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返事の相手

麻衣がようやく眠ったのに、私は話をやめられなかった。
「でさ、お母さんに言われたわけ。あんたは人の話を聞かないって」

返事はなかった。隣の寝椅子で、麻衣は肩まで上げた毛布に顎を埋めていた。星を見るための椅子だから、二人ともほとんど仰向けになっている。顔を確かめるには、いったん身体を起こさなければならなかった。

十一月の、山の上の展望広場だった。昼間は売店が開く建物の前に、木の寝椅子が六つ置かれていた。駐車場には私たちの車のほかに白い軽自動車が一台。そちらの二人連れは、大きな三脚を担いで広場の奥へ行ってしまった。

宿の人には、車を停めて空を見るだけなら夜も入れると教わっていた。寝椅子のことは知らず、見つけて喜んだ。持ってきた毛布を広げ、コンビニのココアを飲み、十分もしないうちに麻衣の返事が途絶えた。

私は椅子の間に置いた小さなラジオを、耳に近づけた。麻衣が父親の車から持ってきた、野球中継を聞くためのラジオだった。スマホの充電を減らさず音楽を流せるからと言っていたが、ここでは雑音に混じって、遠くの女の声が途切れ途切れに聞こえるばかりだった。

「そんな言い方、することないよね」

今度は返事があった。
「うん。干すところがないから」

私は笑った。麻衣の寝言は学生のころから知っている。合宿の夜、起こそうとした私に、三百円足りないと怒ったこともあった。翌朝は何一つ覚えていない。今回も、面白い返事が聞けるかもしれないと思った。

二泊の旅行を組んだのは私だった。麻衣が母親を家で看るようになって、一年近く経っていた。弟が三日間だけ帰ってくると聞き、その間に出かけようと誘った。宿も行き先も私が決めた。遠慮させないように、というつもりだった。

昼は古い町を歩いた。私が店に入るたび麻衣は外で電話を受け、帰ってくると何でもないと言った。夕食のあとには、星を見に行かなくてもいいよ、と一度聞いた。行くと言ってくれたので車を出したけれど、山道を曲がる間じゅう、麻衣は頭を窓へ預けていた。

せめて今は眠らせておけばよかったのだ。

「何を干すの」
「敷くやつ。畳んだままだと、くっついちゃう」

麻衣の声は毛布の中でくぐもっていた。私はスマホを出した。録っておこうと思ったが、画面の明るさが気になり、そのまま伏せた。

「明日にしなよ」
「明日は上から来る」
「誰が」
「お姉さんたち」

そこでラジオの雑音が大きくなった。ダイヤルを回しても変わらず、私は電源を切った。静かになると、広場の下を誰かが歩いているのが分かった。駐車場からは短い階段で上がってくる。砂利を踏む音が階段の下で止まり、女の人が、お邪魔します、と言った。

私は身体を起こした。六十代くらいだろうか。茶色い上着に長いスカートで、片手に白いスーパーの袋を提げていた。山へ星を見に来るには薄着だった。履いているのも、踵を踏んだ靴だった。

「こちら、座っていいですか」
「どうぞ」
私は二つ先の空いた椅子へ顔を向けた。女はそちらへ行かず、私たちの足元にある低い柵へ袋を置いた。袋の底がひどく黒かった。土のついた野菜でも入っているのだろうと思った。

「今日は、お留守番?」
「いえ、旅行で来てて」
女は私を見た。暗くて目元はよく分からなかったが、私の答えを待っていた顔が、そのまま残っている感じがした。

麻衣が毛布の中から言った。
「向こうにいます。坂を下りた二軒目」

私はこちらを向いた麻衣の顔を見た。目は閉じたままだった。

「ここ初めてなのに、何言ってるの」
「青い戸のほう。裏から入れます」

女は、ああ、とうなずいた。それから私に、遠くから大変ですね、と言った。私は曖昧に笑って、寝ちゃってるんです、と麻衣を指した。女は、そうですね、と答えた。起こさずに済ませたい用事があるように、少し声を低くした。

「うちでも、やってくれる人がいなくなってね」
袋の取っ手を両手で握り直した。底が柵へ当たり、ぺた、と音がした。私は麻衣の母親の話を思い出して、うなずきかけた。けれど、知らない人に友人の家のことを話すのは違う。何を、と聞いた。

女は私を見なかった。
「朝から、ずっとそのままなんです」
麻衣が息を吸った。返事があるかと思って待つと、ゆっくり吐いただけだった。女も待っていた。私が先に気まずくなり、この辺にお住まいなんですか、と聞いた。

「坂を下りた二軒目です」
麻衣がさっき言ったのと同じだった。聞いたままを答えただけかもしれない。そう思いたくて、私は駐車場の向こうを見た。私たちが上がってきた道には、途中から家などなかった。

「お友達も、ご存じでしょう」

女がそう言ったので、私は麻衣の肩を揺すった。毛布をずらさず、名前だけを二度呼んだ。麻衣は顔を背け、少し待って、と言った。

その声が、私へ向いたものには聞こえなかった。
「麻衣。起きて。寒くなってきた」
「ちょっと待ってってば。今、聞いてる」

私は手を止めた。眠っている相手に怒られたのが、情けないほど腹立たしかった。休ませようとして連れてきたのに、私はまた邪魔をしている。女は柵の袋を持ち上げ、もう少しここへ置いてもいいですか、と聞いた。

「何が入ってるんですか」
答えは麻衣から来た。
「顔、こっちにしないで」

急に小さな声になった。私は毛布を引き下げた。麻衣は目を固くつぶり、唇を噛んでいた。泣いているようにも見えた。もう一度肩に触れると、こちらへ顔を寄せて、私の手首をつかんだ。

「静かにして。ずっと喋ってる」

「誰が」と、私は聞けなかった。柵へ置き直された袋の中で何かが動いていた。袋が風で揺れているのではない。底の黒いところが膨らみ、薄く引き延ばされた白い部分へ、口ほどの小さな窪みができた。

女は取っ手を押さえた。
「聞いてやってください。私じゃ駄目みたいだから」

袋からは一言も聞こえなかった。聞こえるのは、麻衣の鼻が詰まった息だけだった。私は麻衣の手を握り返して、立って、と言った。女が何かを言いかけたが、麻衣を椅子から起こすことだけを考えた。

麻衣は立てなかった。身体に力が入らないのではなく、前へ足を出せずにいた。靴底を地面へこすりつけ、椅子の下を見ようとしている。私は足元へスマホの明かりを向けた。枯れ葉とココアの容器があるだけだった。

「何があるの」
「いっぱいいる。ここ、寝てる」

目を閉じた麻衣が、自分の足のすぐ前を指した。私はその手を下ろした。誰もいないと言おうとして、口を閉じた。麻衣にはそう見えている。今の私の返事では、歩き出せない。

「私の足の上に乗って」
麻衣が顔を上げた。私はつま先を彼女の靴へ寄せ、踵を上げさせた。小さい子と歩くようにはいかなかった。片方の足を載せても、もう片方が重なって引っかかる。それでも二歩、椅子から離れた。麻衣の爪が私の手首に食い込んだ。

女が私の名を呼んだ。
姓でも、いつも麻衣が呼ぶ名でもなかった。高校へ入る前まで家で使われていた、短い呼び名だった。私が思わず振り返ると、女は袋の口へ顔を寄せていた。

「この人は、聞かないから」

母の声だった。さっき私が麻衣に話していた、電話口の母と同じ、息を途中で抜く言い方だった。

それから袋の中で、笑い声がした。ラジオの雑音に似た音が続き、その奥で女の子が何かを言った。低い柵の向こうから、今の言い方をもう一回やって、と聞こえた。女は袋をこちらへ向けた。白いビニールが張り、取っ手の下へ、小さな口の形が透けた。

私は振り返るのをやめた。麻衣を抱えるようにして駐車場の階段まで進むと、ようやく彼女が目を開けた。眉の上まで汗がにじんでいた。私の足から下り、その場へしゃがみ込んだ。

「いた?」
「女の人がいた」

麻衣は違うと言った。椅子の下にいた人たちのことを聞いていた。

私は首を振った。麻衣は手の甲で両目を押さえ、すぐに手を離した。目を覆うのが嫌になったようだった。車へ戻ろうと言うと、今なら歩ける、と立った。歩く麻衣の背中が、いつもの高さにあることを確かめながら階段を下りた。

車の中で暖房をつけた。麻衣は膝へ両手を置き、窓の外を向いていた。私は水を渡し、運転席へ座り直したが、まだ車を動かしたくなかった。震える手をハンドルに載せると、麻衣が私の指を一つずつ外した。

「落ち着いてからでいい」
麻衣が言うには、最初は本当に眠っていたらしい。私の話が聞こえていたが、返事をするのが面倒で黙っていた。そのうち、すぐ下から別の声が聞こえた。大勢が狭いところで横になり、上を向いている感じがしたという。

目を開けると星が見えた。閉じると、その人たちが見えた。知っている顔はなかった。でも、誰が誰と暮らしていたか、道を下りたどの家の人かは分かった。自分もその辺で長く暮らしたことがあるように、敷物を干す場所や、裏口の立て付けを知っていた。

「何を話してたの」
「普通のこと。朝、何を食べたとか。隣の人がうるさいとか」

誰も起き上がらず、口だけが動いていた。麻衣は相槌を打った。途中で私が話しかけるようになり、二つの話を一緒に聞かなければならなくなった。
「何度も、目を開けたつもりだった。でもまだ寝てるって、あんたに言われて」
私が肩を揺すったのは覚えていると言った。そこから先は、足元の人を踏むことばかりが怖くなったらしい。

「下の人の声も、私と同じだった?」
「ううん。あんたは、ずっと上にいた」
私は少し息を吐いた。そのあと、麻衣が、上からみんなに話しかけていた、と言った。

「私じゃなくて、下の人に。お母さんのこと。会社のこと。みんな、あんたの話は聞いてた」

私は窓の外を見た。広場へ上がる階段の下に、茶色い裾が見えた。女が下りてきたのだと思ったが、車内の明かりを消すと分からなくなった。

母のことを話した記憶はある。会社のことは、あの晩、麻衣にも話していない。

運転できるようになるまで、私たちは車にいた。奥の広場にいた二人連れが戻り、白い軽自動車のドアを閉める音がした。その車が先に出たので、少し間を置いて後を追った。展望広場には戻らず、毛布もラジオも宿の人に頼んで翌朝取ってきてもらった。どちらも椅子の間にあり、女の人については分からないと言われた。

翌日は、観光へ行かなかった。予定を一晩切り上げて宿を引き払い、町まで下りて、昼前に開いた食堂へ入った。麻衣は注文が来る前に座敷の壁へ頭をつけた。私は、寝てていいよ、と言いかけてやめた。

昨日も私がそう言ったのかもしれない。言っていないかもしれない。毛布を掛けたところから、はっきり思い出そうとすると、母の愚痴をこぼしていた自分の声ばかりが残った。

麻衣は眠らず、私を見た。
「何?」

帰ったら病院へ行こうとか、しばらく仕事を休んだらとか、いくらでも言うことはあった。どれも、麻衣の返事を待たずに続けられる話だった。

私は、怖かった、とだけ言った。麻衣はうなずいた。

そのとき、彼女の目が閉じた。ほんの一度、ゆっくり瞬きをしただけだった。私はそこで口をつぐんだ。

麻衣のうなずきが止まらなかった。目を開けたまま、私の肩の辺りを見て、もう二度、誰かの話の続きを聞くようにうなずいた。

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