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花を持たない人

その客を最初に見た時、私は、花を落とさないでほしいと思った。
店の前に立つ背の高い老人が、白い花束を抱えていた。包装紙はなく、茎を胸へ寄せ、両腕でぎこちなく支えていた。風が吹くたびに上の花が揺れた。老人の足元には、カラスが三羽いた。どれも鳴かず、少しずつ距離を詰めていた。

花店へ勤めて四年目の春だった。近所の葬祭会館へ納める花の注文が重なり、その日は朝から忙しかった。店長が配達へ出て、私と安西さんが残っていた。安西さんは私より二年先輩で、手が早い。私の仕事が遅れても急かさず、何が残ってる、と訊いて半分持っていってくれる人だった。

老人は自動扉の前まで来たが、中へ入らなかった。安西さんが出ていった。
「何かお探しですか」
返事は聞こえなかった。老人は花束を少し持ち上げた。安西さんがこちらを振り向いた。
「椅子、出してあげて」
具合が悪いのだと思った。私は作業用の椅子を運び、店先へ置いた。老人は座らず、安西さんの顔を見ていた。

「お花、こちらへ置きましょうか」
私が言うと、安西さんは、何、と訊き返した。老人の胸を指したが、先輩は首を傾げただけだった。その間にも、カラスが店先の鉢へ飛び乗った。鉢が倒れそうになり、私は追い払った。鳥はすぐには逃げなかった。老人の靴へ嘴を向け、喉だけを動かしていた。

安西さんが老人の前へ両手を出した。
「じゃあ、私が持ちます」
老人の腕がゆっくり伸びた。安西さんも花束を受けた。私はそう見た。白い花に隠れて、先輩の顔が見えなくなった。
老人は背を伸ばした。それまで上着に包まれて見えなかった首が現れた。喉元に、大きな絆創膏のような白いものが貼られていた。老人はそれを指で撫で、店を離れた。カラスが三羽とも、先に飛び立った。

安西さんは店へ戻り、手を洗った。花束はどこにもなかった。私はどこへ置いたのか訊いた。
「何も持ってなかったよ、あの人」
「受け取ったじゃないですか」
「手を貸してってことかと思った。立ちくらみか何かで」
安西さんは蛇口を閉めた。左手の親指の付け根に、細い赤い筋がついていた。花の茎で擦った時にできる傷に似ていた。

昼前、最初の配達から店長が戻った。私たちは店を任せ、葬祭会館への追加分を二人で運んだ。車で十分ほどの距離だが、設置を手伝う約束があった。安西さんが運転し、私は助手席で次の注文を確認していた。
信号が青になっても、車は動かなかった。先輩は真っすぐ前を向いていた。私は、青ですよ、と言った。彼女は瞬きをし、ゆっくり車を出した。
「道、間違えそうになった」
この道で間違えることはない。私は前方を見た。次の角に、喪服の人が四人立っていた。全員がこちらへ頭を下げた。車の社名を見たのだろうと思った。

会館の裏へ着くと、担当の男性が荷物を受け取りに来た。安西さんが車から降りた時、その人が一歩後ろへ下がった。私に目を向け、今日はお一人ですか、と訊いた。
安西さんは隣にいた。
「二人です」
そう答えると、男性はようやく先輩を見た。
「失礼しました。こちらへ」
安西さんは気にしていない様子で、花の入った箱を持ち上げた。持ち手に指を入れず、箱の底を両腕で抱えていた。店先で老人がしていたのと同じ持ち方だった。

供花を置く場所は、式場の横にある控室だった。開式までには時間があった。係の人が椅子を並べ、床の小さな屑を拾っていた。
私が花を整えている間、安西さんは廊下へ出た。少しして、誰かが泣く声が聞こえた。式場なのだから不思議はない。それでも、安西さんの名前が聞こえた気がして、手を止めた。

廊下の端に、先輩が立っていた。前には喪服の女がいた。年齢は分からない。両手で顔を覆い、頭を振っていた。安西さんは、困ったように小さく笑っていた。
私が近づくと、女は顔を隠したまま壁沿いに歩き、式場へ入った。
「知ってる人ですか」
先輩は首を振った。
「お疲れさまでしたって、言われた」
「会館の人じゃなくて?」
「ありがとうって。今まで、よくしてもらったからって」

安西さんは、疲れている人には誰かの顔が重なることもあるよね、と言った。それから私の鋏を借り、短すぎる茎を一本抜いた。いつもの先輩だった。私は安心しかけたが、先輩が作業台へ置いた左手に、花の影があるのを見た。近くに花はなかった。細い葉の影が、指を覆うように揺れていた。

帰ろうとすると、正面玄関に老人がいた。花店へ来た客だった。さっきより上着が体に合って見えた。喪服の人たちの間を歩き、誰にも呼び止められず外へ出ていった。
私は追いかけた。老人は駐車場で立ち止まり、車の鍵を探していた。
「今朝、うちの店へ来ましたよね」
老人は私を見た。黒目が小さく、目の縁が濡れていた。
「今朝、あの人に何を持たせたんですか」
老人は答えなかった。私は店の場所と安西さんの服装を説明した。花という言葉をもう一度口にすると、老人は初めて顔を動かした。会館の入口へ、ほんの一瞬だけ目を向けた。

老人はゆっくり、空の両手を見せた。
爪の根元に土が入っていた。喉の白い貼り物はなくなっていた。その場所に、四角く肌の色の違う部分が残っていた。
老人は車へ乗った。運転席の窓を開け、こちらへ少し会釈した。
「もう、持てますから」
何を、と訊く前に、車は動いた。助手席には誰もいなかった。後部座席に白い花束が一つ、立てて置かれていた。

会館へ戻ると、安西さんがいなかった。私たちの車の鍵は、控室の机へ置いてあった。担当者に尋ねると、手洗いでは、と言われた。トイレにも休憩室にもいなかった。
電話をかけると、式場の中で着信音がした。私は入口で立ち止まった。正面の祭壇の前に、安西さんが座っていた。背中が見えた。空の両腕を胸へ寄せ、少し俯いていた。

名前を呼ぶと、参列者が一斉に振り向いた。安西さんだけは動かなかった。私は会館の人を呼び、同僚を連れ出したいと伝えた。
「お花の方は、裏からお願いします」
言い方は丁寧だった。私はもう一度、安西さんを指した。担当者の目が、私の指の先を追った。
「どちらに」
そこには誰も座っていなかった。折り畳み椅子もなかった。祭壇の前には、白い花が置かれていた。

私は式場へ入りかけ、係の人に止められた。店長へ電話し、安西さんが見つからないと話した。店長はすぐ来た。私の思い込みや、安西さんが体調を崩して帰った可能性も含め、皆で探した。先輩の家へ連絡が取れたが、戻っていなかった。携帯は控室の、花を入れてきた空箱の底にあった。

夕方、警察が来た。会館のカメラを確認してもらうと、安西さんが裏から入った姿はあった。私が老人を追って正面へ出た姿もあった。その後、先輩が外へ出るところは見つからなかったという。私は花束の話も、老人の話もした。分からないことを、分かったようには話せなかった。何度も、私にはそう見えた、と繰り返した。

安西さんは今も見つかっていない。店長はしばらく先輩の分の勤務を残し、私には休むよう言った。私は一週間休んで、店へ戻った。家で何もしない時間には、式場の入口に立っていた自分ばかり思い出した。あの時、誰が止めようと中へ入るべきだったのか。入って、どこを掴めばよかったのか。それは考えても分からなかった。

初夏になって、会館から店へ小さな箱が届いた。式場の花台を修理した時、下に落ちていたという。安西さんの腕時計だった。店長が家族へ渡す前に、私へ見せた。革のベルトには、乾いた茎のようなものが一本挟まっていた。私はそれに触らなかった。

その月の終わり、老人がまた店へ来た。
私は声が出なかった。老人は濃い色の上着を着て、入口から売場を見回した。両手は空いていた。逃がしてはいけないと思い、作業台の下で携帯を掴んだ。店長が奥から出てきた。
「お花をお探しですか」
老人は首を振った。私を見たあと、空いている作業台へ目を移した。安西さんが使っていた場所だった。

「持たせる人が、いなくなりましたか」
店長が聞き返した。私は携帯を握ったまま、老人の足元を見た。
白い花びらが、靴の周りへゆっくり落ちていた。老人は何も持っていなかった。入口の外では、カラスが一羽、こちらを向いて嘴を開けていた。

奥から、私の鋏を借りる声がした。安西さんの声だった。
老人はその声を聞くと、ほっとした顔で、店の中へ入ってきた。

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