父は、死んでから杖を使い始めた。
佐和がそのことに気づいたのは、父の十七回忌の秋だった。駅の東口で、バスを待つ父を見た。くすんだ紺の背広に、先の丸い革靴。右手の杖は、折り畳める安いものだった。父が生きていた頃には持っていなかった。
佐和は道路を渡らず、パン屋の軒下から見ていた。父はゆっくり腰を曲げ、靴の横を掻いた。前屈みになると、後頭部が思いがけないほど薄かった。
最初に父を見たのは、その八年前である。佐和は三十一になったばかりで、市の広報紙を作る会社に勤めていた。取材先の公民館を出ると、物干し竿を売る車の前に、父が立っていた。値段を訊いているらしかった。声は聞こえなかったが、額へ指を当てて渋る癖で分かった。
父は五十六で死んだ。佐和が二十三の春だった。棺へ入れるとき、足に履かせた白い物が片方ずれ、佐和が直した。誰かに似ているだけだと片づけられるほど、父の死は曖昧ではなかった。
そのときは追いかけなかった。父はどうしても竿を買いたいわけではなさそうだった。店の人が何か説明するのを、身体を半分よそへ向けて聞いていた。佐和は、話が終わるまで待つべきなのかと考えた。その迷いを今も覚えている。死んだ父がいることより、余計な口を出すと不機嫌になる父を、先に思い出したのだった。
三年後、スーパーの出口でまた見た。父は小さな買物袋を提げ、連れの女へ差し出していた。女の顔は自動ドアの陰で見えなかった。
生きていれば六十七になる父の、頬の肉が落ちていた。
佐和は袋の中を見た。牛乳と、黄色い袋の食パン。墓へ供えるようなものではなかった。追いつこうとしたが、道路の向こうで取材の待合せ相手が手を上げた。佐和は頭を下げ、仕事の方へ渡った。
どちらのことも母には話さなかった。母は父が死んで七年後に、別の町へ引っ越していた。狭くても階段のない部屋がいいと言い、父の服はほとんど処分した。佐和が子供の頃のアルバムだけ、娘の家へ送ってきた。
父がいなくなってから、母が自分で選んだことを、佐和は邪魔したくなかった。
だが、杖の父を見た日は、夜になって母へ電話した。
「お父さんが生きてたら、いくつ?」
母はすぐに答えた。七十二。佐和が自分で数えた年齢と同じだった。
「写真、見てたの」
そうごまかすと、母は、あの人はいつまでも若くていいね、と笑った。佐和は電話を切り、食卓の椅子へ座り直した。父を見かけるたびに、母が正しいとは思えなくなっていた。
それから佐和は、取材先を自分から引き受けるようになった。東口から先の地域を選んだ。父に会えなかった日も、商店街の端まで歩いた。誰かを探していると言えば、写真を見せてくれと言われるだろう。父の写真は、生きていた頃のものしかない。最後の数年の父を知っているのが、自分だけだという気がした。
三十九の冬、ようやく声を掛けた。
父は銀行の前で、手袋を片方落としていた。佐和が拾い、追いついて渡した。父は礼を言いかけ、娘の顔を見て止まった。
「佐和か」
それを聞いた途端、佐和は泣きそうになった。生きていた頃と同じ声だった。少しだけ、高くなっていた。
「どこにいたの」
父は佐和の襟元を見た。マフラーが片方だけ長くなっていた。昔なら引っ張って直してきたはずだ。父は手を伸ばしかけ、やめた。
「もう、勤めに戻る時間じゃないのか」
「きょうは休み」
嘘ではなかった。会えるかもしれないと思い、有休を取って来たのだ。
父は困った顔をした。銀行の扉が開くたびに振り返った。誰かを待っているのだろう。佐和が母のことを訊こうとすると、父は彼女の肩の向こうを指した。
「バスが来た」
佐和が振り向いた隙に消えたのではない。父はちゃんと歩き出した。ただ、ゆっくりした足取りへ合わせることが、ひどく難しかった。横断歩道の信号で分かれた。次の青を待つ間に、見えなくなった。
佐和は父の名前を口にした。姓まで続けて呼んだのは、腹が立ったからだった。近くにいた人が振り向いた。父は戻ってこなかった。追っているのは自分なのだと、その日やっと分かった。
年が明け、母が入院した。命に関わる病気ではなかったが、退院後は佐和の家へしばらく来てもらった。母は家事を手伝いたがり、佐和が帰る前に夕飯を用意していた。
ある晩、母が包丁の先で親指を切った。絆創膏を貼りながら、あの人に見つかるとうるさい、と小さく言った。
「あの人って」
「お父さん。刃物をこっちへ向けるなって、いつも」
母は笑った。佐和は銀行の前で父が何度も振り返っていたのを思い出した。
父を見たことを話すと、母は黙った。何度も会っているのだと言ったら、少し怒ったように、どうして今まで言わなかったの、と訊いた。
「心配すると思って」
「心配するよ」
母はそれだけ言い、貼り直した絆創膏を指で押さえた。父がいるとは信じていないようだった。佐和に一緒に来てほしいと頼まれても、病院へ通う日を理由に断った。急いで探すことじゃないよ、と言った。
次に見た父は、雨の止んだ道で自転車を押していた。前籠に買物袋があり、杖を荷台の紐へ差し込んでいた。佐和は父を呼ばなかった。
父は商店街を抜けると自転車に乗り、小学校の裏へ入った。佐和が育った家とは反対の方角だった。父が角を曲がったあと、佐和も曲がる。何度も見失いかけたが、濡れた道に杖の先がつく音がした。父は途中で自転車を下り、杖を使っていた。歩けないからといって、自転車にも乗れないわけではないのだ。
平屋が並ぶ細道の、一軒の門で父が止まった。玄関に声を掛けると、中から、はい、と返事がした。
母の声だった。
佐和は門の外で動けなくなった。母はその時間、佐和の家で一人、留守番をしていた。昼前に買物を頼む電話が来たばかりだった。
父は自転車を壁へ寄せ、買物袋を玄関へ置いた。扉が閉まる前に、佐和は門を開けた。
父が振り向いた。
「来ちゃったのか」
叱る声ではなかった。佐和が勤めを辞めたとき、どこから先に話を聞こうかと考えながら、父が言った声に似ていた。
「少しだけ、上がっていい?」
父は断らなかった。履物を一足、脇へ寄せてくれた。母が洗濯物を干すときに使っていた、踵のない靴だった。
玄関の先の部屋で、母が立ち上がった。佐和の家にいる母より、髪が短かった。両手を膝につき、立つ前に小さく息を吐いた。その姿を見て、佐和は帰らなければと思った。どちらが自分の母だろうか、と思い始めたら、帰るべき家まで分からなくなる。
「まあ」
母は佐和を眺めた。
「大きくなって」
三十九の娘に向かって、少しもおかしくない挨拶のように言った。
佐和は靴を脱がなかった。父に、どういうこと、と訊いた。父は食器棚の上へ目をやった。
小さな写真立てが置いてあった。佐和だった。高校を卒業した春、母が庭で撮った写真である。髪を結ぶゴムの色が洋服に合っていなくて、佐和自身は好きではなかった。
写真の前に、小さな菓子皿があった。線香の灰と、水を入れたグラス。菓子は、角の店でよく買った栗饅頭だった。
佐和は棚へ歩いた。父が呼んだが止まらなかった。靴のまま上がっていた。白い畳に濡れた跡が残った。
写真立てを持ち上げた。裏に、母の字で佐和の名前が書かれていた。年月日もあった。佐和が二十一だった年の、知らない日付だった。
「私、死んでない」
母が顔を伏せた。父は買物袋から牛乳を出し、しまいかけたまま手を止めた。
「お父さんの方が死んだんだよ」
佐和の声は、自分で聞いても嫌な声だった。父の死んだ病院を言い、葬儀をした寺を言った。母に、覚えているでしょう、と向き直った。
母は父の腕に触れた。
「また、この子を一人で帰すの」
父は何も言わなかった。
佐和は写真を置いた。二人が自分と目を合わせないことが、怒って否定されるより怖かった。
「じゃあ、私は、どうして死んだの」
父が棚を見た。母は答えなかった。子供には話せないことがある、という顔だった。佐和はこの二人から、その顔を何度も向けられて育った。
「言ってよ」
「いま、来てくれたばかりなんだから」
母がそう言って、佐和の足元を見た。靴の跡を拭こうとはしなかった。ちゃんとそこに付いているのを、確かめるように眺めていた。
佐和の携帯が鳴った。画面に母の名前が出た。
母は目の前にいる。佐和は反射的に電話へ出た。家の母は、冷凍庫へ入っている魚を焼いていいかと訊いた。佐和は答えられず、電話を切った。目の前の母が、忙しいのね、と言った。父は買物袋を畳み始めた。佐和の話が終わるのを待つ手つきだった。
帰る、と佐和は言った。
父は門まで送ってきた。濡れた靴の跡は部屋から玄関まで続いていた。ちゃんと歩いたのだから、来た道を戻れる。佐和は足元を見ながら、門へ向かった。
「誰にも、無理に話さなくていい」
父が言った。
「私のこと、信じてないんだね」
父は傷ついた顔をした。
「ここまで来てくれたのに、信じないものか」
門を出たところで、佐和は振り返った。父は母に腕を貸して、部屋へ戻ろうとしていた。台所の窓が少し開いていた。
「この前より、また年とったねえ」
母の声がした。
父は、誰だって年はとる、と答えた。
「でも、あの子は」
母がそこで言葉を止めた。
父の背中が、ゆっくり小さくなった。佐和は自分のために水を替える音を、窓の外で聞いた。


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