風呂を出て、顔を拭こうとしたら髭が当たった。
私のではない。両手で持ったタオルの、掌の側だった。洗いざらしの綿とは違う、剃って一日たったくらいの短い髭の感触があった。右手の親指を動かすと、濡れた下唇に触れた。
私はタオルを落とした。
洗面所の床へ広がったのは、普段使っている灰色のタオルだった。会社の同僚が結婚したとき、引き出物のカタログから選んだものだ。二枚組で、もう一枚は洗濯機に入っていた。髭を触った辺りには、一本、糸が長く出ているだけだった。
住んでいたのは線路沿いの古いマンションで、電車が通ると洗面台の鏡が細かく鳴った。私はそこで顔を剃り、髪を乾かし、毎朝、同じ時刻の電車に乗っていた。部屋に他人を泊めたのは、引っ越しを手伝ってくれた兄の一度だけだった。
床のタオルを足で裏返した。裏も灰色だった。まだ顔が濡れていたので、洗濯機の上のティッシュで拭いた。
翌朝、そのタオルは浴室の物干しに掛かっていた。
自分で拾って掛けたはずだった。昨夜はそのあと弁当を温め、録画していた番組を見て寝たのだが、タオルをどうしたのかだけ覚えていない。両端を揃えず、片方をひどく長くして掛けてあった。
近寄ると、長い方の裾から水が落ちた。浴室の換気扇は一晩回してあった。
出勤前で、調べている時間はなかった。
帰ってから洗おうと思い、ほかの物と一緒に洗濯機へ入れた。触った感じは濡れた布だった。こちらが身構えていると何も起きないのが腹立たしく、私はいつもより強く蓋を閉めた。
その音が収まったあと、蓋の中から、もっと小さな音がした。
「あついのがいい」
男の声だった。
その日は仕事の途中で、タオルをくれた同僚に電話をした。
声を聞きたかった。結婚して遠方の支店へ移った彼とは、一年近く話していなかった。タオルまだ使ってるよと言うと、何の、と聞き返された。引き出物の話をして初めて思い出し、そんなものを選んでいたのかと笑った。
彼の声は高く、少し鼻にかかる。蓋の中で聞いた声は、もっと太かった。何を確かめるつもりだったのか、自分でも分からなくなった。
帰宅すると、玄関で水の匂いがした。
生乾きの臭いでも、排水口の臭いでもなかった。小学校のプールの、更衣室へ持ち込まれた水着の匂いに似ていた。
洗濯機の蓋は閉じたままだった。私はその前で、ただいま、と言いかけた。自分の口がその形になったことに気づき、舌を噛んだ。
蓋を開けると、昨夜脱いだ白いシャツが一番上にあった。
その襟の内側に、顎が載っていた。
人がシャツを着ているのではない。畳まれてもいない布の窪みに、下顎だけが収まっていた。肉のついた丸い顎だった。短い黒い髭があり、唇はシャツの外へ少しはみ出していた。顎から下は見えなかった。
「遅かったね」
唇が動いた。
私は蓋を閉めた。
手が震えたのは、それからだった。
会社を出たあと、駅の反対側の古本屋へ寄っていた。そこで立ち読みをして、予定より一本遅い電車に乗った。寄り道をした日なんていくらでもあるのに、遅かったと言われた瞬間、それを知られていると思った。
洗面所の戸を閉め、台所で水を飲んだ。グラスを置こうとして流しへ落とした。割れはしなかったが、底に溜まっていた水が胸まで跳ねた。
洗面所の戸の向こうで、誰かが鼻をかんだ。
濡れたものを引き抜くような長い音だった。続けて、喉の奥で水を転がす音がした。電車が通ると聞こえなくなり、通り過ぎればまた始まった。
私は玄関へ行った。鍵と財布を持ち、携帯電話を取りに戻った。その短い間にも、洗面所を通るときは壁の側へ寄った。
兄は電話に出たが、残業中だった。
人が入っているかもしれないと話すと、外へ出て警察を呼べと言われた。その通りだった。そうするつもりで玄関へ戻った。
上がり框に、白いシャツが落ちていた。
洗濯機の中にあったものだった。胸に飛んだ水が、私の着ているシャツの上で冷えていた。私は自分の襟へ指を入れ、それから足元を見た。床に落ちているのは、昨夜脱いだ方だった。
シャツを避けて靴を履いた。
門灯の下へ出ると、二階に住む荻原さんが帰ってきた。自治会の書類を入れて回る人で、顔を合わせれば挨拶をする。私は彼を引き止め、部屋に誰かいる、と言った。
荻原さんは携帯電話を出した。その前に私の顔を見て、首のところ、と言った。
私の襟が、内側から動いていた。
喉仏の少し下に、息が当たった。
温かい息だった。誰かが胸へ口を寄せ、シャツの中へ息を吹き込んでいた。けれど私の前には荻原さんしかおらず、彼は二歩ほど離れていた。
私はボタンを外した。一つ目が外れ、二つ目へ指をかけると、布の裏から舌が出てきた。指の腹を、ゆっくり舐めた。
シャツを頭から脱いだ。ボタンが一つちぎれ、舗道を転がった。
荻原さんが私の腕を掴んだ。
「脱いでる。もう脱いでるよ」
私はまだ肩から何かを剥がそうとしていた。皮膚に爪が引っかかった。彼が私の手を下ろし、門灯の方へ向けた。
落ちたシャツの襟が、丸く立っていた。
そこに顎があった。唇も髭もあった。私は見られなかったが、荻原さんは膝を少し曲げ、しばらくそれを見ていた。
「あんたのか」
「シャツは」
答えると、彼は顔を上げた。
私たちは裸の男を挟んで話しているような声の低さになっていた。唇は動かなかった。シャツは、私が胸へ水をこぼした所だけ濡れていた。
荻原さんが、上で服を取ってくる、と言った。二階へ駆け上がる足音を聞きながら、私は舗道のシャツから離れた。顎は動かなかったが、私が立つ場所を変えるたびに、唇の正面がこちらを向いていた。
借りた上着を着て、警察を待った。
私が一度だけ肩を拭いてから着たのを、荻原さんは黙って見ていた。彼の家の乾いた手拭いには何も出なかった。
駐車場へ車が入ってきたとき、落ちていたシャツはただの布になっていた。警察の人が片方の袖を持ち上げ、もう片方の手で襟を開いた。荻原さんが、触らない方が、と言った。
警察の人は手を止めたが、そこで何が見えたかを説明できるのは私たちだけだった。
部屋も見てもらった。
窓の鍵は掛かっていた。洗濯機には灰色のタオルが二枚と、私の下着が入っていた。水を張った覚えはないのに、底に少し溜まっていた。洗濯機から床まで、何本か細い水の筋があった。
住人を装った人の侵入がなかったかなど、いくつか訊かれた。私は首を横に振り、荻原さんは舗道で見たことを繰り返した。二人とも酒を飲んでいなかった。
その晩は兄の家へ行くことにした。
荷物を取りに戻ったとき、荻原さんが玄関に立っていてくれた。
私は下着と充電器を鞄へ詰めた。洗面所の歯ブラシを取りに行く気にはなれなかった。濡れた服も持たず、財布と携帯をもう一度確かめた。
出る直前に、洗面所から声がした。
「脇、まだ拭いてないよ」
荻原さんが私の肘を引き、戸を閉めた。
私は汗をかいていた。
上着の下の脇は、湿っていた。靴の中で足も汗ばんでいた。鞄の持ち手にも、掌の湿り気が移っていた。
けれどタクシーを待つ間、右の脇を閉じられなかった。腕と胴の間で、誰かの鼻を潰してしまう。そういう高さに、硬い鼻筋があった。左手を入れて確かめようとすると、上着の袖の中から、小さく咳払いが聞こえた。
私は腕を上げたまま、荻原さんへ助けてくださいと言った。
服を脱ぐために、彼の家へ入れてもらった。
荻原さんの奥さんが驚いて廊下へ出てきた。事情を聞くより先に、風呂場を使って、と言った。私は浴室の中へ入らず、脱衣所で上着を脱いだ。
袖から腕が抜けると、脇の下には何もなかった。赤くなった皮膚と、汗で寝た毛があるだけだった。
上着を洗面台の縁へ置いた。肩から右の袖にかけて、誰かがまだ着ているような膨らみが残っていた。私の腕が抜けたあとも、布は肩の丸みを保っていた。
奥さんが持ってきたバスタオルを、私は断った。
紙なら、と言うと、台所からキッチンペーパーを一本持ってきてくれた。三人で、喋らずに私の背中と肩を拭いた。
荻原さんが上着を物干しへ掛けた。袖から指が出てくることはなかった。脇の下だけが、布の向こうで盛り上がっていた。ときどき、そこにある唇が何かを吸うように動いた。
奥さんは見えていないらしかった。ただ、私たちが拭き終えた紙を床へ置くと、一枚ずつ拾って広げた。
鼻の形に窪んだ紙があった。
奥さんはそれを照明に透かした。薄い紙の向こうに、彼女の指が見えた。窪みの下には、小さな二つの穴があった。
「これも、掛けましょう」
そう言って、洗濯ばさみを探しに行った。
私は椅子に座り、手を膝の上へ置いた。指の間に汗が溜まっていないか、何度も広げた。
兄が迎えに来たのは十一時を過ぎてからだった。
荻原さん夫婦の家には、借りた上着と白い紙が干してあった。灰色のタオルの話から説明しようとしても、順序がうまくまとまらなかった。兄は、まず病院へ行こう、と言った。
借りた乾いたシャツへ袖を通すとき、私は息を止めた。荻原さんの奥さんが、車は冷やしてもらって、と兄へ頼んだ。
病院で名前を呼ばれるまで、兄は私の横に座っていた。
洗濯物にはもう近寄っていない。濡れた上着も持ってきていない。兄がそう言うたび、私は頷いた。首の爪の傷を看護師さんに訊かれ、自分で掻いた、と答えた。
看護師さんは頷き、湿らせたガーゼを持ってきた。傷に貼りついたシャツの繊維を取るためだった。
私は膝の上で手を握り、すぐ開いた。
ガーゼが首に当たった。
看護師さんが手を止めた。冷たかったですか、と訊かれ、いいえと答えた。彼女はガーゼを少し浮かせた。
そこに口があった。
髭のない、小さい口だった。ガーゼの角から唇を出し、私と一緒に、いいえと言った。


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