戸塚は、三枝が畳もうとした長机を押さえた。
「それ、向こうへ並べてくれるだけでいいから」
「今日は片づけるところまでです」
「分かってる。運ぶ手間が一度で済むでしょう」
机の脚を折るためにかがんでいた三枝は、腰を伸ばした。
市民センターの展示室で、一週間開いていた郷土資料展の撤収をしていた。三枝は商店街から出た手伝いだった。勤め先の店長から、昼までには帰してもらえると聞いていた。午後の店には三枝しかいない。
戸塚は二時から始まる囲碁会の机を出しに来ていた。誰かが早く来て場所を整えれば、残りの人は時間どおりに座れる。戸塚は机を置く位置を迷わず指した。
「お昼、まだなんです」
三枝が言うと、戸塚はようやく机から手を離した。
「じゃあ、これだけ一緒に。あとは僕がやるから」
二人で壁際へ運んだ。折らずに置けば、確かに一度で済む。それだけのことを断ろうとした自分が、少し意地悪に思えた。
展示室は横に長く、入口は廊下に面した両開きの扉が一つだった。反対の壁には大きな窓が並ぶ。右端の窓の前で、センターの臨時職員の杉浦が、借りた資料を箱へ詰めていた。退職した教員から預かった、昔の学校の写真だった。紙の角に触れないよう、一枚ずつ台紙へ戻していた。角の反った一枚だけは箱の脇へ置き、替わりの台紙を探していた。
杉浦は三枝より若かった。昼過ぎには交代するはずだが、資料の持ち主が引取りを早めたため、それまで残ることになったという。胸ポケットの携帯が光るたび、片手で画面を伏せた。
「受け取る人だけ替わっちゃ駄目なんですか」
三枝が尋ねると、彼は写真を包み終えてから答えた。
「去年、一枚足りないって話になったので。僕が借りに行ったんです」
壁の中央には、背の高い展示ケースがあった。元は近所の時計店で使われていた物らしい。濃い色の木枠にガラスの引戸が二枚入っている。上の端には、古いテープの跡が残っていた。中はもう空だったが、これを倉庫へ入れなければ、囲碁の机を六列並べられない。
三枝と戸塚はケースを押し、廊下へ出すため入口の手前まで運んだ。そこで小さな車輪が鳴り、片側だけ進んだので、三枝はいったん止めた。ケースの前にいた戸塚が、何か落ちたぞ、と言った。
ガラス戸が一枚、枠の外に出ていた。人の肩より高い、縦長の板だった。下の縁を床につけ、少しも傾かず立っていた。
三枝はケースを押さえたまま、杉浦を呼んだ。
「外れちゃいました」
杉浦は箱の蓋を閉じ、こちらへ来た。ガラスの横へ回りこもうとして、その場に止まった。
板が動いていた。倒れる前に揺れているのかと思ったが、縁と床の間に影が一本あるだけで、金具も車輪もなかった。立った形のまま、三枝たちからゆっくり離れていった。
「誰か、そっち持ってます?」
杉浦が言った。
三枝は向こう側を見た。戸塚が両手を広げた。杉浦の顔も、戸塚の手も、ガラス越しにはよく見えた。
三人の真ん中を、ガラスが通り過ぎた。
掃き掃除のために床へ立てかけてあった箒に、板の端が触れた。箒は倒れなかった。柄の真ん中に細い黒い筋がつき、上半分だけが床へ落ちた。残った下半分も、遅れて横になった。
三枝は息を吸い、声を出せなかった。ガラスは窓の手前まで行くと、薄い横顔をこちらに見せて向きを変えた。
杉浦が三枝の袖をつまみ、入口の側へ寄せた。戸塚もついてきた。三人は廊下へ出た。
「今、見ましたよね」
杉浦が聞いた。戸塚は頷いて、切れた箒を指した。三枝は一人ではないことに、ひどくほっとした。そのせいで、次にどうするかを誰かが言うのを待ってしまった。
受付にいた女性が、電話を耳へ当てたまま手を上げた。杉浦が、展示室に入れないで、と告げる。女性は口元で送話器を押さえ、雨漏りか、と聞いた。杉浦は違うと言ったが、ガラスが歩いている、と言うまでには少し間があった。
女性は三人の顔を順に見た。電話の相手へ詫びてから、受話器を置いた。
戸塚が入口へ戻った。三枝もつられて中を見た。
ガラスは窓際を進んでいた。さっきまで杉浦が使っていた机の角に、縁が近づいた。台紙を入れた段ボール箱が載っている。杉浦は三枝の横から腕を出し、受付の女性へ箱を取ってくれと頼んだ。女性は入口から二歩入り、やめたほうがいい、と後ろへ下がった。
「僕が行きます。今なら、こっちを回れる」
杉浦は壁沿いの広い方を指した。ガラスからは十分離れていた。三枝は止めなかった。自分も、あの箱だけ取れば済むと思った。誰かに借りた写真を切らせるより、目の前にある物を拾って来るほうが簡単に見えた。
杉浦は机まで行き、箱を抱えた。板は窓に沿って離れていった。彼は背を向けず、横歩きで戻ってきた。
三枝は入口に置いたままの空の展示ケースを、廊下側へ引いた。杉浦が通りやすくなるようにしたつもりだった。大きいケースが斜めになり、両開きの片方を塞いだ。
「そっちは動かさないで」
杉浦が言った。
三枝は手を止めた。どこが、と聞く間に、ガラスが向きを変えた。窓際から真っすぐ、こちらへ来た。横歩きをやめた杉浦が走り出した。三枝はケースを押し戻したが、車輪が扉の金具へ噛みこんでいた。
戸塚が横からケースの端を持ち上げた。ほんの少し動いた。その隙間へ杉浦が身体をねじこんだ。箱の角が引っ掛かったので、三枝は箱を先に受け取った。
杉浦は上半身を廊下へ投げ出し、左足を抜いた。右の靴だけが、まだケースの角に引っ掛かっていた。
その時、彼のズボンの右膝が横へ開いた。膝頭の下に赤い線が一本でき、足が折れた。
彼は廊下へ倒れた。身体を引きずるようにしてケースから離れた後、右の靴だけが、少し違う向きで床に載っていた。
三枝は箱を落とした。蓋が外れ、台紙が何枚か滑り出した。拾いかけて、やめた。
杉浦は声を出していた。大声なのに、三枝には、同じところで息をつかえているように聞こえた。
戸塚が自分の上着を脱ぎ、杉浦の脚へ当てた。受付の女性が救急へ電話した。三枝は何をすればよいか尋ねようとして、入口を見た。
ガラスはそこにいた。下半分に細い赤い筋が斜めに走っている。枠から出た時の、白く乾いたテープの跡も同じ位置にあった。一枚の板のまま、ケースの横で止まっていた。
板の向こうから、こつん、と音がした。
叩いた人は見えなかった。胸ほどの高さに、小さな曇りがついた。五つの丸い跡が広がり、次に大きな丸がつながった。手の跡だった。三枝のいる側ではなく、向こう側から押されたように見えた。
ガラスが後ろへ下がった。
「扉を閉めて」
受付の女性に言われ、三枝はケースを引いた。今度は簡単に動いた。戸塚に片方の扉を押さえてもらい、ケースを廊下へ出した。ガラスの赤い線が、部屋の奥へ遠ざかっていく。
扉を閉める直前、低いところにも丸い跡がついた。誰かがしゃがんで、そこを押したようだった。板は傾かず、その場で半回転した。
三枝は扉を閉め、取っ手を持っていた。外へ出てきたらどうしようと思った。だが、中を確かめるためにもう一度開けることもできなかった。
杉浦が、箱は、と言った。
「ここにあります」
三枝は答えた。足元には写真が散らばっていた。もう一度聞かれたので、全部あります、と言った。数えてはいなかった。
受付の女性が救急の指示を聞きながら戸塚へ何か伝えた。三枝は廊下の反対側へ回り、入口から来る人を止めた。午前の教室が終わる時間で、二階から何人も下りてきた。買い物袋を持った人が、何の騒ぎ、と覗こうとした。
「ガラスで怪我をしたんです。近づかないでください」
三枝がそう言うと、その人は床を見た。
破片は一つもなかった。
そのことを三枝は付け足せなかった。床に落ちたガラスなら避けて通れる。割れた箇所を片づければ済む。足元を見ながら進もうとした人の前へ、三枝は身体を移した。
「今日は、この先には入れません」
ようやく、相手が顔を上げた。
救急の人が来るまで、三枝は同じ説明を何度もした。展示室の扉は閉じていた。中で何が起きているのか、誰も見に行かなかった。
杉浦が運ばれていく時、三枝は箱を抱えてそばへ寄った。彼は写真のほうを見た。ずれた台紙を揃えたと伝えると、よかった、と口を動かした。そのあと目を閉じ、もう三枝を見なかった。
戸塚は洗面所で手を洗って戻ってきた。袖をまくったシャツが、水で胸まで濡れていた。囲碁の石が入った布袋は、長机の下に置いたままだった。
「会の人へ電話しないと」
そう言って携帯を出したが、画面に何度も指を置き直した。三枝が代わろうかと言うと、戸塚は、番号が分からないでしょう、と返した。怒っているのか、ただその通りのことを言ったのか、分からなかった。
三枝も店へ電話した。昼までという約束は、とうに過ぎていた。客が二人待っている、と店長は言った。
「杉浦さんが大怪我をしたんです」
店長は杉浦を知らなかった。どの人、と聞かれた。三枝は名前をもう一度言ってから、店には行けない、とだけ伝えた。電話を切った後、親指に血がついているのに気づいた。自分の怪我ではなかった。
資料を貸した藤沢という老人が来たのは、二時近かった。
玄関で杉浦を呼んだので、三枝が箱を持って出た。事情を伝えると、老人は椅子へ座った。
「歩けるんですか」
三枝は分からないと答えた。老人は箱を受け取らず、もう一度だけ、脚を、と言った。三枝は頷いた。
写真は、一枚足りなかった。
老人が自分で台紙を数えた。三枝は箱の内側も、廊下に落ちた場所も探した。杉浦が脇へ置いた、角の反った台紙を思い出した。箱へ入れるところは見ていなかった。
「中にあります。必ず、お返しします」
言うと、戸塚がこちらを見た。
三枝は口を閉じた。展示室の扉には、受付の女性が貼った使用中止の紙があった。紙の真ん中に、細い縦の切れ目が入っていた。扉の木の模様にも、その線が続いていた。
まだ誰も触っていなかった。
藤沢はそれを見て、写真はもうよいと言った。昔の卒業生が、近いうちに引取りに来る予定だったらしい。自分が処分するより、その人へ渡しておきたかった、と箱の中を見ながら話した。
「けど、あの人にそう言うと、取りに行くでしょう」
杉浦のことだった。三枝は、今日はもう戻りません、と答えた。
「そうじゃなくて。治ってからでも」
三枝は箱の蓋を閉めた。杉浦へ、全部あると言ってしまった。その後で足りないと伝えれば、彼はまた自分が借りた物だからと言うだろう。
老人は三枝の顔を見て待っていた。彼に任せて帰るつもりで持ってきた箱を、三枝は膝の上へ置いた。
廊下の端で戸塚が長机を引いていた。展示室へ続く曲がり角に横向きに置き、人が近づかないようにしている。三枝は箱を椅子へ移して手伝った。
そこからでも、扉の切れ目が見えた。三枝が最初に見るのをやめた場所から、少しだけ右へ延びていた。
戸塚が、もう一台いるね、と言った。
三枝は頷き、畳んで重ねてあった机のいちばん上を持ち上げた。


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