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kikaisenban

怪談

田原坂、三月二十日の四十分

毎朝、家の前の桜を数えてから仕事に出る。川沿いの道に一列に植わった、十二本だ。古い借家に一人で住んで、もう十年になる。端の一本は、その借家の奥の間の窓のすぐ前に立っている。夏はその枝の影のおかげで、奥の間の畳が焼けずにすむ。
怪談

湯の山温泉、鶯花荘寮の前から乗った客

わしは今年で七十四になる。菰野の小さいタクシー会社で、夕方の番をしとる。四日市の工場をやめてから乗りはじめたで、もう三十年あまりや。夕方の持ち場は、近鉄の湯の山温泉駅や。湯の山線の終点で、線路はそこで行き止まりになっとる。
怪談

清滝トンネルで、一回だけ赤を待った

十月の半ばの、金曜の夜だった。拓海の仕事が長引いて、名古屋を出たのは九時半を回ってからだ。行き先は、京都の清滝。愛宕山の登り口にある、川沿いの小さな集落だ。山が好きなのは拓海で、志保はいつもついていくほうだった。
怪談

旧吹上トンネルの下を抜けてきた声

六月の終わりは、工場の中まで湿っている。床のコンクリートが汗をかいて、長靴の底がきゅっと鳴った。グリスと雨の匂いが、朝からこもったままだ。樋口の勤める整備工場は、青梅の黒沢にある。成木街道を北へ上がって、吹上峠にかかる手前だ。
怪談

雄別炭鉱跡、ばあちゃんの左の耳

ばあちゃんは、人の話を右の耳で聞いた。誰かに話しかけられると、首を少し右にかしげる。左の耳は、子どものころから遠かったらしい。「左は、雄別に置いてきたの」そう言って、ばあちゃんはよく笑った。
怪談

七つの家の坂、助手席の窓の曇り

私が働いているのは、光市の立野にある小さな直売所だ。立野橋の西で、県道八号から二十三号へ折れて、すぐの所にある。朝のうちに、近くの農家さんが野菜を並べに来る。昼は、通りがかりの車がよく寄っていく。
怪談

平和の滝、明け方の万華鏡

親父の家の廊下には、鳴る板がある。玄関から数えて、三枚目だ。踏むと、ぎい、と低く鳴る。子どものころ、俺はその音でよく目を覚ました。外がまだ暗いうちに、ぎい、と一回。それから玄関の戸が開いて、閉まる。親父が出かけていく音だ。
怪談

本牧の白い家と、夜中の水槽ノート

律子の朝は、夜中の三時に始まる。港のほうのパン工場で、早番をしている。五時には白い帽子をかぶって、粉の袋を開けている時間だ。家を出るのは四時十分。バスはまだ走っていないから、自転車で坂を下りていく。
怪談

新潟ロシア村のマトリョーシカは、ひとつ多い

新潟ロシア村で買ったマトリョーシカの話を、三人から聞いた。小学校の同級生で、今も年に一度は集まる仲だという。三人とも、四十に手が届くくらいの歳だ。話は一人ずつ、別々の日に聞いた。食い違うところも、聞いたまま並べておく。
怪談

小坪トンネルの無線と、六〇八号室の客

夜八時から朝の六時まで、逗子の営業所で配車の無線を取っている。駅から歩いて五分の、古いビルの二階だ。私の夜勤は、火曜と木曜と土曜。零時を回ると、事務所には私一人になる。机の上には、卓上のマイクと電話が二台並んでいる。