土屋さんは、飼い猫に名前をつけなかった。
「名前を覚えたら、帰ってこなくなったとき困るでしょう」
そう言っていた。名を呼べば帰ってきそうなものだが、土屋さんにとっては逆らしかった。私は深く訊かなかった。二十年も前の話だ。
当時、土屋さんは古本屋をしていた。駅から離れた団地の端に、小さな店を借りていた。帳場の後ろだけ畳で、そこで猫が寝ている。薄い灰色の、小柄な雄だった。猫が本を傷めることはなく、客の足にまとわりつきもしなかった。私は月に二、三度通い、買った本より、土屋さんから貰った蜜柑の方が多い月もあった。
ある日、帳場に腕時計が置かれていた。金色の、女物の時計だった。猫が持ってきたそうだ。土屋さんは時計を交番へ届けたが、その数日後、今度は片方だけの手袋を見つけた。次には印鑑の入った革の袋。小さな物ばかりだったので、猫の口で運べること自体は不思議ではなかった。
ただ、どれも濡れていた。雨の降らない週でも、水の底から拾ったように濡れていた。土屋さんは台所で軽く拭いてから届けた。猫はその間、足元へ座り、拭く手をじっと見ていたという。私が猫を褒めると、土屋さんは、本当は叱らないといけないんでしょうけど、と笑った。他所の家から持ってきたのなら泥棒だ。
時計の持ち主から、お礼の菓子が届いた。土屋さんは私にも分けてくれた。手袋の相手は見つからなかった。印鑑は、すでに届出を済ませたあとで、直接探しに来た人がいた。灰色のスーツを着た、背の低い男だった。私が雑誌を選んでいるとき、ガラス戸を開けずに、外から何度も頭を下げていた。
土屋さんが出ていくと、男は、猫がいるでしょう、と訊いた。それで話が通じた。土屋さんは交番へ行く道を教え、男はまた頭を下げて去った。私は、なぜここに印鑑があったと知っていたのか、土屋さんに尋ねた。彼は人づてでしょう、と答えた。男が去ったあとも、猫はガラス戸の前に座っていた。
しばらくして、土屋さんは拾得物を店先へ並べるのをやめた。交番へ届けるのもやめた。それが気になって、よくないんじゃないですか、と言うと、持ち主に返しますから、と返された。
「来るようになったんですよ。先に」
私には意味が分からなかった。
土屋さんの話では、猫が物を持ち帰る前に、落とし主が店へ現れるようになったという。最初は午後に女が来て、銀の小物入れを尋ねた。そんな物はないと答えたら、夜になって猫が運んできた。その次は、朝、紺の上着を着た若い男が煙草入れを探しに来た。これも夕方に猫が持ってきた。男はまだ店の外に立っていた。
「待ってるんです。ずっと。帰ればいいのに」
「中へ入れてあげなかったんですか」
「入れても、本を買わないでしょう」
ひどい言い方だったので、私は笑ってしまった。土屋さんも笑った。今でも、そこだけを妙にはっきり覚えている。煙草入れの男が待っていた時間や、夜の寒さを、私はまるで考えなかった。本を買わずに店へ長居する客の話として聞いていた。
私が転勤したあとも、年に一度はその店へ寄った。土屋さんの髪は少しずつ白くなり、私には子供ができた。猫の写真を撮って娘へ見せようとすると、土屋さんは毎回、今日は留守だと言った。猫はまだ元気で、小さな忘れ物を運んでくる。店の営業時間は短くなっていった。大勢の客を相手にするのが億劫になったのだろうと思っていた。
七年目の秋に寄ると、売り場の半分が空になっていた。二本あった背の高い書架のうち、一つがなくなっている。壁沿いに椅子が並んでいた。待合室のようだった。土屋さんが買い付けから戻るまで、誰かが座って待つのだという。私は商売を広げる話だと思い、古本の引き取りも忙しいんですね、と言った。
「ううん。持ち主の方」
そう答えて、土屋さんは椅子の脚を直した。すべて少しずつ斜めに置いてあり、座ると膝が隣の人の膝に当たりそうだった。私は一脚を壁へ寄せてあげた。土屋さんが、そこは動かさないで、と言った。怒った声ではなかった。私が置いたばかりの椅子を、彼は片手で元へ戻した。
その日は、奥からずっと湯を沸かす音がしていた。帰る前に便所を借りると、狭い廊下の壁に棚がつけられ、湯飲みが二十個ほど伏せてあった。どれも口の欠けた古い物だった。流しには水の入った大鍋がある。私は、これだけお茶を出したら大変でしょう、と声を掛けた。土屋さんは、飲んでくれれば大変じゃない、と答えた。
それから五年、私は店へ行かなかった。父の病気や自分の引っ越しが続き、古本屋へ寄るために休日を使う余裕がなかった。土屋さんのことを思い出したのは、駅前の新しい古書店で、彼が値段を書いたままの本を見つけたからだった。細い鉛筆の字に覚えがあった。店を畳むので買い取ったのだと聞き、私は翌月、団地へ行った。
看板は外されていた。シャッターは半分だけ開き、中に椅子が見えた。土屋さんは奥にいた。丼に入れた白いご飯を脇へ置き、厚い本を声に出して読んでいた。声を掛けると顔を上げ、来るなら電話してくれれば、と笑った。いつもと同じ顔だったが、目の下の皮膚が灰色になっていた。
まだ本を売っているのか訊くと、もう売らないと答えた。帳場の台だけが残り、その上に鍵、櫛、靴べら、眼鏡のケースが並んでいた。猫が運んだものだろう。乾いた物は一つもなかった。台の縁から水が垂れ、床に薄い池を作っている。土屋さんは布巾で受けていたが、すぐに絞るのを忘れるらしく、畳んだまま濡らしていた。
「まだ、猫はいるんですね」
「いますよ。よく働くから」
土屋さんは棚から菓子を出した。私はいらないと断り、代わりに買ってきたパンを渡した。喜ぶと思ったのに、袋の中を覗き、一つ、二つと数えた。三つしか買ってこなかったことが、ひどく気まずかった。土屋さんは台所へ運び、小さな包丁で一つを四つに切り始めた。
私は手伝おうと奥へ行った。通路の中ほどで、誰かの腹へぶつかった。服の上から分かる、柔らかい腹だった。すみません、と言って身体を横へ向けた。右の肩も、誰かの胸に当たった。冷たかった。厚い布を着ているのに、その中へ水を入れたように、身体の奥まで冷たさが通った。
暗いわけではなかった。奥の窓から昼の光が入っていた。私には床も、壁に立てかけた箒も見えていた。それなのに、身体を斜めにしなければ進めなかった。右肩を引くと、後ろの人が息を吐いた。襟足へ濡れた髪が当たった。私は大きな声で土屋さんを呼んだ。
彼は包丁を置いた。私の背後を覗き、それから少し腰を曲げて、通してください、と頼んだ。
「お客さんなので」
肩の圧迫が緩んだ。私は売り場へ戻った。椅子にぶつかり、倒してしまった。誰も座っていないはずのその椅子だけが、床へ横になる途中で止まった。斜めになった座面から、細い息が漏れた。私は椅子を起こすこともできなかった。土屋さんが、いいんです、私がやりますから、と言った。
「ここ、何人いるんですか」
彼はすぐには答えなかった。台所に戻り、切ったパンを皿へ分けた。私が帰りたいと言うと、分かっています、と頷いた。猫を預かってくれとは頼みませんよ、と続けた。そんな話をしたつもりはなかったので、私はますます怖くなった。
土屋さんは、最初は探している品を渡していたのだと話した。そのうち、帰らない人が出てきた。夜に椅子を片づけると、床へ座った。物を渡しても待っているので、気を紛らわせるつもりで本を読んでやった。誰も途中で席を立たず、文句も言わなかったという。
「それで、その次からは、品物を返していないんです」
土屋さんは、私が理解するのを待った。
「帰らない人ばかりとは、限らないでしょう」
「警察には」
「言いましたよ。物があるでしょう。人がいないでしょう。拾ったことになっちゃうんです」
聞き返せなかった。土屋さんが座面を拭くと、布巾に薄茶色の筋がついた。それを嫌がるように、空の椅子の背が少し揺れた。彼はすみません、と謝った。土屋さんはその背へ片手を置き、動きを止めた。買い手に困って書架を処分したのだと思っていた。彼は、本より椅子を置く場所を残したのだった。
そのとき、帳場の奥で猫が鳴いた。私は反射的にそちらを見た。灰色の尾が、畳の角を曲がるところだけ見えた。土屋さんも立ち上がった。嬉しそうな顔をしたので、私は腹が立った。もう戸を閉めて、入れなければいいでしょう、と言った。
「あれが帰ってくると、私も座っていられるんです」
帳場の鍵を一つ取り、土屋さんは私へ見せた。大きな倉庫の鍵だった。番号の書かれた樹脂の札がついていた。猫がこんな物を運べるのかと思った。土屋さんは、鍵を持ってきたのは昨夜だと言った。持ち主は三日前から待っている。
私は彼の手から鍵を取らなかった。外へ出てから振り返ると、斜めになっていた椅子が全部こちらを向いていた。土屋さんはパンを配っていた。皿を差し出すたび、誰かに袖を引かれるらしかった。彼は袖を振り払い、帳場に重ねた本を一冊、膝へ載せた。
私は、猫に人を押しつけられた男の話を聞いたつもりだった。帰りの電車で、土屋さんが何を頼み、私が何を引き受けかけたのか、何度も思い返した。彼は誰かを連れ出してほしいとは、一度も言わなかった。
一昨年、あの団地を仕事で訪れた知人が、古本屋だった建物はもうないと教えてくれた。取り壊す前、年寄りが一人、奥の廊下で亡くなっていたらしい。身元を調べるのに時間がかかったそうだ。私が土屋さんの名を出すと、知人は知らないと答えた。
土屋さんからの年賀状は、今年も来た。
店を片づけて、小さな倉庫へ移りました。よかったら本を持ってきてください、と書いてあった。余白に、鍵の絵が描いてあった。昔、帳場で私へ見せたものと同じ、番号の札がついていた。
私は年賀状を捨てなかった。猫が拾うかもしれないと思うと、住所のある紙を外へ出すことができなかった。


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