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目を開けたモデル

春菜が一番気にしていたのは、座ったまま眠ってしまうことだった。夜の人物画教室で、モデルの代役を頼まれた。専門の仕事ではない。受付をしている友人から、一回だけ、服は普段着のままでいいから、と頼まれて引き受けた。

会場は市民会館の小さな美術室だった。受講者は六人。皆、春菜より年上で、道具の手入れも身のこなしも落ち着いていた。講師の藤方は七十代の痩せた男性で、友人が昔から習っている先生だった。
「目線は自由でいいです。顔を大きく動かさなければ」
中央の椅子に座ると、藤方はそう説明した。春菜は正面の壁時計を見ることにした。十五分座り、五分休む。それを四回。仕事帰りの副業としては、悪い条件ではなかった。

一回目が終わり、椅子から立つと、膝が少し痛かった。六人は気さくに、腰を回すといいですよ、と声をかけた。白髪の女性が水をくれた。春菜は礼を言い、その人の画用紙を見た。
青いシャツを着た自分が描かれていた。思ったより肩が狭かった。目は閉じられていた。
「あ、私、目をつぶってました?」
女性は春菜の顔と絵を見比べた。
「少し、そんな感じだったかしら」
春菜は慌てて謝った。時計を見ていたつもりなのに、疲れて瞼が落ちていたのかもしれなかった。

二回目は、時計の秒針を追った。右へ下がり、左へ上がる細い針を、何周も目でなぞった。受講者の鉛筆の音が重なった。自分を見ている人の視線には、それほど嫌な感じがしなかった。皆、顔を見る時は短く、描く時は長く下を向いた。
藤方は入口近くに座っていた。手には何も持っていない。春菜を眺め、たまに誰かの絵へ視線を落とした。

休憩に入ると、春菜は一番近い男性の絵を見た。やはり目は閉じていた。男性は線を直そうとして、春菜に気づいた。
「難しいでしょう。じっとしてるのも」
「眠ってましたか、私」
「いいえ」
男性は即座に答えた。それから、何か言い足そうとしたが、紙を少し斜めにした。春菜には、見せたくないのだと分かった。

ほかの四人の絵も、目を閉じていた。顔の形や髪の長さは違っていたが、瞼の線だけはよく似ていた。目尻が下がり、左右で高さの違う、薄い線。春菜は受付にいる友人の紗江を捜した。美術室の外には誰もいなかった。受付は一階で、終わったら呼びに行く約束だった。
「先生、少しいいですか」
藤方へ声をかけると、彼は春菜の後ろを見た。
「はい、もう一回いきましょう」

椅子へ戻るしかない雰囲気だった。けれど座る前に、春菜はもう一度言った。
「皆さん、目を閉じて描いていらっしゃるんですけど」
受講者が一斉に動きを止めた。
藤方は笑わなかった。
「そう見えるなら、それでいいんです」
誰に答えているのか分からない口調だった。春菜は、分かりました、と言い、座った。絵のことは知らない。形を正確に写すだけの教室ではないのだろう。

三回目、時計の下に人が立っていた。最初は会館の職員だと思った。灰色の服を着た、小柄な女性。藤方の椅子のすぐ後ろで、両手を前に重ねていた。
春菜はその人の顔を見た。知らない顔だった。年を取っているが、藤方よりは若そうだった。目を見開き、春菜をじっと見ていた。目の周りだけが赤く、泣いた後に見えた。

藤方は気づいていないらしかった。受講者も声をかけない。教室の関係者が様子を見ているだけなら、モデルから挨拶しなくてもいい。春菜はそう思い、時計へ視線を戻した。
秒針が、女性の頭の後ろで見えなくなった。女性は少しずつ近づいていた。足を運ぶところは見ていなかった。藤方の椅子を避けず、肩のすぐ後ろまで来た。

春菜の目に、女性と藤方の顔が同時に入った。二つの顔の目元が似ていた。親族だろうか。それでも、誰も話しかけないのは不自然だった。春菜が息を吸うと、藤方が手を上げた。
「顎、下げないで」
注意されたのだと分かり、息を吐いた。その音に合わせて、女性が口を開けた。声は出なかった。

白髪の受講者が、鉛筆を床へ落とした。拾おうとしない。右手は、空のまま紙の上を動いていた。
春菜は立った。
「鉛筆が」
途端に、隣の男性が椅子を引いて立ち上がった。春菜を止めるのかと思ったが、男性は白髪の女性の前へ膝をついた。
「小池さん。ちょっと休もう」
その背中の向こうで、小池さんの目が閉じていた。

受講者のうち、ほかの二人も目を閉じていた。それでも手は止まらず、鉛筆の先が紙を擦っていた。春菜は床の鉛筆を拾い、小池さんの鞄の上へ置いた。近くで見ると、絵の顔は自分に似ていなかった。もっと痩せた、歳の分からない女性の顔だった。目尻が下がり、左右で高さの違う瞼が描かれていた。

藤方の後ろの女性が、急に息を吐いた。あまりに近く聞こえて、春菜は振り返った。女性は同じところにいた。藤方の頭へ顎を載せそうなほど、顔を寄せていた。
「先生、後ろの方」
春菜が言うと、藤方はようやく立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう」
彼は振り向かなかった。

男性が小池さんの肩を叩いた。小池さんは目を開き、何度か瞬きをした。ほかの二人も、それぞれ鞄から眼鏡を出したり、鉛筆を片付けたりし始めた。眠っていたのを起こされたような慌て方はしなかった。
春菜は中央の椅子へ戻らず、壁際から自分の荷物を取った。
「先生のお知り合いですか」
女性を指すつもりで顔を向けた。誰もいなかった。時計の秒針が、また全部見えていた。

藤方は受講者へ作品を持ち帰るように言った。いつもは教室に置いて帰るのだろう。小池さんが、大きい袋を持っていない、と困った顔をした。藤方は備え付けの新聞紙を渡し、自分は片付けにかかった。彼が使う席には、古い木炭画が一枚あった。裏を向けて、床へ立て掛けていた。
春菜はその絵の角に、灰色の髪が挟まっているのを見た。長い一本が、額縁の外で揺れていた。窓は閉じられていた。

紗江を呼びに一階へ降りると、友人は受付で電話中だった。春菜を見ると片手を上げ、受話器を置いた。
「もう終わり? あと一回あったよね」
春菜はモデルの仕事が中断したことと、皆が目を閉じたことを話した。灰色の服の女性については、うまく話せなかった。紗江は困った顔をし、藤方へ確かめに行った。

春菜も一緒に戻った。美術室に残っていたのは藤方だけだった。何かを椅子へ座らせるように両手を伸ばし、空中で止めていた。二人が入ると手を下ろし、謝礼の封筒を渡した。
「モデルさん、助かりました」
春菜は礼を言わなかった。あの女性を見たかと訊いた。藤方は封筒を持った春菜の手を見ていた。
「先生」
紗江が呼びかけると、彼はようやく顔を上げた。
「次は、いつもの方にお願いできますか」
春菜は、今後は代役を引き受けられません、と伝えた。

一階へ戻ってから、紗江は言いづらそうに話した。いつものモデルは、長く藤方の作品に描かれてきた女性で、今は病院にいる。今回、初めて別の人に来てもらったのだという。
「似たような構図ばかり描いてると、手が覚えてるのかもしれない」
紗江は皆が目を閉じたことについて、疲れていたのだろうと言った。春菜も、そうだね、と答えた。謝礼は減らされていなかった。仕事は終わっていた。

外へ出ると、もう暗かった。小池さんと、その肩を叩いて起こした男性が、会館の階段の下にいた。帰らず待っていたらしかった。
「さっきは、ありがとう」
小池さんは丁寧に頭を下げた。新聞紙で包んだ絵を胸へ抱えていた。春菜が体調を尋ねると、女性は大丈夫だと言った。
「今日は、あなたがずっと目を開けていたから」

春菜は、どういう意味か訊いた。小池さんは男性を見た。男性は会館の窓を見上げていた。
「描いている時は、顔を見てるつもりなんです。だけど、紙を見ると、いつもの顔になっていて」
小池さんは自分の瞼へ指を当てた。
「閉じた目しか、描いたことがないから。開いたところを見ても、よく分からないの」
春菜は腕に鳥肌が立つのを感じた。彼女たちは、誰の顔のことを話しているのだろう。

男性が春菜へ訊いた。
「先生のほうを見てましたか、その人」
春菜は首を振った。小池さんが新聞紙を抱え直した。三人とも、しばらく何も言わなかった。会館の二階で、蛍光灯が一列だけ消えた。

春菜は二度とモデルを引き受けなかった。紗江とも、その夜の話はしていない。だが、あの人が入院中のモデルだったとは思っていない。教室の案内に載っていた写真を、あとから見た。いつものモデルは若く、髪も短い女性だった。閉じた目の形も違っていた。

藤方の後ろに立っていた人は、春菜のことを見ていた。
絵を描く人が、次の一本の線を決める時のように、瞬きもせずに。

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