うちの車に子供を乗せたことはない。少なくとも、俺は乗せた覚えがない。
最初に言われたのは、商店街の写真屋だった。入口のガラスが割られたので取り替えに行くと、奥さんが俺を外へ呼び、小さな子を現場へ連れてこないでほしいと言った。割れた所へ手を出して、危ない。もっともな話だったが、俺にはその子供が分からなかった。
一緒に来た児玉は、車から道具を下ろしていた。
「児玉の知り合いかな」
そう返した。分からないことを自分の方で引き受けたくないとき、俺はよくそんな返事をした。
二人でガラス屋をやっていた。俺が店主で、児玉が従業員。親父の代には住み込みの職人もいたが、俺が継いだときにはもういなかった。店の二階に暮らしていた俺の母も、弟の家へ移っていた。
昼に弁当を食べていると、児玉が、小さい子って何ですか、と訊いた。奥さんが同じ話を本人にもしたのだ。
「靴、履かせてやれって」
俺たちは車の下や荷台を見た。誰もいなかった。写真屋の奥さんへ、それとなく言うと、もう帰ったんでしょう、とだけ返ってきた。
その頃は、毎週のように商店街のガラスが割られた。石を投げ込まれる。警察にも話は行っていた。最初は閉めた店だけだったのが、そのうち人のいる喫茶店までやられた。
俺たちは頼まれた所へ行った。店を開けるためには、割れた所を塞がなくてはならない。被害に遭った客には気の毒だが、久しぶりにまとまった仕事だった。材料代の支払いを翌月へ延ばしてもらう電話を、しなくて済んだ。
写真屋で言われてから一週間ほどして、児玉が妙な物を拾った。軽トラックの助手席に、白い石が置いてあった。庭へ敷くような丸い石だった。
「これで割ったんじゃないですよね」
冗談の口調ではなかった。
俺は窓から店の前へ放り出した。あんな物を積んでおいたら、客に余計なことを言われる。
「お前、俺を疑ってるのか」
児玉は、そうじゃないです、と答えた。それ以上話し合うのが面倒で、俺は仕事へ出た。
街灯の下の喫茶店で、また子供の話が出た。カウンターにいた女が、うちへも連れてきているんですね、と笑った。常連の子供と一緒に遊んでいるのを、昼に見たらしかった。
俺は顔を知らないから、返事に詰まった。女は、あら違うの、と表情を変えた。
「ずっとそこの車の所にいたから」
彼女が指したのは、俺の軽トラックだった。さっきまで児玉が荷台へ乗っていた。今は店の裏で、古い枠を洗っていた。
その夜、児玉が店へ戻る途中に声を掛けられた。
後ろに子供が乗っている。
信号待ちで、隣の車の運転手が教えてくれたそうだ。児玉はすぐに止め、荷台を見た。ガラスを立てる台の下へ、小さな素足が引っ込むのが見えたという。覗き込んでも誰もいなかった。
「見間違いじゃないのか」
俺が言うと、児玉は車の鍵を机に置いた。
「そうだったらいいです。でも、もう一人では乗りません」
次の日から俺が運転した。児玉を乗せて回れば、あいつも何も言わなかった。取引先からは仕事が速いと喜ばれた。近くで待っていたみたいだね、と言われるたび、俺は材料だけはあるんですよ、と笑った。
本当に、近くで待っているようなことが増えていた。外へ出た帰り道で電話が鳴る。修理してほしい店は、今しがた通ったばかりの場所だった。
児玉が地図に印をつけ始めたとき、俺は怒った。
「そんな暇があったら車を掃除しろよ」
「順番がおかしいんです」
「何の」
「俺たちが通ってから、割れるんです」
俺は地図を机の引き出しへ入れた。好きで疑われる材料を作る奴があるか、と思った。今なら、自分のその考え方のどこが間違っていたかは分かる。あのときは、本当に腹が立ったのだ。
午後、古い洋品店で作業をした。店主の老人が、奥の畳に腰を下ろし、俺たちの手元を見ていた。児玉が割れたガラスを集めていると、老人が、坊やはそっちへ行っちゃいけない、と声を掛けた。
俺はすぐ振り向いた。誰もいなかった。
「どこですか」
老人は、児玉の膝の横を指した。
「今、そこから手を出したろう」
児玉は掃除の手を止めた。軍手の親指を、人差し指で押さえていた。
手袋を外すと、指の付け根が切れていた。血は少しだった。手当てをしている間、老人が小さく舌打ちした。
「それ、口へ入れるんじゃない」
俺は床へ目を凝らした。細かなガラス屑の上に、濡れた跡がついていた。短く光り、それから別の所が濡れた。舐めた跡に見えた。
老人は俺の顔を見て、お宅は何とも思わんのか、と言った。
俺は児玉に帰ろうと言った。仕事は途中だった。老人に文句を言われ、残りの代金はいらないと答えた。車へ戻ると、児玉は助手席に乗らず、道の向こうで待っていた。
「そこへ乗って帰るんですか」
俺は運転席の扉を開けた。座席が濡れていた。大きな水たまりではない。丸い染みが二つ、尻の当たる辺りへ並んでいた。
児玉は歩いて帰ると言った。俺は一人で運転した。家へ着くまで、荷台のどこかで細かい音がしていた。
店に戻ってから、児玉は母親を連れてきた。退職の話だろうと思ったら、そうではなかった。家へ帰ると母親に、誰の子を預かってきたの、と訊かれたのだそうだ。
母親は入口で靴を揃え、俺へ頭を下げた。
「うちでは預かれませんので」
俺に事情が分かっていると思っている。息子の家までついてきた子供を、誰かが迎えに来るべきだと思っている。俺はそんな子供を知らない、と言った。児玉の母親は、俺の後ろを見た。
「そこにいるじゃないですか」
店の奥にはガラス板を積んだ台があった。俺はそこで、初めて顔を見た。
子供は台の陰にしゃがんでいた。顔の半分ほどしか見えていないが、子供だということは分かった。鼻の下へ白い粉がついていた。何かを噛んでいた。笑っているのではなかった。
母親が一歩近づくと、顔はガラス板の陰へ引っ込んだ。俺は、動くな、と怒鳴った。母親へ怒鳴ったようになった。
児玉が母親を連れて外へ出た。俺は追わなかった。台の陰へ向かって、おい、と声を掛けた。
噛む音が止まった。
「何やってるんだ」
ガラスの端に、小さな指が四本掛かった。俺は近寄れなかった。表面に白い粉がつき、爪がほとんどなかった。
「どこから来た」
子供は答えず、足元に置いた小石を拾った。石を持ったまま、店の表へ顔を向けた。
俺はその手首を掴んだ。
驚くほど冷たかった。ガラスの破片を素手で押さえたように、触った所が痛んだ。離して自分の手を見ると、掌には何の傷もなかった。子供は俺を見上げていた。
「それで、やってるのか」
子供は首を傾けた。
俺は店の入口を指した。引き戸の向こうには、商店街の明かりが見えた。
「窓を、割ってるのか」
子供は石を握り直した。それから、俺へ差し出した。
受け取らなければよかったのだろう、と人は言うかもしれない。だが、持って出ていかせるわけにもいかない。俺は石を取った。子供が、もう一つをポケットから出した。また取り上げた。次の一つが出てきたとき、俺は手を引いた。
子供はそれを自分の口へ入れた。
硬い物が砕ける音がした。頬が片方だけへこみ、戻った。歯がどうなっているかは見えなかった。俺は手の中の石を机へ置き、店の外へ出た。
翌日、俺は修理を断った。児玉が来なかったから、一人では板を扱えないと言った。半分は本当だった。二軒目からは他の店の番号を教えた。電話を切ると、ガラス台の下で細かい音がした。
数日休んでいる間に、俺はあれを見たくてたまらなくなった。店を開ければ仕事へ連れていくことになる気がしたので、二階の階段から下を覗いた。台の陰に、小さな背中が丸まっていた。工具を持っているのかと思った。近くにあった使い古しのガラス切りが、床へ落ちていた。
児玉は給料を取りに来た。俺が戻ってきてくれと言うと、あいつは封筒を開けずにポケットへ入れた。
「いつから分かってました」
俺は、ちゃんと見たのはお前の母親が来た日だ、と答えた。
「そういうことを聞いてるんじゃないです」
俺たちは黙った。児玉の傷は塞がっていた。店の合鍵を返してくれとは言わなかった。返されれば、本当にこれで終わりになる。
「仕事が来るたび、助かったと思ったでしょう」
それはお前だってそうだろう、と言いかけた。児玉は俺を見ていた。俺は答えなかった。
閉店することを決めたのは、その一週間あとだ。客に何と説明するかを考えていたら、写真屋の奥さんが訪ねてきた。
あの子に会った、という話だった。
俺が身を乗り出すと、奥さんは、思ったより小さいんですね、と言った。
「何歳ですか」
知らない、と答えた。奥さんは笑わなかった。
「もう、そんな話し方しなくてもいいでしょう。いつも一緒にいるんだから」
俺はどこで見たのか訊いた。奥さんは自分の店を指した。ガラスを替えた入口の前にいて、中を覗いていたそうだ。
「危ないから、帰りなさいって言ったの」
俺は奥さんの顔を見ていた。続きがあるのが分かった。
「でも、あの子、帰るんじゃないんだって」
奥さんは俺を見た。
「直しに来る人を、待ってるんだって」
俺はシャッターを下ろした。店の中はまだ明るかった。児玉が運び出し忘れた軍手が机に載っていた。棚の下の小さな背中へ向かって、明日からは誰も来ない、と言った。
子供は動かなかった。
俺が店の灯りを消そうとすると、背中の向こうで、何かが硬く鳴った。小さな腕が上がった。
手に持っていたのは、店の合鍵だった。児玉へ渡したときに、俺が赤い札をつけたものだ。
俺は子供の手を見た。口の中にあった白い粉が、その札にもべっとりとついていた。


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