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庭を空ける

庭に知らない人がいるのを見つけたのは、植木鉢を片づけていた日だった。
門から入った所の平たい石に、女の人が腰を掛けていた。灰色の鞄を膝に載せ、靴の踵を指で押している。
私は売却の見学だと思った。家を売りに出したばかりで、不動産屋から何組か案内したいと聞いていた。
「お一人ですか」
女の人は頷いた。
「少し休ませてもらってるの」
連絡を寄こさずに客だけを行かせるとは、雑な仕事をする会社だと思った。

この家には七年住んだ。妻が出ていってから一年半になる。
二人で選んだ家だと言われるたび、面倒だから頷いていた。実際には、庭のある家を欲しがったのは私だった。妻は草むしりが嫌いだったし、駅から歩く距離も気にしていた。
最後の夏には、私も草を刈らなかった。
売ると決めてから、急に外をきれいにしたくなったのだ。

家の中も見ますかと聞くと、女の人は首を振った。
「今日はここまでだから」
どういう意味か分からなかった。帰りの駅までの道を説明したが、彼女は私の指す方を見なかった。履き直した靴を石に揃え、立ち上がった。
それから門へ戻らず、庭の奥へ歩いた。
隣家との境には生垣がある。そこに出られる所はない。私は鉢を置き、追いかけた。
女の人はいなかった。
枝には触れた跡もなく、葉の裏に蜘蛛の巣が張ったままだった。

不動産屋へ電話すると、その日の内見は入っていないと言われた。
私は近所の人と間違えたのだろうと答え、電話を切った。庭へ不審者が入った、と言えば済んだ。そう言って、売りに出した家に余計な話をつけたくなかった。
門に掛け金を足し、その日は片づけをやめた。
平たい石の上には砂が残っていた。庭の土より白く、さらさらした砂だった。

次の人が来たのは水曜日だった。
会社から帰ると、男が同じ石に座っていた。門は閉まっていた。私が近づいても逃げず、両膝に手を置いて立ち上がった。
背広を着た六十代くらいの人だった。鞄が重いらしく、持ち手へハンカチを巻いていた。
「ここ、私の家なんですが」
私はそう言った。
男は建物を見上げた。
「ああ、もう建ったんですか」
七年前から住んでいる、と教える気にはなれなかった。

男は私が怒っていると分かると、丁寧に謝った。いつもここで休んでいたので、つい入ってしまったという。
いつも、の意味を尋ねたが、来る途中に、と答えた。
どこから来るのか。
「家の方から」
どこへ行くのか。
「家へ帰るんです」
そんな言い方をした。
冗談を言っている顔ではなかった。私は相手の酒の匂いを嗅ごうとしたが、湿ったハンカチのような匂いしかしなかった。

男は腕時計を見た。反対の腕にも時計をしていた。
一つは丸く、一つは四角かった。
「二つも要るんですか」
我ながら、立ち入ったことを聞いた。
男は丸い方を見せた。こっちがここの時刻だという。六時を回っていた。薄暗い庭には似合った針の位置だった。
四角い方を尋ねると、家の方、と言った。
針は二時を少し過ぎていた。
私は海外へ行く人なのだろうと思った。そう思えば、さっきからの変な返事も、少しは納得できた。

男を門から出した。
私が掛け金を外す間、男は家の窓を見ていた。茶の間のカーテンをまだ閉めていなかった。
「あちらは寝る所ですか」
勝手なことを言うので、違いますと答えた。
男は、そうでしたか、と頭を下げた。
翌朝、平たい石が少し動いていた。元の位置を示す、苔のない土が三センチほど見えていた。

金曜日、仕事中に電話が来た。
港の乗船待合所からだった。私の名前のある封筒が置いてあり、電話番号も中の紙に書いてあったという。
港には何年も行っていなかった。船に乗る予定もない。
何の封筒か訊くと、先方は会社名を読み上げた。火災保険の書類だった。
書類だけではないらしかった。枕と、マグカップと、開けた菓子の袋もある。
私は勤務を早退した。

窓口の脇の机に、全部並べてあった。
枕のカバーには、寝転がって食べたチョコレートの染みがあった。人に見られるのが嫌で、まずその面を下にした。
マグカップは欠けた所まで同じだった。封筒も菓子も、昨夜、茶の間の座卓へ置いたものだった。
「どなたかに頼まれたんですか」
係の人に聞かれた。
何を、と聞き返すと、場所取りです、と言った。
寝泊まりされると困りますから、と注意された。

私は持ってきていないと言った。
係の人は声を落とした。私を取り囲むほどではなかったが、もう一人、制服の人が来た。
昨夜から今朝までの便に乗ったかと聞かれ、乗っていませんと答えた。家の中へ誰かが入ったのかもしれないと話すと、警察へ相談するよう勧められた。
帰り際、入口近くの長椅子で、白い砂を見つけた。
座面の真ん中に、両足を置いたように二つ、溜まっていた。

家は荒らされていなかった。鍵もかかっていた。
座卓からは、確かにそれらがなくなっていた。菓子の袋の下にあった、食べかけの煎餅まで消えていた。
警察の人には、その説明をした。誰かに鍵を預けていませんかと言われ、不動産屋の番号を教えた。元の妻にも聞く必要があるでしょうかと尋ねられた。
私は、しなくていいですと答えた。
本人が来たなら、あんな枕一つで済むはずがなかった。

日曜日、不動産屋が若い夫婦を連れてきた。
庭を気に入った様子だった。私が座卓の物を棚へしまう間、二人は窓辺へ立ち、何かを話していた。
女の人がこちらを向いた。
「日当たり、いいんですね」
私は少し嬉しくなった。自分で選んだものを褒められると、まだそうなる。
庭へ出てみますか、と窓を開けた。

平たい石に、あの背広の男がいた。
隣に女の人も座っていた。最初の日に来た人だった。小さな子供が一人、二人の間へ立っていた。
私は窓の縁につかまった。
不動産屋に、あそこに人がいる、と小声で言った。
彼は庭を見て、道路ですか、と聞き返した。道路に面した塀は、人の背より高かった。
私はもう何も言えなくなった。

客を帰したあと、窓を開け直した。
三人はまだいた。男の上着が変わっていた。前よりも暑そうな、厚い生地だった。
何度も来られると困る、と言った。ここは休憩所じゃない。もうすぐ人の家になるんです。
男は驚いて私を見た。
「次の方が寝るんですか」
私は、だから売るんです、と答えた。
その返事を聞いて、女の人が初めて笑った。

子供は靴を履いていなかった。
石の縁に座り、裸足の爪先を土につけて、こちらを見ていた。私が声をかけても返事をしない。男の鞄に片手を差し込み、何かを探っていた。
出したのは、食べかけの煎餅だった。
座卓からなくなったものだと思った。
けれど煎餅くらい、どこにでもある。袋へ入っていたら、私はそこで考えるのをやめられた。半分だけの裸の煎餅を、子供は丁寧に膝へ載せた。

私が庭へ降りると、女の人が立ち上がった。
逃げるのかと思ったら、男と一緒に縁側へ近づいた。私は通すつもりがなく、その前へ立った。
二人は困ったように顔を見合わせた。
「少しだけ。中から、どんなふうに見えるのか」
男が言った。
私は首を振った。女の人が、あの方は外しか見せてくれないのね、と呟いた。
あの方、とは私のことだった。

子供が私の足元へ来た。
裸足は汚れていなかった。しゃがみ、私のズボンの裾を指で広げた。私は慌てて足を引いた。
「やめなさい」
女の人が叱った。私を助ける声だと思った。
彼女は子供の手を取り、石へ戻した。
「まだ寝てないでしょう」
私はズボンの裾を見た。指が触れたところに、小さな白い粒がついていた。砂だった。払っても、一粒だけ縫い目に入って取れなかった。

男に帰る時刻を訊いた。
男は腕時計を見た。丸い方を先に、四角い方をあとに見た。
私はつられて、窓越しに部屋の時計を見た。四角い、安い壁時計だった。妻が買ったものを、そのまま掛けてあった。
家の方だと言っていた腕時計と、同じ時刻だった。
私は携帯電話を出した。画面の時刻も同じだった。男の丸い時計だけが、四時間近く先を指していた。

男が最初に来た日も、庭は夕方にしては明るかったのではないか。
考えかけて、やめた。帰宅した時刻くらい、自分で知っている。
男は私の携帯を覗かず、壁の時計を見ていた。
「こちらの方なんですね」
男が言った。
私は、何が、と強く聞き返した。
男は謝った。それで何も説明せず、子供の手を取った。

三人が庭の奥へ歩いていった。
私は追わなかった。生垣を抜けるところを、正面から見ていた。
隙間はなかった。それなのに三人の背中は少しずつ細くなり、枝の間へ入っていった。子供だけが立ち止まった。女の人に急かされ、最後に石の上へ煎餅を置いた。
食べた跡はなかった。
子供は一度だけ、茶の間の方を振り向いた。私の顔を見たのではなかった。

その夜、私は寝室で寝ようとした。
妻が出ていってから、ほとんど茶の間で眠っていた。テレビを消すのが面倒で、座卓を寄せ、枕だけ持って横になる。朝になってカーテンを開けると、庭が見える。
窓の外から、どれくらい見えたのだろう。
一人暮らしの男のだらしない生活を、どんな顔で見ていたのだろう。
気持ち悪さより先に、また腹が立った。

寝室へ枕を運び、戸を閉めた。
横になっても眠れなかった。しばらくして茶の間で、座卓を動かす音がした。
私は起き上がった。廊下を挟んだ向こうの部屋で、畳を擦る音がする。重いものを引きずる音ではなかった。私が毎晩、座卓を少しずらすときの音だった。
窓には内側から鍵を掛けてある。
私は廊下へ出なかった。

朝、枕は茶の間に戻っていた。
私の頭の下には何もなかった。床へ落ちたわけでも、持って寝室へ来たのが夢だったわけでもない。カバーを引っ張り直したとき、枕の隅を歯で噛んだ。口の中に綿の味が残っていた。
座卓の脇に、枕を置く場所が空けてあった。
庭の石には、誰もいなかった。

売却の話は、いったん取り下げた。
不動産屋から理由を聞かれ、離婚してすぐ決めることではなかったと答えた。すぐでもなかったが、相手は納得してくれた。
私は寝室で眠るようになった。夜中に起き、茶の間の戸を確かめることがある。鍵をつけたが、何かが入ってくる音は止まらなかった。

最近、朝になると座卓の上へ茶碗が出ている。
私の使っているものだ。
洗ったものが置かれている日もあれば、昨夜食べたままのものが載っている日もある。庭からよく見える方へ、箸まで揃えてある。
私はそれを台所へ運ぶ。
庭の方で靴を脱ぐ音がすると、食べかけの飯を流しへあける手を止めてしまう。

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