居間の敷物を洗うのは、私が言い出したことだった。古いのを捨てて買い替えようと言う妻に、洗えばまだ使えると答えてしまった。そこで日曜の昼、二人で卓をずらし、掃除機をかけ、敷物を袋に詰めた。近所の大型洗濯機まで持っていく前に、私は床に座りこんだ。
里香は私の顔を見るなり、腰、と言った。私は頷いた。五年前に一度傷めてから、立ったまま靴下を脱ぐこともなくなった。それでも何か頼まれると、出来る出来ると言って先に引き受けた。今日だって、里香は腰のことを考えて買い替えようと言ったのだろう。
「だから言ったのに、って顔してる」
「してない。どうやって立たせようかと思ってる」
言い返せず、私は笑った。
床は敷物のあった所だけ色が白かった。私は足を前へ投げ出し、ゆっくり背を丸めた。張っていたところが少し楽になったので、妻に背中を押してくれと頼んだ。
「ちょっとでいいから」
「やめなよ。痛いんでしょ」
「痛くなる手前。ほら、ここが伸びると楽なんだ」
私は腰の両脇へ手を回した。里香は膝をつき、私の肩の下に両手を当てた。
強くは押さなかった。服が張りつき、背中が温かくなった。その下で、何かが一枚開いた感じがした。
折って持っていた紙を広げた時のような、急に余りが出る感覚だった。身体の中に、まだ伸ばせるところがある。そこへ力を通すと、腹の奥がひらく。痛みは全くなかった。
「もういい」
私が言うと、里香はすぐに手を離した。私は背を起こそうとしたが、どこへ力を入れればよいか分からなかった。
前に曲がっているのだから、後ろへ起こせばいい。そう考えると簡単だった。ところが私の中では、今まで腰だと思っていた所の、もう少し下にも上にも、動かす場所があった。それを一つ残らず閉じなければ、立てない気がした。
里香が私の顔を覗いた。
「どうしたの」
「変になった。今、どこを押した?」
「背中だけ」
見せられた両手は何も持っていなかった。私はその手を掴もうとして、右手を途中で止めた。手の届く所に妻がいるのに、肘を曲げることがひどく回りくどく思えた。肩と手首の間を、もっと短く使える気がした。
右腕を見ると、肘は普通の位置にあった。私はそこを左手で押さえ、曲げた。手が胸へ来た。いつもの動きだった。それを二度繰り返すと、今度は、腕の真ん中だけを曲げなければならないことが窮屈でたまらなくなった。
「手、痺れる?」
「違う」
「痛い?」
「それも違う。変な曲がり方を、知ってる感じがする」
里香は立ち上がりかけ、そのまましゃがみ直した。
私たちは結婚して十八年になる。里香の手には、洗い物をした後だけざらつく所がある。親指の付け根だ。そこが私の頬に触れた。熱をみようとしたのだろう。
その瞬間、私は顔を押しつけた。
頬を当てたのでは足りなかった。耳の後ろから顎の下まで、妻の掌の中へ入れようとした。そうされると落ち着くことを、私は知っていた。里香が手を引いてから、私は自分のしたことに驚いた。
「ごめん。押しすぎた?」
里香が小さく言った。
私は違うと答えた。最初の背中のことを、まだ気にしているのだと分かった。彼女は私の右腕を取り、立てるかと訊いた。私は卓につかまり、膝を立てた。立ち上がることは出来た。二本の足に体重がかかり、背中も伸びた。
里香が息を吐き、立てたね、と言った。
私には、上下から引っ張られて立たされているように感じられた。足と頭が遠すぎた。私は卓へ両手を置き、もう一度座ると言った。
「椅子、持ってくる」
「床でいい」
里香が止める前に、私はしゃがんだ。途中までは普通に膝を曲げていた。床が近づくと、そこへ身体を置くより先に、腹の下で何かを畳んだ。
私は床に両手をついた。膝もついていた。見下ろせば、よく知った自分の腹が垂れている。それなのに、腹の内側は今、きれいに二つに重なっていた。長く伸ばしていたものを仕舞い終えた、ほっとする感じがあった。
「ああ、楽だ」
口から出た言葉を聞いて、里香が一歩下がった。
私はその足を見た。妻が怖がっているのだと思い、普通に座り直そうとした。畳んだ所を広げればよかった。それが、もう出来なかった。腰を持ち上げても腹に手を当てても、さっき収まった場所は動かない。むしろ、手足の方が余っていた。肘と膝を、どこかへ差し込みたくなった。
私は両手を床へ広げた。勝手に動くのではなかった。動かしたいのが自分だから、恐ろしかった。
「里香、さわって」
私は頼んだ。さっきのように背中を撫でてもらえば、何か分かると思った。里香はしゃがんで手を伸ばし、途中で止めた。
「今は、やめとく」
「怒ってるの?」
口にしてから、馬鹿なことを訊いたと思った。里香は首を振った。
「違う。私が、変なの」
彼女は右手を左の手で包んでいた。指を一本ずつ握り、離していた。見ているうちに、私まで指先がむずむずしてきた。
「あなたが立った時、下を持ちたくなった」
「下?」
「ここ」
里香は私の脇の辺りを指した。それから自分の掌を見た。
「そこを持ったら、片手で抱えられると思った。赤ちゃんみたいにじゃないよ。持ち上げるんじゃなくて」
彼女は言いかけて口を閉じた。私には、その続きが分かりそうだったので、聞きたくなかった。
洗濯に行くための小銭が、卓の上に置いてあった。私はそこへ目を向けた。何の変哲もない百円玉が七枚と、里香の赤い財布。まだ日も高く、窓から向かいの家の物干しが見えていた。私たちは、ほんの数分前まで、敷物をどう洗うかで話をしていた。
里香が携帯を取った。
「誰かに来てもらおう」
私は頷いた。説明をするため、いったん立ち直ろうとした。自分の身体を自分で支えられるところを、妻に見せたかった。膝を前へ出すと、里香が携帯を置き、私の腕を掴んだ。
その掴み方が違った。
彼女の親指は、私の腕の上に載っていた。他の四本は下へ回っている。見たところでは、それだけだった。だが触れられた所を中心に、右腕が筒のようにほどけた。中身を抜かれたのではなく、丸めておいた自分を広げられたのだと思った。
冷たい床の感触が、右腕の内側いっぱいにあった。腕は床に触れていなかった。
里香は口を開け、指を離そうとした。
「離して」
私は言った。彼女は自分の親指を左手で持ち上げた。私の腕から掌が離れた。目では、その隙間が見えていた。腕の内側には、まだ里香の手があった。指の形ではなかった。私がずっと伸ばしそこねていた場所へ、ぴったりと沿うものがあった。
「取れてない」
「取れてるよ」
里香は両手を肩の高さへ上げた。私は首を振った。すると妻は、私の腕をじっと見た。さっきまで困ったように下がっていた眉が、ゆっくり戻った。
「あ、分かる」
彼女は言った。言ってから、唇を噛んだ。
「分かっちゃだめだ」
私は左手で右腕を擦った。布を通しても、汗ばんだ皮膚がちゃんと分かった。それとは別に、もっと広い面があって、そこを里香が抱えている。妻は手を上げたまま動かなかった。二つの感覚が同じ所にあった。どちらかが嘘なのだと考えても、片方は消えなかった。
里香が爪を自分の掌に立てた。
「それ、やめて」
私が言うと、彼女は拳を開いた。白かった指先に色が戻った。
「ごめんね」
「謝らなくていいから」
「押したことじゃない」
そう言われ、私は黙った。里香は私の右腕を見つめたまま続けた。
「ちょっと、嬉しかった」
何と言えばいいのか分からなかった。私は彼女の視線から腕を隠そうとし、左の手で袖を引き下ろした。すると里香が身体を揺らした。顎を引き、両肘を脇に寄せる。その姿勢が、私には妙に懐かしかった。見たことのない仕草だった。それでも、ああ、いつもそうしていた、と身体の方が思った。
私は妻の名前を呼んだ。
里香は顔を上げた。泣いていた。私は手を出し、すぐ引っこめた。抱きしめたかった。けれど、妻を抱くために自分がしようとした動きは、両腕を広げることではなかった。
胸の下を開いて、そこへ里香を挟もうとしていた。
「いつもみたいにしよう」
私は言った。里香は頷いた。何のいつもなのか、自分でも分からなかった。とにかく彼女と同じ高さへ座った。両足を前に揃えた。右腕を膝に載せた。身体を一つずつ、目で見ている場所へ置いていった。
里香も隣に座った。肩が触れそうになると、二人とも離れた。
私は卓の携帯を左手で取り、弟へ電話をかけた。弟は出なかった。留守番電話に名前を言い、自分の家にいること、妻と二人でいることを伝えた。身体がおかしい、と言うと、その先が続かなかった。折り返してくれとだけ頼んだ。画面を閉じる親指の動きは、まだ普通に出来た。
里香が、私の左手を見ていた。
「そっちは平気?」
私は手を開いて見せた。親指を掌につけ、それからほかの指も握って開いた。今まで何度もしてきた、小さな動きだった。握手なら出来ると思った。身体のことを何も考えなくても、妻の手を取れるはずだった。
私が掌を向けると、里香も左手を出した。
指と指の間を合わせた。里香の手は冷えていた。私たちは手を繋いだまま、互いの顔を見た。何も起こらなかった。私はひどく嬉しくなり、妻の指を少しだけ握った。
里香の身体が、私へ傾いた感触があった。
肩が触れたのではなかった。妻は隣に座ったままで、顔も膝もさっきと同じ所にあった。左の掌に、里香の全身が入っていた。背中の小さなほくろも、踵の乾いたところも、触らずに知っていたのではない。今、全部に触れていた。指を閉じれば、里香はもっと楽に収まる。
「握らないで」
里香が言った。私は開いた。
妻の手だけが、膝の上へ落ちた。里香はそれを自分でもう一度拾い、指の間を確かめた。私は両方の掌を床に伏せた。床板の硬さに触れていれば、手を何に使うか間違えずに済むと思った。
洗いに行くはずの敷物は、袋の口から半分はみ出していた。私たちはそれを足元に置き、また並んで座った。今は触らない方がいい、と里香が言った。私はそうしようと答えた。
それから里香は、一度だけ私に寄りかかろうとした。私の肩を見て、首を傾げた。どこへ頭を載せていたのか、分からなくなった顔だった。
私は肩を少し下げた。いつもそうしていた。
里香は頭を寄せず、私の胸の下へ、片方の手を当てようとした。私はその手首を押し戻した。今度は、手首を掴んだ感触だけだった。妻も逆らわなかった。
それなのに、押し戻した私の方に、抱きしめてもらえなかった寂しさが残った。


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