公民館の座布団を捨てると聞いて、父はわざわざ車を出した。将棋会は三年前になくなっている。会長だった人は亡くなり、父も膝を悪くして正座ができない。それでも一枚ぐらい家にあっていい、と電話口で言った。
隆史は引取りを手伝うため、土曜の午前を空けた。父の軽自動車に積むだけで済むと思っていたら、公民館の鍵を持っている酒屋の奥さんに、押入れから出すところも頼まれた。二階の和室にはエアコンがなく、十月なのに窓を開けると汗が乾いて寒かった。
座布団は二十六枚あった。紺色に白い格子が入った、旅館で使うような厚いものだった。角の一つ一つに、達筆な墨で町内の名前が書いてある。父は窓際で両膝を伸ばし、出てくる一枚ごとに「ああ、これだ」と同じことを言った。
隆史が五枚ずつ重ねて運ぶと、父は二枚目の山に手を置いた。
「そこの、裏になっとる」
柄は両面同じだった。墨の字も同じ側にある。どうして裏だとわかるのか聞くと、父は真ん中の窪みを押し、座りゃわかる、と言った。
小さいころ、隆史も将棋会に連れてこられた。父の対局が終わるのを廊下で待つのは嫌いだった。ジュースを買う金をくれる日もあれば、そのまま日が暮れる日もあった。待ちくたびれて畳に横になると、父は人前で寝るなと叱った。
酒屋の奥さんが古い名簿を見せてくれた。父の名前の横だけ、出席の丸が最後の月まで続いていた。隆史は、母の入院中も来ていたのだと気づいた。父は名簿に目をやらず、窓の外を眺めていた。聞けばまた、家にいても何もできなかったと言うだろう。隆史は紙を畳んで奥さんへ返した。
父が欲しいと言ったのは、端に小さな焼け焦げのある一枚だった。誰かが煙草を落とした跡だろう。酒屋の奥さんは好きなのを持っていってと笑い、階下へ降りていった。隆史はその一枚を窓辺の父へ渡し、残りを廊下へ出した。
帰り支度を始めたころ、和室の真ん中が妙に暗いのに気づいた。窓の外に雲が来たのかと思ったが、父の白髪にはまだ日が当たっていた。暗いのは畳一枚ほどの広さで、敷いてもいない座布団の形に、真ん中が低くなっていた。
父がその窪みを見て、手に持った座布団を裏返した。
暗いところが、ゆっくり浅くなった。隆史はまばたきをした。父は座布団を膝に置き、焦げ跡に指を入れていた。聞きたいことはあったが、古い畳は戻りが遅いのだろうと考えれば、説明できなくもなかった。
家に帰ると、父はその座布団を食卓の椅子へ敷いた。座面から四方にはみ出し、邪魔そうだった。母がいたら、座りにくいだろうとすぐ言ったはずだ。隆史が同じことを言うと、父は腰が楽なんだと答えた。
その晩、隆史は妻から、公民館はどうだったと聞かれた。古い座布団を一枚もらってきただけだと答えた。妻は洗えるのか気にしていた。隆史は聞き流してから、父の食卓に母の椅子がまだ置いてあったことを思い出した。座布団は父の椅子にしか敷かれていなかった。
日曜の朝、父から電話が来た。声がいつもより低かった。昨夜、台所へ水を飲みに行って、椅子から立てなくなったのだという。転んだのかと聞いても、そうじゃないと言う。隆史が家に着くと、父は本当に椅子に座ったままだった。
便所はどうしたと聞くのは気の毒だった。父の足元に古い洗面器が置いてあったからだ。顔色は悪くない。ただ、両手で食卓の縁をつかみ、床につけた足の踵だけがわずかに浮いていた。隆史が脇の下へ腕を入れて引いた。父の体は、上半身だけなら持ち上がった。
腰から下が椅子にくっついているようだった。膝が痛くて力を入れられないのかと思い、父に椅子の背へつかまってもらった。それでも駄目だった。椅子ごと引こうとすると、脚が床に食い込み、表面の板が細く割れた。
「救急車、呼ぶぞ」
そう言うと、父は座布団の角を持ち上げた。すこしでいい、下に手を入れてくれと言った。隆史は椅子の下にしゃがみ、座面と座布団の間へ指を滑り込ませた。座布団は冷たかった。綿を押しのけた指の先に、人の膝のような丸さが触れた。
手を抜いた。父は何も聞かなかった。代わりに、昨日あれを裏返したか、と言った。隆史は二階で荷を重ねたときのことを思い出した。軽いものを重いものに載せたくて、何枚かひっくり返していた。
「どれがどれか、覚えてない」
父は、そうかとだけ言った。
隆史は酒屋へ電話した。奥さんは座布団ならまだ廊下にあるという。理由を説明せず、公民館の鍵を借りに行った。父を一人にするのは不安だったが、今の姿を隣の人に見せるのはもっと嫌がられる気がした。携帯電話を食卓に置き、何かあったら呼んでくれと言った。
公民館の二階へ上がると、和室から駒を打つ音がした。ぱち、という乾いた音ではなかった。爪の先で畳をはじく、湿った小さな音だった。隆史が戸口に立つと、その音が一斉に止んだ。
廊下に積んだ座布団は昨日のままだった。空の和室には、いくつもの窪みができていた。向きも間隔もばらばらで、真ん中に一つだけ大きいのがある。窓は閉じているのに、畳の縁がかすかに動いていた。何かが座り直すたび、古い埃の匂いが濃くなった。
隆史は廊下の座布団を一枚持ち、ひっくり返して床に置いた。窪みの一つが消えた。もう一枚返すと、別の場所が沈んだ。簡単にはいかなかった。座布団によって、落ち着く向きが違うらしい。父の言った「座りゃわかる」が頭に浮かんだが、試す気にはなれなかった。
一枚ずつ、畳の変化を見ながら向きを直した。終わった座布団には、自分の鍵や財布を置いて区別した。途中で、携帯が震えた。父だった。
「そこにおるんか」
「おるよ」
「先に帰るなよ」
子供に言うような声だった。
最後に残ったのは、真ん中の大きな窪みだった。座布団はもうない。持ち帰った焦げ跡の一枚が、ここにあったのだと気づいた。隆史は窪みに近づき、しゃがんだ。畳の面は滑らかなまま、床ごと下へ沈んでいた。縁から中心へ向けて、細かな皺が寄っている。
中心には、二人ぶんの尻が触れ合うような丸みがあった。父が一人で座っていた場所ではないのか。隆史は手を伸ばしかけ、その横の畳に、小さい爪の跡が四本ついているのを見た。子供の手ほどの間隔だった。
家へ戻ると、父は目を閉じていた。呼吸はしていたので、肩を揺すった。父は目を開けるなり、もう終わったかと聞いた。隆史は椅子に触れず、向かい側へ座った。父の足元の洗面器を見ないようにするのは、今度は難しかった。
「俺、あそこで泣いたことあるか」
父は視線を食卓へ落とした。隆史は、廊下で待った記憶の先を探った。冬の夕方だった。対局が終わらず、窓の外が真っ暗になって、母に迎えに来てもらいたいと父へ言った。父は次で終わると答えた。次も、その次も終わらなかった。
将棋盤のそばに座ろうとした自分の腕を、父が引いた。座布団を半分だけ空けて、そこへ押し込んだ。そのまま一時間近く、父の尻と相手の視線の間で動けなかった。泣いたら出ていけと言われた。それなら出ていきたかったが、父は腕を離さなかった。
思い出せたのはそこまでだった。父はしばらく黙ってから、煙草を落とした日か、と言った。隆史はそれを聞いて、初めて父に腹が立った。自分が震えていたことより、焦げを作ったことを覚えているのかと思った。
「お前が帰りたがるから、わざと負けた」
父は小さくそう言った。隆史は、そういうところだよ、と言いかけた。言ってもたぶん伝わらない。椅子の脚の下で、割れた床板がもう一度鳴った。父は食卓から手を離し、膝を伸ばそうとして顔をしかめた。
隆史は座布団の端を持った。片方を引いても動かないので、父の体を横から支えた。自分も座布団に触れているあいだ、足の裏が重くなった。まだ帰るな、と耳元で言われた気がした。父の唇は動いていなかった。
「帰るよ」
隆史は言った。父に向かって言ったのか、畳の上にいた昔の自分に言ったのかわからなかった。
「俺は、もう帰る」
父が深く頭を下げた。謝ったのではなく、立つために前へ倒したのだった。隆史はその体を支え、腰を浮かせた。
座布団がずるりと抜けた。隆史はそれを両手で受け止め、重さに負けて床へ膝をついた。米袋より重かった。紺の布の真ん中が盛り上がり、焦げ跡から綿が少し出ていた。父がそれを取り、胸に抱いた。
公民館までは父を助手席に乗せた。座布団は父の膝にあった。二階への階段を上がるあいだ、隆史は後ろから父の腰を支えた。父は一段ずつ足をそろえ、息が整うまで待ってから次へ進んだ。急いでほしいとは思わなかった。
父は窪みの縁に立ち、座布団を置いた。布が畳に触れる直前、両手が下へ強く引かれた。父は手を離さず、しばらく腰を曲げていた。それから、今日は終わりにしよう、と言った。誰にでも使っていた、対局を切り上げるときの声だった。
座布団の処分を待ってほしいと、隆史は酒屋の奥さんに頼んだ。理由を聞かれ、父の気が済むまで、としか言えなかった。奥さんは困ったように笑ったが、それ以上は聞かなかった。父は玄関の椅子で靴を履くのにも時間がかかり、隆史が手を出すと、素直に踵を預けた。
帰りに隆史が振り返ると、畳の窪みはほとんど平らになっていた。ただ、座布団の半分だけがまだ空いていた。父はそれを見なかった。階段の前で隆史の腕につかまり、今度は、自分から家へ帰ろうと言った。


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