私が働いているのは、光市の立野にある小さな直売所だ。
立野橋の西で、県道八号から二十三号へ折れて、すぐの所にある。
朝のうちに、近くの農家さんが野菜を並べに来る。
昼は、通りがかりの車がよく寄っていく。
夕方になると客足が落ちて、聞こえるのは冷蔵ケースのうなる音ばかりだ。
私は昼の三時から入る。
閉めるのは六時で、片付けを済ませると六時半を回る。
夕方の番は、いつも森下さんと二人だ。
森下さんは六十をとうに過ぎていて、この店にもう十年以上いる。
レジの打ち方も、値札の貼り方も、全部この人に教わった。
この辺りで、夕方だけ働ける所は、ここくらいのものだ。
店の裏口には、茶トラの猫が来る。
誰が呼びはじめたのか、名前はチャーという。
五時ごろになると、駐車場の端からまっすぐ歩いてきて、裏口の前に座る。
森下さんが、ステンレスの餌皿にカリカリを入れてやるのが決まりだ。
チャーは、森下さんの足にだけ頭をこすりつける。
私が手を出すと、一歩だけ下がる。
三年通っても、その一歩の分だけ、私は遠いままだ。
レジの横には、森下さんの字で貼り紙がしてある。
「七つの家の道案内は、お断りしています」
週末の夕方になると、若い人の車が寄って、道を聞いてくるからだ。
七つの家は、二十三号を束荷のほうへ上がる坂の途中にあるらしい。
竹のかぶさった細い道の奥に、古い家が何軒か残っているという。
「七軒の家族が、ある日いっぺんにおらんようになったんじゃと」
「家具も、鎖につないだ犬も、そのまんまで」
初めてその話をしてくれた日、森下さんはそう言って、鼻で笑った。
「そんなん、嘘よ」
森下さんは、値札の機械をかちかち鳴らしながら続けた。
「売れ残りの家が、放っとかれとるだけ」
「建てよる途中で会社がいけんようになったとか、うちらはそう聞いとる」
どこの誰が言い出したのかは、森下さんにも分からずじまいだ。
昔ネットの掲示板に書かれたとか、テレビで取り上げられたとか、人によって言うことが違う。
私の家は、岩田のほうにある。
毎日、二十三号でその坂を越えて通う。
坂の途中に、竹が両側からかぶさって、昼でも薄暗い所がある。
その陰に、細い道の口が黒く開いている。
あそこが七つの家への道だと、森下さんに教わった。
人の土地で、入ってはいけない所だ。
入ろうと思ったことは、一度もない。
車の窓から暗いほうを横目で見て、通り過ぎるだけだ。
おかしくなったのは、九月に入ってすぐの火曜日だ。
平日には珍しく、閉める間際に若い男の子の三人連れが道を聞きに来た。
森下さんは貼り紙を指でたたいて、一言だけ返す。
「あそこは人の土地じゃけ、入ったらいけんよ」
三人を見送ってから片付けをして、店を出たのは六時三十五分だった。
坂にかかると、竹の下はもう暗い。
ライトをつけて、アクセルを踏みこむ。
細い道の口を過ぎて、少し上ったところで、エンジンが止まった。
ぷすん、と一回鳴って、それきりだ。
ハンドルが急に重くなる。
惰性のまま路肩に寄せて、ハザードをつけた。
キーを回すと、メーターの針がぴくりと震えて、それで終わりだった。
二回、三回とやって、手を止める。
森下さんに電話をかけた。
森下さんの家は、立野橋のすぐそばだ。
「すぐ行くけ、車から出たらいけんよ」
「あそこは歩道が切れとるけ、はねられるよ」
電話を切ると、竹の葉のこすれる音と、ハザードの小さな音だけが残った。
運転席の窓を指一本ぶんあけても、車の中はむっと暑い。
青くさい竹の匂いが、その隙間から入ってくる。
六時四十八分。
メーターの時計を見ていたとき、左の目のはしで、何かが白くなった。
助手席の窓だ。
ガラスの外側が、座った私の胸くらいの高さで、手のひらほど曇っている。
曇りは、ゆっくり広がって、少し縮んで、また広がる。
息を吹きかけたときの、あの曇り方だ。
外は暑いのに、窓の外側のそこだけが白い。
見たらいけん、と思った。
首を動かさずに、メーターの数字だけを見る。
ぎし、と車が鳴った。
助手席の側が、ゆっくり沈んでいく。
誰かが外から、ドアに体をあずけたような傾き方だった。
ハンドルを握った手のひらが、汗で滑る。
六時五十分。
六時五十三分。
曇りは、ずっと同じ高さにある。
後ろから、ライトが近づいてきた。
森下さんの軽トラだ。
ミラーが白く光った瞬間、助手席の窓は透明に戻っていた。
傾きも、戻ったような気がする。
森下さんが運転席の横まで来て、窓をこんこんと叩く。
「どうしたんね、こんな所で」
窓をおろして、エンジンが、と言いかけた。
自分の声が、いつもより低くかすれている。
暑さで、喉が渇いているせいだろう。
森下さんは、少しだけ目を細めた。
もう一度キーを回すと、エンジンは一回でかかった。
「バッテリーかね、明日見てもらいんさい」
森下さんは、私の車の左側をのぞきこんで、首をかしげる。
「なんか載せとるん、こっちに」
私は、空の助手席を見たまま首を振った。
「ほうね、ちいと傾いて見えたけど」
森下さんの軽トラが向きを変えて、坂を下りていく。
私は反対に、坂を上って家へ帰った。
カーブを曲がるたびに、左の後ろが重たいような気がした。
窓を全部あけて、虫の声を入れながら走る。
家に着いたのは、七時を少し過ぎたころだ。
その晩は、やけに腹が減った。
台所に立ったまま、冷やご飯を茶碗に二杯かきこんだ。
怖い目にあうと、人は腹が減るものらしい。
鍋に残っていた煮物にも、箸が伸びた。
自分の噛む音ばかりが、台所に響く。
水曜の朝、車を見ると、助手席の窓の外側に、丸い跡が残っていた。
脂を押しつけたような、くもった跡だ。
濡らしたティッシュでこすっても、きゅっきゅっと鳴るばかりで、跡は薄くなるだけだった。
岩田の整備屋さんに寄ると、バッテリーもプラグも悪くないという。
「左の後ろの空気が、ちいと減っとるね」
空気を足してもらって、三時前に店へ入った。
その週は、末永さんのトウモロコシがそろそろ終わるころだった。
末永さんは、朝に野菜を出しに来るおじいさんだ。
夕方の五時半を回ると、軽トラで売れ残りを引き取りに来る。
トウモロコシは、三時を回ったころに、森下さんが奥の大鍋で十本茹でる。
レジの横には三本ずつ出して、残りは鍋の湯に浸けておく。
塩だけで茹でたのが、うちの売りだ。
「うちは入れ歯じゃけ、丸かじりは、ようせんのよ」
茹でながら、森下さんは毎年そう言って笑う。
売り物に手をつけないのは、この店の決まりだ。
私も、ここのトウモロコシは、買って帰って家で食べる。
水曜の五時から二十分ほど、私は奥で段ボールを畳んでいた。
そのあいだ、レジには森下さんが立つ。
二十分かけたわりに、畳めた箱は四つだけだった。
指の先が、少しべたつく。
ガムテープの糊だと思って、流しで洗った。
表に出て、森下さんと交代する。
森下さんは奥に入って、鍋の火を落とし、流しを片付けはじめた。
五時半の少し前、レジの横のトウモロコシが売り切れた。
次の三本を出しに、奥へ行く。
鍋の湯の中には、一本だけが沈んでいた。
売れたのは六本だから、四本はあるはずだった。
流しの横のごみ箱に、芯が三本、捨ててある。
どの芯も、一粒残らずかじり取られていた。
列に沿って、歯でこそげたような跡がついている。
流しの前で、森下さんがスポンジを絞っている。
奥にいたのは、この何分か、森下さんだけだ。
「森下さん、トウモロコシ、食べた?」
森下さんは、きょとんとして、それから笑った。
「うちが、入れ歯で?」
「食べるわけないじゃろ、売り物を」
ごみ箱の芯のことは、口に出さずにおいた。
忘れているのか、隠しているのか、その顔ではどちらとも取れる。
森下さんの口もとは、いつもどおり白っぽく乾いている。
末永さんの軽トラが入ってきて、その話はそこで途切れた。
木曜の五時、チャーは駐車場の端で足を止めた。
いつもなら、まっすぐ裏口まで歩いてくるところだ。
体を低くして、しっぽを太くしている。
目は、裏口に並んで立つ私と森下さんのほうを向いていた。
「チャー、ほら」
森下さんが餌皿を振る。
カリカリが鳴るたびに、チャーは一歩ずつ後ろへ下がっていく。
チャーは森下さんを怖がっている、と私は思った。
火曜の晩、森下さんは私を迎えに来てくれた。
ライトが近づいた途端に、窓の曇りが消えたのを覚えている。
あの白いものは、あのとき、森下さんのほうへ移ったんだ。
私が電話をかけたから、森下さんはあの坂まで来た。
それなら、私のせいだ。
そう考えると、いろいろなことの筋が通ってしまう。
森下さんは餌皿を裏口に置いて、中へ戻った。
私は表に回って、レジに立った。
五時四十分ごろ、足首に何かがふれる。
やわらかい毛の感じが、くるぶしを撫でて、すねのほうへ回っていく。
ごろごろと、喉の鳴る音もする。
カウンターの下をのぞいた。
床と、私のサンダルがあるだけだった。
ガラス戸の向こうに、駐車場の端のチャーが見える。
さっきと同じ所で、低くなったまま、こっちを見ている。
閉める前に、裏口の餌皿を下げに行った。
カリカリが、半分に減っている。
チャーは最後まで、駐車場の端にいた。
ガラス越しに、私はそれをずっと見ていた。
奥では、森下さんが帳面をつけている。
誰が食べたのか、聞くのはやめておいた。
その晩も、二十三号で坂を上った。
細い道の口の前では、アクセルを少し踏みこむ。
助手席の窓は、なるべく見ないようにした。
家に着いて車を降りると、左の後ろのタイヤが、また少しつぶれて見えた。
空気は、昨日足してもらったばかりだ。
金曜は、森下さんがずっと私から離れていた。
レジに並んで立つことはなく、奥と表を、私と入れ違いに行き来する。
お釣りを渡すのも、袋に詰めるのも、森下さんが先に手を出す。
私の手の届く所に、なるべく物を置かないようにしている。
そう見えた。
大鍋は、棚の上に伏せたままだった。
末永さんが朝に持ってきた最後の五本は、生のまま奥の冷蔵庫に入っている。
扉には、森下さんの字で、さわらんこと、と書いた紙が貼ってあった。
麦茶を出しに冷蔵庫をあけるたびに、その紙が目の前に来る。
五時を少し過ぎたころ、後ろから呼ばれた。
「ねえ、ちょっと」
森下さんは帳面を胸に抱えて、二歩ぶん離れた所に立っている。
「うちの下の名前、言うてみて」
なんで今、と思いながら、和子さん、と答えた。
「ほうね」
森下さんは、帳面の角を指でなぞって、少し間をあける。
「あんたのは」
私は、自分の名前を言った。
森下さんは、うなずきかけて、途中でやめた。
そのまま、奥へ入っていく。
客の切れたあいだに、レジの陰で携帯を出した。
検索の欄に、物忘れ、食べたのを忘れる、と打ちこむ。
出てくるのは、年を取ってからの病気の名前ばかりだった。
食べ物をしまいこんで、人に触らせなくなるのも、よくあることらしい。
名前を何度も確かめるのも、そうだという。
森下さんの年を思うと、どれも当てはまる。
猫は、人の具合が悪いのが分かる、という話も聞いたことがあった。
筋は通っている。
通っているのに、目をつぶると、助手席の窓の白い曇りが浮かぶ。
七つの家の話とは関係ない、と自分に言い聞かせた。
あそこの話は、森下さんの言うとおり、売れ残りの家の話だ。
店長に話すのは、来週にしようと決めた。
その前に、森下さんを昔から知っている人に、聞いてみたいことがある。
五時半を少し回って、末永さんの軽トラが入ってきた。
売れ残りの箱を、二人で荷台へ運ぶ。
森下さんは、奥にこもったままだ。
最後の箱を載せたところで、私は声を落とした。
「森下さん、火曜から、ちょっと様子がおかしいんです」
「トウモロコシのこととか、名前のこととか」
末永さんは、荷台のあおりに手をかけたまま、私の顔を見た。
長いあいだ、黙って見ている。
日に焼けた指が、あおりの縁をこつこつ叩く。
「森下さんもな、昼に電話してきて、おんなじことを言いよったで」
末永さんの目は、私の口もとに止まっている。
「火曜の晩から、あんたがよその人みたいじゃ、言うて」
何か言い返そうとして、口の中で舌が動いた。
奥歯のあいだに、薄いものがはさまっている。
舌の先でつつくと、ぺらりと剥がれた。
トウモロコシの、粒の皮だった。
今日の大鍋は、棚の上に伏せたままだ。
末永さんはそれ以上何も言わずに、運転席に乗りこんだ。
窓をおろして、一言だけ置いていく。
「トウモロコシは、もう持って来んけ」
軽トラは、県道へ出ていった。
駐車場の端に、チャーがいる。
体を低くして、私だけを見ている。
足首を、やわらかいものが撫でていった。
私の軽は、いつもの所に停めてある。
左の後ろが、今日も少し沈んで見える。
家へ帰るいつもの道は、あの竹の下を通っていく。
口の中で、自分の名前を一度だけ言ってみた。
合っている、と思う。
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