紗季が祖母の家へ持っていく袋に、タオルが一枚増えていた。
美緒が取り出すと、八歳の娘は、それもいる、と袋へ戻した。歯ブラシも着替えも、母の家には置いてある。水曜の放課後、迎えに行くまでの三時間を過ごすのに、何に使うのか。
「顔に掛けるの」
美緒は袋から手を離した。
母には、死んだふりをする癖があった。
美緒が小さい頃、家のことを手伝わなかったり、言い返したりすると、居間に寝転がって目を閉じた。お母さん死んじゃった。あとは自分でしなさい。それきり呼んでも動かなかった。
泣いて謝ると、母は美緒の頭を撫でた。そんなに泣くほど好きなの、と笑って起きた。
人前でもする人だった。伯母たちは、美緒は泣き虫ねえと言った。母の頬へ鼻水までつけてしがみつくところを、写真に撮られたこともある。
「それ、紗季にもやってるの」
娘はうなずいた。慣れた様子で、タオルを四角く畳み直している。
「私がついててあげないといけないんだよ」
美緒は時計を見た。このあと職場へ寄って、休んだ日の書類を受け取らなければならなかった。早く済めば、自分で学童へ迎えに行ける。
母へ電話して、水曜の預かりを断った。急にどうしたのと言われ、今は話せない、とだけ答えた。
その晩、母から煮物を作りすぎたと電話があった。
食べ物を持たせる日は、鍋を返す用事もできる。そうして毎週顔を出していた。子供を預かってもらい、夕飯も一品助けてもらっている。美緒は職場の人に、うちは母が近いから、と何度も言っていた。
今日は取りに行けないと伝えると、母は、紗季に何か聞いたのね、と声を変えた。
「遊んでただけよ。あの子も分かってる」
「タオルを持っていくって」
「あれは、あの子が自分で持ってきたの」
母は少し笑った。美緒には、その笑いの後を聞くのが嫌だった。
翌日の夕方、美緒は娘と母の家へ行った。返していなかった鍋と、預けてある着替えを入れる袋を持った。
玄関にまだ日の当たる時刻だった。母は二人の靴を揃え、紗季の靴下の踵が薄くなっていると美緒に教えた。居間には新しい色鉛筆と、大きな葡萄の皿が用意してあった。
美緒は娘を台所の椅子へ座らせた。葡萄はそこで食べて、と皿を運んだ。
母は美緒の持ってきた空の袋を見た。
「着替え、昨日洗ったばかりなのに」
美緒は、もう死んだふりをしないでほしいと話した。紗季は部屋の向こうで葡萄の皮を剥いている。
母は途中で二度、昔の美緒も笑っていたと言った。誰が笑っていたの、と聞くと、嫌なところばかり覚えているのね、と膝の布団を引き寄せた。
「一人になっても困らないように。おばあちゃんが動かなくなったら、お母さんを呼ぶのよって」
「それなら電話の掛け方を教えてよ」
「教えたわよ。その上でやってるんじゃない」
美緒は紗季を呼んだ。おばあちゃんが動かなくなったらどうするの、と訊いた。
娘は皮を持ったまま、母の顔を見た。
「おばあちゃんに聞いてよ。私、もう言ったもん」
美緒の母は、長く息を吐いた。
「頼まれた通りに見てるのに、何をしても怒られるのね」
そのまま横になり、布団を肩まで上げた。
美緒は呆れて、立ちかけた。母は目を閉じ、唇をきつく結んでいる。紗季の前で、また始める気だった。
「もういい。起きて」
肩を揺すると、母は首をだらりと横へ倒した。母は昔から、揺すったところだけ動かす人だった。急に重くなる頭を支えるのが怖くて、美緒は子供の頃、肩だけをいつまでも揺すっていた。
紗季が部屋へ来て、美緒の袖を引いた。
「そっちじゃないよ」
「大丈夫。寝たふりしてるだけ」
「知ってる」
娘の声が強くなった。母の顔を見ないで、布団の足元を指している。
「起こすのは、こっち」
布団は母の足より先で折り返してあった。その端へ、紗季が座った。掌を丸め、畳を軽く叩いた。
「起きて。もう終わりだって」
美緒が手首をつかむと、娘は両膝を寄せて小さくなった。
布団の下から、鼻をすする音がした。
母が笑いをこらえているのだと思った。美緒は母の口元を見た。閉じた唇の端が、わずかに上がっていた。
もう一度、鼻をすする音がした。今度は紗季の膝のすぐ前だった。
誰かが、息を飲み損ねている。吸った空気が喉へ引っかかり、細く漏れた。美緒はその音に覚えがあった。息継ぎのできないほど泣いた自分が、母に、ちゃんと喋りなさいと叱られていた。
母の足は布団の途中までしかない。その先の平らな布団が、内側から、二度つつかれた。
美緒は紗季を引き寄せ、片手で布団を捲った。
畳には母の裸足がある。爪に薄い桃色を塗っている。踵から少し離れた所に、爪先を揃えた小さな靴が見えた。
靴には足が入っていた。
膝をついて伏せている女の子だった。背中は美緒の方へ向き、顔は畳につけている。紺の吊りスカートから出た二本の脚だけが、布団を除けても動かなかった。
紗季より小さい。制服の肩紐が片方落ちていた。
美緒が声を上げるより早く、母が起きた。
「ほら、何でもない」
起き上がった母の膝が、女の子の背中のあった所を通った。母は紗季の方を向いて笑い、布団を足で退けた。
そこには美緒の手だけが残っていた。捲り上げた布団の端をつかんでいる。畳は乾いていた。
紗季は美緒の背中へ顔を押しつけた。食べかけの葡萄を、まだ片手に持っていた。
美緒は母へ、今の子は誰、と訊いた。
母は布団を畳み始めた。
「紗季がいるじゃない。やめてよ」
母の目は美緒を見ていた。何のこと、と聞き返しもしなかった。
美緒は布団を受け取り、脇へ置いた。母に触らせる気になれなかった。
娘へ小声で、タオルは誰に掛けるの、と尋ねた。
「あっちの子。おばあちゃんじゃない」
「さっきの?」
「起きてこないから。寒くないように」
母は、ほら、優しいでしょう、と言った。
美緒は紗季を連れて玄関へ行った。着替えは袋に入れず、空のまま脇に挟んだ。
母が、煮物を忘れてる、と追ってきた。その手には鍋がある。美緒は靴を履く娘を抱き上げ、鍋を受け取らずに出た。
母が泣かせた時に出るのだ、とその時は思っていた。だから娘にさせなければよい。これからは水曜も学童に延長を頼めばいい。
駅前の駐車場まで歩く間、紗季は一度も後ろを振り返らなかった。
車の中で、娘は残っていた葡萄を美緒へ渡した。
「これ、食べたくない」
美緒は紙に包み、ドアの小物入れへ押し込んだ。手を拭いてやると、娘はようやく話し始めた。
あの女の子は、最初からいたわけではなかった。おばあちゃんが寝たまま動かず、紗季が何度も呼んだ日に、隣で泣いていた。怖いから一緒に起こそうと思った。でも何を言っても顔を上げなかった。
「紗季が泣いてたのは、それを見たから?」
娘はうなずいた。
「おばあちゃん、私が寂しくて泣いたって言うんだよ」
美緒はハンドルへ額をつけた。エンジンはまだかけていなかった。
紗季を家へ連れて帰り、帰宅した夫に事情を話した。
夫は女の子の話で口を挟まず、今晩は自分が紗季を寝かせると言った。「もう一回行くのか」と夫が訊いた。美緒はうなずいた。
「あの人、一人で大丈夫なのか」
美緒にも分からなかった。
娘を二度とあの場へ連れていかない。それはもう決めていた。母を一人にして、あの布団を敷かせておくことは気に掛かった。まだ人が見えているのだとしたら。母が何を知っているのか、娘のいない所で聞かなければならない。
美緒は一人で実家へ戻った。
母は居間でテレビを見ていた。美緒が入ると、音量を下げた。色鉛筆は机に並んだままで、鍋の蓋が少しずれていた。
「紗季は寝たの」
「まだ。今、向こうでお風呂」
美緒は母の向かいに座った。布団は母の背後に畳んで置いてある。
「さっきの子、前から出るの」
母はテレビへ目を向けた。料理人が肉を裏返していた。
「あんたの時も、いたのよ」
美緒は返事ができなかった。
母の話では、美緒が小さい頃、泣き出すとその隣で誰かが泣くことがあった。美緒は何も言わなかった。母が起きればいなくなるので、気にしないことにしたという。
「それで続けてたの」
「しょっちゅうやってたわけじゃないでしょう」
「知らない子がいたんでしょ」
「顔、見えないんだもの。あんただと思ってた時もあるわよ」
美緒は、母の顔を見た。母はアルバムのある棚を見た。昔の写真でも見せれば済むとでもいうように、もう立ちかけていた。
美緒は棚にあるアルバムを出した。
あの時、写真を撮ったのは伯母だった。紗季が生まれたあと、母が古い写真を集めて作った一冊に、その写真もあった。
開くと、寝ている母へ美緒がしがみついていた。母の口は笑っていた。美緒は紺の吊りスカートを着ている。
女の子の小さな靴は、写っていなかった。足元は畳だけだった。
美緒はページを戻した。入園式の日に祖父と並んだ写真があった。白い靴下と黒い靴。さっき見た靴と同じ形だった。ただ、それ以上のことを写真では確かめられなかった。
「あんたは本当に、よく泣いたから」
母が写真の端を指した。
美緒はアルバムを閉じた。母が美緒を泣かせた話は、また美緒が泣き虫だった話になっていた。
「私が同じことしたら、お母さんも泣くの」
母は、何を今さら、と笑った。その笑いに美緒は腹を立てた。紗季もいない。今だけは、この人にも、声を掛けても返事をもらえない時間を味わわせたかった。
布団を一枚引き寄せ、畳へ横になって腹に掛けた。
「美緒、やめなさい」
美緒は目を閉じた。母の声が、急に大きくなった。
腕を引かれた。身体を横へ向けられ、母の指が顎を押した。
美緒は振り払い、起き上がった。たった数秒だった。
「何するの」
「こっちが言ってるのよ。そういうの、やめて」
母の目は濡れていた。まぶたの縁が赤かった。怒らせることはできた。けれど、それを見ても美緒は気が晴れなかった。
母は美緒の肩を引き寄せようとして、途中で手を止めた。
二人の脇で、布団が膨らんでいた。
背中だった。紺色の肩紐が落ちている。
美緒は立ち、布団から離れた。女の子は畳へ顔を伏せたまま、膝をつき、静かに泣いていた。
さっきは母が起きると消えた。
美緒はもう起きている。母の目も、その背中へ向いていた。片手を布団へ伸ばし、触れる前に引っ込めた。
「起きたよ」
美緒が言った。女の子の背中は動き続けた。
「ここ。美緒はここだよ」
女の子は顔を上げなかった。美緒は自分の胸に当てた手を下ろした。靴と服が同じだけで、自分だと思い込んでいた。
母が膝をついた。
「紗季ちゃん、もう大丈夫よ」
美緒は母の腕を引いた。違う、と言いかけて、言葉が止まった。母が紗季の名を呼んでも、女の子の動きは変わらなかった。美緒の名でも同じだった。
母は立とうとした。しかし膝を曲げたまま、女の子の顔の辺りを覗き込んでいた。
「この子、誰」
初めて聞く声だった。母は美緒に尋ねた。いつも困り事を自分で片づけてしまう人が、美緒の答えを待っていた。
女の子が、顔を上げた。
美緒には顔が見えなかった。母の方へ向いていた。肩紐の下で首筋が伸び、ひどく古い石鹸の匂いがした。
母は両手を顔へ持っていった。
「お母さん」
そう呼んだのは母だった。
美緒の祖母は、十四年前に亡くなっていた。最後に会ったのは病院で、腰の曲がった、口数の少ない人だった。美緒はその人の子供時代の顔を知らない。
母は口を押さえていた。さっき美緒が寝た時よりも、ずっと深く肩を折った。
美緒は母の背中をつかんで引いた。女の子は追ってこなかった。
畳へ小さな手をつき、また顔を伏せた。泣き声だけが部屋を満たした。
「今の、おばあちゃん?」
母は答えず、テレビの脇まで下がった。美緒が電話を手に取ると、誰に掛けるの、と聞いた。伯母だと答えた。昔、写真を撮った人だった。
「その子、帰らせてからにして」
母はまだ女の子を見ていた。
美緒は伯母へ電話した。母の様子を聞いた伯母は、また何か拗ねたの、と笑った。
「違う。私もやったの。同じこと」
美緒は布団に横になったことを話した。伯母が黙ったので、来てほしい、と続けた。紗季を連れてこさせるつもりはなかった。夫には娘のそばにいてもらう。
母は布団の端に座り直していた。
女の子へ、お母さん、と小さく呼び、返事を待っている。美緒はその隣へ戻らなかった。電話を持ったまま廊下に立った。
母が、どうして泣いてるの、と訊いた。美緒は、母を泣かせたかったことを言おうとした。声を掛けても動かない人の隣に、一度だけでも座らせたかった。その数秒のために出した布団を、今は畳めなかった。
鼻をすする音が途切れた。女の子は顔を畳へつけたまま、片方の手を伸ばした。
母の膝を、軽く叩いた。
美緒はその手つきを見ていた。起こそうと母の肩へ触れる前に、自分も、まずそうしていた。
母は女の子の手に膝を叩かせていた。しばらくして、そこへ両手を重ねた。
「起きてるよ。ほら」
それでも手は、母の両手の下で動いていた。


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