が離れた。
外へ出ると、桃の枝の下へ何人もしゃがんでいた。遠目には収穫を手伝う人に見えた。袖も裾も泥で汚れ、地面の実を食べている者もいた。私は車へ向かいかけた。すると、一人が四つん這いでこちらへ来た。顔は、昼に東野の家の前を掃いていた妻のものだった。
声をかけようとした私へ、小屋から東野が叫んだ。
「呼んだら駄目だ」
女性はそこで止まり、両手で口元を拭った。猿ではない。確かに人間の顔だった。しかし指の間から、食べかけの桃の種を落とす仕草が、ひどく小さな子供のように見えた。
私は引き返して小屋へ入り、戸を閉めた。檻の猿が、静かに頭を下げた。助かった気がした自分が嫌だった。こちらへ下がれば猿が人に見え、外へ出れば東野の家の者が獣のように見える。私はどこから何を見ているのか分からなくなっていた。
東野は、家内は出かけとる、と言った。朝から町の娘のところにいる。それならさっきの人は誰なのか聞くと、知らん、と怒鳴った。だがその声を聞いた猿は、ゆっくり両手を合わせた。祈っているのではなかった。私に手を合わせる形をよく見せ、それから東野を指した。
東野は俯いた。捕まえた日に猿が両手を合わせたのだという。近くの木に小さな猿も二頭いた。私はその先を聞きたくなかった。東野は私の顔を見て、殺しちゃおらん、と先に言った。
「頼まれたから、帰したんだ」
「じゃあ、その猿は」
「帰したんだよ。檻を開けた。そしたらおれがここにおった」
彼は自分の鎖をつまみ上げた。長靴の中で、足の指が一つずつ曲がるのが見えた。靴は硬いゴムなのに、布をかけただけのようだった。猿は、また丸椅子を示した。二人の説明を聞いて、私がどちらかを認めるのを待っていた。
私は電話で引受先を確かめようとした。東野の言った獣医へかけたが、その依頼は聞いていないと答えられた。こちらの名前と場所を伝え、迎えを呼ぶ相談をした。東野が電話を取り上げようとしたので、私は鞄を胸へ抱えた。
「まだ来てもらっちゃ困る」
「何で」
「おれがこっちだって、話ができてない」
猿が檻の戸へ指をかけた。鍵が外側についていた。東野も鍵を見た。私は彼に、どちらが閉めたのか聞いた。猿なのか、あなたなのか。東野は口を開けたが答えなかった。猿は答えを待たず、内側から指を伸ばして留め具を持ち上げた。
戸が開いた。私が後ろへ下がると、東野が丸椅子へしがみついた。鎖が張り、椅子の脚が一本浮いた。猿は出てこなかった。檻の中から外へ、空いた戸口を通して私を見ていた。私たちのいる小屋が檻になったような気がした。戸の向こうに、青い空と桃の枝があった。
私は自分の受取用の紙を出した。東野の目が明るくなった。猿が手を差し出した。私はどちらへも渡さず、仕事の依頼を断ると書いた。檻と動物をまだ引き受けていないこと、自分は捕獲に立ち会っていないことも書いた。自分の住所や名前を書く欄はなかったので、日付だけを入れた。
「これじゃ足りん」
東野が言った。私は紙を椅子へ置いた。何が足りないのか、もう聞かなかった。仕事で会った相手の話を信じてきた。だが、ここで私に見てほしいと言っているのは、私が見たことではなかった。
小屋の戸へ手をかけた。後ろで鎖が鳴った。東野は、あんただけか、と言った。私は一度振り返り、電話で人を呼んだことを伝えた。猿の目は、私の腰のあたりを見ていた。自分の尻尾がそこにある気がして、確かめそうになった。私は鞄を前へ持ち直した。
外には誰もいなかった。車へ乗り、道路まで出てから救援を待った。近所の男性が二人来て、小屋へ入った。東野は椅子に座っていたそうだ。足首に鎖はなく、檻も空だった。私は見た順に話したが、猿が逃げたとしか受け取られなかった。東野は私を名指しして、あの女は何も見ていないと言った。
依頼の電話は来なくなった。東野の妻からは一度だけ連絡があり、何か運んだのかと聞かれた。運んでいないと答えると、そう、と言い、しばらく息の音だけが続いた。
「最近あの人、家の中から窓を開けられないの」
私は返事を待たれたが、何も言えなかった。
先週、桃畑の前を通った。東野が家の縁側に座り、両手を膝へ載せていた。窓は閉まっていた。私に気づくと片手を上げた。挨拶だと思ってこちらも上げかけたが、彼は自分の前の空いた場所を指していた。庭には丸椅子が一つ出ていた。
私は車を止めなかった。バックミラーへ目をやると、小屋の空の檻の前で、誰かが二本の足で立っていた。帽子のつばをつまみ、道へ向かって丁寧に頭を下げた。私にはもう、その顔を見分ける自信がなかった。


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