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覚えのない顔

乾いたものだから、と小宮さんは言った。
小さな掃除機の紙パックを、両手で持っていた。振ると、かさかさ鳴った。ねずみの糞ならもっと重い音がする、と続けたので、私は、それも嫌ですけどね、と答えた。
私たちは、閉じた事務所の掃除に来ていた。
机や椅子はすでに運び出してあった。壁に沿って置かれていた長い戸棚だけが残り、そこを動かすと、後ろに白い粉が溜まっていた。

二階建ての建物の二階だった。
一階はまだ商売をしていたので、水を使う場所には気を遣った。朝、階下の店主へ挨拶し、昼には一度休み、五時までに終える予定だった。
小宮さんは私より十歳ほど上で、手が早かった。古い壁へ掃除機の先をぶつけない。機械が変な音を出すと、すぐに止める。
その日は、戸棚の後ろを吸った途端、そうした。

紙パックの口から、大きなものが覗いていた。
魚の鱗のようだった。指の腹ほどの幅があり、薄く透けていた。小宮さんが割箸でつまみ上げると、端に細い根がついていた。
根ではなかった。糸のような皮だった。
私は、爪でしょうか、と言った。
小宮さんは顔を近づけず、袋へ戻した。

爪なら、少し曲がっている。
出てきたものは、ほとんど平らだった。表側は白く、裏には、刷毛で引いたような細い筋が何本もついていた。どこから剥がれたものなのか、考えると気持ちが悪かった。
小宮さんは紙パックを透明な袋へ入れ、口を縛った。
現場の担当者に見せると言い、入口の横へ置いた。
私は戸棚の下の埃を、箒で集め直した。

まだ何枚もあった。
大きさはほぼ同じだが、丸いものと細長いものが混じっていた。指の爪にしては、長いものが多すぎた。私は一枚を塵取りの端へ寄せ、柄の先で裏返した。
裏に、小さな窪みが二つあった。
何かを押し当てていた跡のようだった。
その二つを見ているうちに、人の顔が浮かんだ。
頬骨の高い、男の顔だった。

誰かに似ている、というのではなかった。
男の顔が、頭の中に一つあった。
どうして爪のようなものから、その顔を思い浮かべたのか、自分でも分からない。短い髪で、眉が濃く、目は閉じていた。
気味が悪くなり、私は塵取りを空にした。
小宮さんに、変なものですね、と言った。
彼女は、その話はご飯を食べてからにしよう、と答えた。

昼は近くの店で食べた。
小宮さんは焼き魚を頼み、私はうどんにした。魚の皮を見るのが嫌だった。
箸を割り、湯気の上がる丼を覗くと、さっきの男をまた思い出した。
今度は目を開けていた。
私は天井を見た。天井に顔があるのではない。視界は普通だった。何かを思い出すときと同じ所に、その男の顔がある。
目は、こちらを見ていなかった。右の方を見ていた。

午後、現場の担当者が来た。
紙パックの袋を見せると、何でしょうね、と首を傾げた。前の事務所が何をしていたか訊くと、営業所ですよ、と答えた。
動物を飼ったり、そういう作業は、と訊いた。
担当者は、それはないと思う、と言い、それ以上のことは知らない様子だった。
袋は持って帰ってくれた。
私も小宮さんも、助かったと言った。

戸棚の後ろの壁は、ほかの面より白かった。
日に当たらなかったからだろう。拭くと、雑巾に白いものがついた。
小宮さんが、塗装を取らないようにね、と声を掛けた。
私は力を緩めた。
擦るたびに、壁の中で、砂を動かすような音がした。雑巾を止めると、少し遅れて音も止まった。
小宮さんを呼ぼうとしたが、別の部屋で掃除機を使っていた。

壁へ耳を近づけた。
向こうは隣の建物との隙間のはずだった。誰かが裏から何かをしているのかと思った。
音は、大きくなった。砂を薄い皿へ流しているような、乾いた音だった。
私は、耳を離した。
小宮さんの掃除機が止まると、その音も消えていた。
壁を通って、機械の音が変に聞こえたのかもしれなかった。

その晩、風呂へ入っているときに、男の顔が出た。
思い出した、と言うべきなのだろうが、私が思い出そうとしたのではなかった。
目を閉じ、泡を洗い流している途中だった。
男は斜め前を向いていた。昼よりも、頬がよく見えた。
頬の皮に、細い筋が幾つもあった。
シャワーを止めると、壁を拭いていたときの音が聞こえた。

私は浴室の換気扇を止めた。
音も止まった。静かになったので、かえって外を走る車がよく聞こえた。
男の顔は消えた。
私は頭へタオルを掛け、そのまま風呂場を出た。髪を乾かすのが嫌だった。
妻に、どうして濡れたままなの、と言われ、ドライヤーの風で耳が痛い、と嘘をついた。
妻は、自分で拭きなさいよ、と床の水を指した。

翌日は別の現場だった。
私は小宮さんに、あの白いものは何だったんでしょうね、と訊いた。彼女は、分からなかった、と答えた。
もう担当者へ電話をしたのだという。机を運び出したときにも、似たものがあったらしい。詳しく調べてもらっているという。
私は、顔のことを話すつもりでいた。
小宮さんが掃除機を出したので、少し待ってください、と止めた。

自分の顔のことだと思われたくなかった。
誰かの顔が思い浮かぶ。見たこともない男なのに、思い浮かぶたび向きが変わる。それだけを、なるべく普通の調子で説明した。
小宮さんは私を見ていた。
「目を閉じたら、ってこと?」
私は首を振った。
目を開いていても出る。目の前に見えるのではなく、頭の中にいる。
そう説明すると、自分でもおかしな話をしている気がした。

小宮さんは、無理しなくていいよ、と言った。
いつもなら、顔色が悪いとか、休んだらとか、もっと具体的に言う人だった。
私は、聞いてもらえただけでいいです、と答えた。
それから掃除機を使った。
音が大きくなると、男が近くなった。口を閉じたまま、こちらへ顔を向けた。
私は電源を切った。
小宮さんは、何も訊かなかった。

休憩のとき、紙に男の顔を描いてみた。
似顔絵を描くのは苦手だったが、どこが怖いのか分かれば、ただ想像しているだけだと納得できる気がした。
眉と目、鼻、口を描いた。出来上がった顔は、どこかで見たことのある平凡な顔だった。
頭の中の男とは違った。
それなのに、違う所を直そうとすると、鉛筆が止まった。目や口の位置は合っている。
私は紙を裏返した。

午後、階段の踊り場を拭いていると、小宮さんが隣へしゃがんだ。
「あれ、捨てなかったって」
例の袋のことだった。
前の事務所の人が、返してほしいと言ったらしい。担当者は、掃除機で吸ったものですよ、と確認した。相手は、それでいいと答えたのだという。
「何に使うんですかね」
私が訊くと、小宮さんは、聞いてもらってる、と言った。

私は紙に描いた顔を、担当者へ見せてもらえないかと頼んだ。
前の事務所にいた人なら、それで済むかもしれない。私がどこかで見て、忘れていただけなのかもしれない。
小宮さんは紙を広げた。
「男の人なの?」
私は頷いた。
「そう」
それきりだった。
紙を受け取って折り、仕事用の鞄へ入れた。

顔は、それから二日ほど出なかった。
掃除機の音も、換気扇も、普通だった。私は紙に描いたことで落ち着いたのだと思った。
三日目の夜、テレビをつけたままうたた寝をしていた。
妻が音を小さくすると、砂の音だけが残った。
私は目を開いた。部屋には妻がいて、画面では誰かが料理をしていた。
頭の中で、男が口を開けていた。

声は聞こえなかった。
口の中は白かった。歯があるのではなく、薄い白いものが、隙間なく並んでいた。
私はあの紙パックを思い出した。埃に混じっていた、平らで、皮のついたもの。
妻が何を言っているのか、うまく聞き取れなかった。
男は、ゆっくり口を閉じた。
私はリモコンを探し、テレビを消した。音は、止まらなかった。

翌朝、小宮さんに電話した。
前の事務所の人へ、顔を見せてもらえましたか。
訊くと、小宮さんは、ああ、と短く答えた。
「見せなかった。ごめん」
どうしてですか、と訊いた。
小宮さんは黙った。何かを手で擦る音が、向こうでしていた。
私は、その音を止めてもらえますか、と言った。
彼女は、今、何もしてないよ、と答えた。

しばらく、二人とも黙っていた。
小宮さんが、どこまで見える、と訊いた。
私は、口が、と答えた。
彼女は、そう、と言った。
「私は、後ろ」
何の後ろか訊こうとしたが、小宮さんはもう話さなかった。
電話の向こうで、乾いた音が大きくなった。
私は携帯を耳から離した。その音は、離しても小さくならなかった。

あの事務所へは、それ以来行っていない。
鍵を預かっていないし、仕事も終わっている。自分で壁を剥がして確かめられることがあるとも思えない。
小宮さんとは、別の現場で顔を合わせた。彼女はいつもどおりに働いていた。こちらからも、その話をしなかった。
紙に描いた顔は、返してもらっていない。
頼めば返してくれるのだろうが、見せてほしくないと思っている。

目を閉じるたびに出るわけではない。
家族のことや、仕事のことを考えていれば、男のことは忘れている。
何も考えずにいると、そこにいる。
最近は、顔の全体を思い浮かべられなくなった。
額も、顎も、同じ所には収まらない。大きくなったのか、近づいているのかは分からない。
昨日、初めて、鼻の下へ息が当たった。私は口を閉じていた。

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