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箱の内側

箱の底に、壁紙が貼ってあった。
梨香は折り畳まれた段ボールを広げ、内側を指で擦った。白地に、爪で引いたような細い筋のある紙だった。見覚えがあった。今いる部屋の壁紙とよく似ていた。
その上に、輪染みが一つあった。湯呑みを置いたくらいの大きさで、薄茶色だった。
台所から姉の晴美が呼んだ。梨香は返事をし、箱を壁へ立てかけた。食器を入れるには汚れている。最後に雑巾でも詰めればいいと思った。

晴美の家を出るのは土曜だった。
職場が変わるまでの三か月、というつもりで転がり込んで、八か月が経っていた。寝る部屋はあったが、鍵はついていなかった。姉夫婦と暮らすことより、誰かが廊下を歩くたびに携帯を伏せてしまう自分が嫌だった。
ようやく借りられた部屋は、職場から二駅のところだった。狭くて、窓の外は隣の壁だった。それでも、床に荷物を広げておけると思うだけで、梨香は嬉しかった。
金曜の夜には自分で一泊分を運び、残りは翌朝の引っ越しの車に任せるつもりだった。

新しい箱は十枚、玄関へ届いていた。
梨香が留守だったので、晴美が受け取った。全部まとめて紐で縛ってあったという。梨香は引っ越し会社からのサービスだと思った。
一枚だけ、内側に紙の貼られた箱があった。外側はほかと変わらなかった。会社の印刷も、折り目の場所も同じだった。
晴美は、誰かの使い回しが混じったんじゃない、と言った。あとは新品なので、電話するほどでもない。
梨香はその箱を脇へ避け、服を詰め始めた。

次の日、出勤前に姉と少し言い合いになった。
借りた皿が部屋にあるから下げてほしい、と言われた。梨香は後で洗うつもりだった。晴美も仕事へ出るところで、後でっていつ、と言い返した。
皿は三枚あった。一度に使ったわけではなかった。机の下へ重ねていたので、梨香自身も数を忘れていた。
夜、帰ってすぐに洗った。
わざと音を立てていないつもりだったが、晴美が台所の入口まで来た。二人とも謝らなかった。

荷造りは、そこから急に進んだ。
箱の外へ、本、服、残り、と大きく書いた。晴美に読めるようにと思った自分がまた嫌で、最後の字を強くなぞった。
梨香は引き出しを抜き、下着を畳まず箱へ入れた。本は重いから分けろ、と姉に言われていた。そのことまで思い出して腹が立ち、本の箱を一度持ち上げてから、半分を出した。
空いた場所へ何を入れるか考えていると、壁が鳴った。
ぱき、と、机の後ろで鳴った。乾いた小枝を折るような音だった。
梨香は手を止めたが、すぐ忘れた。家が鳴ることくらいはあった。
壁紙の箱を手前へ引くと、また同じ場所で鳴った。

箱は、底の差し込みが外れかけていた。
梨香はひっくり返して押し込み、上からテープを貼った。部屋の入口で、みし、と音がした。次に窓の下で鳴った。
その時は、晴美が廊下を歩いたのだと思った。
箱を元へ戻し、畳んだカーテンを入れた。前の住まいで使っていた、青い花柄のものだった。新居の窓には少し長いが、しばらくは我慢するつもりでいた。
布が箱の底へ触れると、部屋の明かりが青くなった。
梨香は顔を上げた。天井の灯りは、いつもの白い色だった。

カーテンを引き出した。
壁が、ごり、と鳴った。
窓の外で何かが動いた気がした。夜なので、硝子には自分の部屋が映っていた。その中に青いものが広がり、持っているカーテンを膨らませた形に見えた。
梨香は窓のカーテンを閉めた。こちらは晴美の物で、無地の茶色だった。
また箱へ目を戻した。
底の輪染みが、四角く見えた。
顔を近づけると、輪の一部だと思っていた薄茶色の線が、箱の角へ向かって伸びていた。角の手前で、直角に折れていた。

机の後ろにあるコンセントが、箱の底にもあった。
小さく、紙に印刷したように平らだった。それなのに梨香が顔を近づけると、差し込み口の穴の中が見えた。
彼女は箱を離した。
背中で何かが擦れた。振り向くと、机と壁の間にあった延長コードが揺れていた。自分は触っていなかった。
梨香は廊下へ出た。姉の名を呼ぼうとして、黙った。晴美夫婦の寝室から、低い話し声がしていた。
さっきの皿のことをまだ言われると思ったのだ。そう思った自分に呆れながらも、梨香は部屋へ戻った。

カーテンを別の箱へ移し、壁紙の箱を畳もうとした。
底のテープへ爪を掛けた。持ち上がらなかった。鋏の先を差し入れ、ほんの少し剥がした。
天井で、長いものが裂ける音がした。
梨香は鋏を放した。
音は続いていた。じり、じり、と、天井の真ん中を横切った。白い面に、茶色い線ができていた。線の端から、何か薄いものが下がった。
テープだった。梨香が箱へ貼ったのと同じ、幅の広い布テープだった。
どこへつながっているのか見ようとして、彼女は箱へ両手を掛けた。
天井の線が、頭の上で口を開けた。

隙間の向こうは、明るかった。
梨香の部屋より白い光だった。その前を、太いものが一本、ゆっくり横切った。指に見えた。
すぐに引っ込み、上から茶色い面が下りてきた。
梨香は床へ座り込んだ。足の甲に鋏が当たった。痛かった。自分が部屋にいることだけは確かだった。
箱は目の前にあった。
彼女は箱の縁から手を離した。天井の隙間が狭くなった。
見上げるのをやめられず、梨香は床を後ろへ這った。

入口まで来た時、廊下で晴美の声がした。
「何か落とした?」
梨香は立とうとして、足を滑らせた。素足の裏に、紙の粉がついた。床には白っぽいものが薄く撒かれていた。
ドアを開けると、姉がいた。パジャマの上へ、長いカーディガンを羽織っていた。
梨香はその顔を見て泣きそうになった。
「天井、見て」
晴美は部屋の中を覗き、眉を寄せた。梨香を押しのけず、肩を少し引いて入ってきた。
天井を見上げたまま、口を開けた。
何も言わなかった。

晴美は梨香の手首をつかみ、戸口へ引いた。
壁の中を、ばりばりと音が走った。
二人が入口へ寄るより早く、音がドアの上まで来た。木の枠が内側へ撓み、蝶番の側からドアが少し持ち上がった。
晴美は手を離してドアを支えた。
「出て」
梨香が通り抜けようとすると、廊下の床が高くなった。足を上げても、その先の暗がりへ膝が当たった。固いものではなかった。擦ると乾いた粉がついた。
廊下だと思っていたものは、垂直に立った茶色い板だった。

晴美が拳で叩いた。
向こうから、夫の直也が返事をした。二人とも部屋の中にいるのか、と訊いていた。
「戸が開かないの」
晴美はそう答えた。開いているドアの取っ手を、握ったままだった。
直也が廊下から近づいてきた。足音が右へ寄り、上へ上がった。
梨香は顔を上げた。
天井の隙間で、明かりが遮られた。
直也が、いるのか、と呼んだ。今度は声が大きすぎて、耳の奥へ響いた。天井の裏のすぐ近くで、人が喋っている声だった。

部屋が持ち上がった。
足元が一度浮き、箱も本も、入口のほうへ滑った。晴美が梨香へぶつかり、二人で膝をついた。晴美のカーディガンの裾が、梨香の手の下へ入っていた。
その布を握ったまま、梨香は姉の名を呼んだ。
返事はすぐそばから聞こえた。
壁紙の箱が、床を滑ってきた。さっきより軽く見えた。上の蓋が閉じかけ、その隙間から、細い声がした。
晴美を呼ぶ、梨香自身の声だった。
梨香は箱を蹴った。壁が激しく鳴り、晴美の額が床へ当たった。

彼女はもう箱へ触らなかった。
姉を起こし、窓まで行こうとした。晴美は額を押さえていたが、自分で立った。二人は互いの服をつかんだまま、窓際へ寄った。
茶色いカーテンを引いた。
硝子はなかった。窓枠の向こうを、大きな黒い線が斜めに通っていた。線の端は丸く、途中で掠れていた。
梨香は、その線をついさっき書いていた。
大きな字で、残り、と。
窓の向こうには、その最後の一画が見えていた。

上で、直也が誰かと話していた。
箱から声がする、と言っていた。もっとよく開けてみろ、と、別の男が答えた。電話の向こうの声なのか、その場にいる人なのか分からなかった。
晴美は夫の名を呼んだ。声を張ると額が痛むらしく、途中で眉をしかめた。
白い隙間が、少し広がった。
梨香はその真下へ行った。手を上げた。指の先から、まだ一メートルはあった。見えない上へ届くはずがなかった。
それでも、両手を伸ばした。

隙間から、何かが差し込まれた。
太く白い、丸みのあるものだった。梨香の肩より幅があり、先に薄い爪がついていた。
晴美は梨香を脇へ引いた。
指は床へ届き、空の箱を押し、壁まで滑った。何かを探しているようだった。晴美がそこへ手を当てると、指はびくっと引っ込んだ。
上で、直也が悲鳴を上げた。
何かいる、と言った。
晴美は、私、と叫んだ。私だから、開けて、と。
茶色い面が、左右から下りてきた。
閉めるな、と梨香が叫ぶ間に、部屋は真っ暗になった。

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