真紀は、左の靴を右の足で隠した。両方とも同じ日に買ったものなのに、左だけが白っぽくなっていた。
「ここ、もう黒くなりませんか」
椅子の下に座った男は、顔を近づけずに見た。
「色は入ります。傷が消えるわけじゃないけど」
「同じくらいになればいいんです」
男は頷いた。真紀は鞄を膝へ載せ、ようやく椅子に深く座った。
駅前の、屋根のある歩道だった。百貨店の入口から少し離れた所へ、背の高い椅子と、小さな木の台が出ていた。前を通るたび見かける靴磨きだったが、頼むのは初めてだった。男は真紀より少し年上に見えた。頭に灰色の帽子を載せ、指の付け根まで黒くしていた。
真紀は五十二になってから、履きやすさだけで靴を買うのが急に嫌になった。新しいものを選ぼうとしたが、売場では結局、今の靴に似たものばかり手に取った。それで、同じものを買うなら磨いてみようと思った。
「仕事で履いてるんですか」
「いいえ。買い物とか、映画とか」
「じゃあ、まだ長いね」
真紀は顔を上げたが、男は踵の減りを指で確かめ、右足を小さな台へ載せるよう頼んだ。
「左からじゃないんですね」
「こっちは後で。色を見ながらやります」
男は小さな缶を二つ、箱から出した。右にはまだ艶があると教えてくれた。真紀は左を磨けば右に近づくと思っていたので、右も磨くのだと分かって、少し恥ずかしかった。
「家では、片方ずつやってました」
「それでいいですよ」
「片方終わると、もう面倒になって」
男が初めて笑った。真紀も笑い、鞄の金具を両手でいじった。左だけ雑に塗っていたことは、言わなかった。
「今日は両方、お願いします」
「はい。下ろす時、声をかけますから」
真紀は左の足を奥へ引いた。男の道具にぶつけないよう、細い足掛けに踵を揃えた。
男が紐を緩め、革と靴下の間へ細い布を差し込んだ。足は靴の中に入れたままだった。柔らかいブラシが甲を走り、乾いた土が少し落ちた。真紀は磨かれる右足の指を曲げた。
「楽にしてていいですよ」
力が入っていたらしい。真紀は爪先を緩めた。左足は椅子の足掛けに置いていた。どちらも地面にはついていなかった。
右の踵へ男の指が触れた時、歩道の向こうで、こつん、と鳴った。
通り過ぎた誰かの靴だと思った。男が踵を持ち直すと、また鳴った。少し硬く、終わりに小さな擦れる音がついていた。真紀の靴は、店の床を歩く時によくそんな音を立てた。
男の手は止まっていた。黒い布を人差し指へ巻き直していた。
真紀は百貨店の方を見た。若い男が二人、入口の前で携帯を見せ合っていた。どちらも厚底の運動靴だった。その脇に、閉じた傘の入った透明な袋が下がっていた。雨は降っていなかった。
こつん、と鳴った。
二人とも歩かなかった。入口の自動扉は開き、別の客が出てきた。その人が通り過ぎても、同じ場所で音がした。
「動きました?」
真紀が訊くと、男は顔を上げた。
「足?」
「いえ、今、踵を」
「持ってただけ」
男は手を開いてみせた。真紀の右足は台の上に載っていた。真紀が爪先を少し上げると、足首も靴も一緒に上がった。痛みはなかった。自分の足を動かしている感じも、いつもと変わらなかった。
男は作業を続けた。小さな缶を開け、指の布で黒いものを取り、爪先へ薄く延ばした。真紀は手の速さを見た。家でクリームを塗ると、一つの所へ塊が残ってしまう。男の手が通ると、革の皺の底まで色が落ち着いた。
こつ、こつん。
真紀は入口を見た。音は少しこちらへ寄っていた。男の手が同じ速さで動いているのに、音の間は急に短くなった。
「靴の音、聞こえますか」
「聞こえますよ」
男は布を止めた。
「さっきから、同じ音がしてますね」
その返事で、真紀は話しやすくなった。自分の右の音に似ている、と言った。男は真紀の靴を見て、底を少し浮かせた。台に当たっている所は踵だけだった。空いた爪先の下へ、男の指が一本入った。
歩道で音がした。指が抜けても、続いた。
犬を連れた女の人が来た。茶色い犬は男の道具箱を嗅ぎかけ、急に鼻を上げた。短い毛の耳が片方だけ立った。
真紀は、その鼻の先を見た。音がしたのは、まだ百貨店寄りだった。犬はそこを見ず、真紀の右足のすぐ上を見ていた。女の人が、行くよ、とリードを引いた。犬は後ろへ二歩下がり、道具箱を大きく避けた。
男は犬に手を振らなかった。真紀の右足から、自分の指を離していた。
「何か、匂うのかもしれないですね」
真紀が言うと、男は開いた缶へ蓋を載せた。
「犬が嫌うものは、使ってないけど」
そう言ってから、首を傾げた。真紀は男を責めたつもりはなかった。変なことを言ったと思い、すみません、と小さく言った。男は、いや、と答えた。それから二人とも、右の靴を見ていた。
爪先の丸い所に、細い横線ができていた。
真紀は傷だと思った。色が入ったため、前からあった傷がよく見えるようになったのだろう。男もそこへ布を当てた。一往復させると線は見えなくなったが、布を退けたところへ、もう一度浮き上がった。
今度は真ん中だけが少し開いた。黒い線の中に、白いものが見えた。
真紀は足を引いた。男が手を放すより早く引いたので、踵が台の端へ当たった。すぐ目の前で、ごつ、と鈍い音がした。
百貨店の前では、こつ、こつ、と別の音が続いていた。
真紀は椅子の足掛けへ右足を載せた。両足を揃えると、左の白っぽい傷が目についた。右の爪先の線は閉じていた。布を下げた男の額に、細かな汗が浮いていた。
「今の、見ました?」
男は頷いた。
「革が割れたのかと」
「違いますよね」
男はすぐには答えなかった。真紀は自分の足の指を動かした。右の靴の甲が、内側から少し持ち上がった。爪先にできた線は動かなかった。
歩道から、また同じ二歩が聞こえた。速くも遅くもならず、その場所だけを踏んでいるようだった。
真紀は右の膝を抱え、紐をほどこうとした。男が片手を出しかけた。
「自分でできます」
言い方がきつくなった。男は手を戻した。真紀は靴の踵へ指を掛け、足を抜いた。薄い靴下は、どこも破れていなかった。爪先を反らしてみても痛まなかった。
空の靴を、両手で持った。革の線がゆっくり開いた。
目だった。
真紀には、そうとしか見えなかった。白い部分の下から黒い丸が上がり、横へ寄った。靴の爪先に、片目だけが埋まっていた。まぶたの縁には毛穴に似た小さな点があり、閉じると、磨いた革の光がそこを横切った。
男が息を吸った。真紀は男を見た。彼の顔ではなく、手が震えているのを見た。黒い布の端が、小さく揺れていた。
「置いて」
男が台を指した。
真紀は置きかけて、止めた。目は男の手を追っていた。布を持つ手が右へ動けば黒目も右へ寄り、引けば、白いところが細くなった。
自分で持っている靴なのに、真紀の方は見なかった。男の指へ顔を寄せる生き物を、両手で差し出しているようで、嫌だった。
真紀は靴を膝へ戻した。
「拭けば」
男はそう言いかけた。真紀は首を振った。
「触らないでください」
男の手が途中で止まった。
「靴に、です。もう」
真紀は言い直した。男は頷き、布を道具箱へ置いた。それを目が追った。箱の縁の向こうへ布が消えると、黒目だけが下へ下がりすぎて、ほとんど見えなくなった。
歩道の音は止まらなかった。
男は椅子から腰を浮かせ、百貨店の方を見た。真紀も見た。音のする辺りには、買い物袋を持った女が立っていた。電話をしているらしく、片手で髪を耳へ掛けていた。その足は動いていなかった。
「向こうにいるんじゃないんだな」
男が言った。
真紀は膝の靴へ目を戻した。目はまだ、道具箱の中を見ようとしていた。向こうに何がいるかも、ここに何がいるかも、真紀には答えられなかった。
「預かって、調べてみましょうか」
男はいつもの客へ言うように話した。真紀は頷きそうになった。ここへ置いていけば、店で安い靴を買って帰れる。男は靴を扱う人だった。自分より、何をしたらいいか分かるかもしれない。
目が閉じた。男の指が道具箱の蓋へ触れた時、また開いた。
真紀は、これは傷の直しを頼んでいるのではない、とようやく思った。
「どうやって調べるんですか」
男は真紀を見た。顔を見合わせたまま、何も言わなかった。
「分からないですよね」
真紀が言うと、男は口元を押さえた。
「分からない」
返事は小さかった。真紀は靴を男へ向けないよう、爪先を自分の膝の内側へ回した。黒目が、端まで寄って男の手を見続けた。
真紀は右の靴を膝に挟み、左足を台へ置いた。男が目を大きくしたので、違います、と言った。
「こっちも脱ぎます。足、置くだけ」
男は台を少し近づけてくれた。真紀は左の紐をほどいた。両足とも靴下だけになった。椅子から下りる時、男が近くにあった敷物を広げた。真紀はそこへ足を下ろした。
自分の重さが踵へ掛かるのが分かった。靴音は鳴らなかった。
真紀は右の靴を左腕と胸の間に挟んだ。爪先は男の方へ向けなかった。左を鞄へ入れると、靴紐が金具に引っかかった。真紀は鞄の口を広げ、紐を中へ押し込んだ。片方ぶんだけ鞄が膨らんだ。右の靴を、両手で抱え直した。
通りかかった人が二人を見た。男は客待ちの時の顔をしなかった。
真紀は財布を出すため、左腕と胸の間に靴を挟んだ。爪先は外へ向けなかった。
「今日は、いいです」
男が言った。
「磨いてもらった分だけ」
真紀が答えると、男は首を振った。真紀は開いた財布を閉じた。取り出しかけた紙幣の端を、爪で中へ押し戻した。
財布をしまったら、指に黒い艶が移っていた。
男は自分の指を見ていた。布で拭かず、一本ずつ広げた。
「誰か呼びます」
真紀が言うと、男は頷いた。百貨店の入口なら、人がいた。けれど真紀はまだ、そちらへ歩かなかった。遠くに聞こえていた靴音が消えていた。
靴の目は閉じていた。男の右手は、道具箱の上で止まっていた。
「その手、動かさないで」
真紀は言った。何が起きるか知っているわけではなかった。布を追っていた黒い丸を、もう一度見たくなかった。
男は手を下ろさず、真紀を見た。真紀は彼の顔を見てから、自分の抱えた靴を少し上へ持ち直した。
指に触れている革の内側で、こつん、と一歩ぶんの振動があった。耳には何も聞こえなかった。男は手を止めたままだった。真紀は靴を落とさず、爪先を男から遠い方へ向けた。


コメント