「杭だけ見といてください。向こうの山は、いいです」
助手の小関にそう言ったのは私だった。あとになって彼から何度も言われた。あんたが見るなと言ったから、見なかったんだ、と。
山林を売るための境界確認だった。斜面の途中に古い杭が三本残り、その間を測ればよかった。依頼主の新井さんは、八十近い母親から山を引き継いだ女性で、東京で小さな洋品店をやっていた。手放すことに迷いはないと言ったが、見積りの紙を折る手つきは、ずいぶん慎重だった。
小関は学生時代の後輩で、普段は別の会社にいた。人手が足りず、一日だけ手伝ってもらった。互いの会社の愚痴を言えるほど親しくはないが、昼の弁当をどちらが買うかで遠慮することもなかった。朝、彼は沢沿いの道で車を止め、これ帰りに釣れますね、と言った。仕事が早く終われば見ていこうと答えた。
一番目の杭は、道端の草に隠れていた。苔を落とすと古い刻みがあり、新井さんが持ってきた図面と合った。二番目は杉の林に入って五十メートルほど先だ。そこまで問題はなかった。三番目へ向かう途中、小関が対岸の尾根を指した。
「あそこ、さっき崩れてました?」
赤い地肌が見えていた。私は朝そこを見た覚えがなく、分からないと答えた。
小関が測るための目標を持って三番目の杭へ立ち、私が二番目から覗いた。彼のすぐ後ろに赤い崖があった。肉眼では沢を挟んだ向こう側なのに、機械を通すと肩が触れそうに見える。距離を確認し、向きを直した。小関の横の杉は、幹の傷まで朝と同じだった。崖だけが近づいていた。
測量機械を離れると、いつもの谷に戻った。私は目を揉んだ。午前の光で遠近が狂うのだろう。仕事を止めるほどの理由とは思わなかった。小関が、こっちですか、と目標を持ち直した。私は少し待ってと言い、立てた脚を確かめた。地面へ沈んだ様子はない。
私が位置を移すあいだ、新井さんは古い杭へ手を置いていた。母親は山を売ることを知っているのかと聞くと、もちろん、と答えた。けれど杭を新しくするなと念を押されたらしい。
「昔からあるから、残してくれって。今なら番号つけたりするんでしょう」
彼女はそう言って、杭に巻いてあった古い針金を指した。私は必要な箇所だけ整えると答えた。
小関が呼んだ。彼は三番目の杭の脇で、目標を下ろしていた。
「ここから、海が見えます」
私は笑った。海までは車でも三時間かかる。間には、今いる山より高い山が幾つもあった。霧が谷へ溜まったのだと言うと、小関は首を振った。青い、波がある、と言った。
彼の場所へ行くと、確かに海が見えた。木の間に細長く、光の反射する水面があった。白い波が寄せ、遠くに黒い舟が二隻浮いていた。私は携帯を出した。画面には山が写った。撮っても同じだった。顔を上げれば、水面に舟がいる。小関が私を見る。私は何も言えず、もう一度画面を見た。
新井さんも来た。海を見せると、彼女は驚いたが、すぐ足元を見た。
「母は、そこに田んぼがあったって言ってました」
谷が深く、水田を作れるようには見えなかった。誰が耕した田なのか聞くと、分からないという。母親は山を見に行くたび、田の持主へ挨拶したがった。新井さんは、もう誰も住んでないから、と車を止めずに通り過ぎていたそうだ。
私は新井さんに車へ戻ってもらった。小関へは、変な景色のことは帰ってから考えようと言った。自分がそうしたかった。古い図面の通りに杭があり、数字さえ取れば仕事が終わる。小関はもう一度あの水面を見て、わかりました、と答えた。
二番目の杭へ戻ると、そこから谷を下るはずの道がなかった。倒れた枝をまたいだ箇所までは覚えていた。先は一面の草だった。新井さんが車へ行く道はもっと上だったので、私は下へ踏み込まず、元の位置へ機械を据えた。
そこからは、小関の姿が細く見えた。
目標を立てた腕と顔が、縦に引き延ばされているのかと思った。服の横幅だけが狭い。背景の杉も細く、枝がほとんど見えなくなっていた。私は機械から顔を離し、小関を呼んだ。肉眼では普通の姿だったが、彼は片手で胸を押さえていた。
「息、吸いにくいんです」
私はその場から動かなくていいと言った。彼をこちらへ歩かせてよいか分からなかった。
覗き直すと、赤い崖が小関の横を通っていた。崖そのものが横へ滑り、向こうから真っ黒な林が出てきた。小関の立っている杭も、手前の杉も動かない。遠い景色だけが、何枚も重ねた紙を抜くように動いていた。私は思わず機械を左へ振った。
小関が叫んだ。見ていた場所にもう体はなく、目標の棒だけが地面へ刺さっていた。私は走った。谷から風が吹き、濡れた砂の匂いがした。彼が立っていた杉の根元に、右手があった。落ちているのではない。地面と幹のあいだから、掌だけをこちらへ向けていた。
私はしゃがみ、その手を取った。小関の顔が幹の横から出た。薄かった。横向きの顔を正面から見るような、不自然な幅だった。
「見えてる?」
私はうなずいた。
「こっちには、誰もいない」
彼は泣いていなかった。体を動かそうとするたび、苦しそうに短く息を吐いた。
引いても出てこない。腕を曲げるだけの幅が、杉と空のあいだになかった。私は手を離さず、機械の置いてある方を見た。レンズがこちらを向いていた。彼の薄い体を、あそこから見ていた。私は小関へ手を離すと伝えた。彼が嫌だと言うのは分かっていた。
「誰も行かせないで」
彼は私に、そう頼んだ。
走って戻り、レンズを覆った。いつも使う布の袋を上からかぶせ、向きも下げた。杉の下で小関が倒れた。私はもう覗かなかった。計器の数字も読まず、彼のところへ行った。服の横幅は戻っていた。小関は腹這いになり、両手で地面を叩いていた。
「ここ、動かないですよね」
私は彼の肩へ手を置き、動かないと答えた。自分の手には、小さな横揺れが伝わっていた。
彼を上の道まで連れていった。新井さんが途中まで迎えに来て、携帯を差し出した。母親とつながっているという。私は受け取らず、まず下山すると伝えた。小関は携帯を取り、お宅の山、何があるんですか、と言った。それから長く黙り、はい、いいえと二、三回答えて電話を返した。
「何て」
「杭は動かすなって」
それだけだった。どこにでもある注意にも聞こえた。母親が知っているのか、それさえ分からなかった。私は機械を畳み、二番目と三番目を結ぶ測定欄を空けたままにした。
新井さんは中止の理由を聞いた。後日また来られるなら日当を払う、と言ったが、私は断った。安全に確認できない場所がある。今の形では境界を証明できない。口にできたのはそれだけだった。彼女は困った顔になり、私たちが見た海については訊かなかった。
帰りの車で、小関が靴を脱いだ。白い砂が床へ落ちた。爪の間にも同じ砂が詰まっていた。病院では、胸の圧迫感と擦り傷を診てもらった。服に引っかけた跡があったので、木の間に挟まったのかと聞かれた。小関は、そうです、と答えた。
一週間して、新井さんから電話が来た。母親は山を売らなくてもいいと言ったらしい。ただ、私の記録にある谷の名が分からないという。古い図面にも載っていない。送られてきた図面には、なだらかな斜面が一続きに描かれていた。私の手元の写しも同じだった。沢沿いに車を止めて、魚の話をした谷がどこにもなかった。
小関に連絡すると、その谷は覚えていると言った。ほっとした私へ、彼は間を置いて尋ねた。
「本当に、覗くのやめました?」
やめたと答えた。もうあの現場を測らないし、誰にも代わりを頼まない。
「そうですか」
彼は納得した声ではなかった。
新井さんの土地は、まだ売れていない。私は空白のままの測定記録を封筒に入れた。知らない谷を一つ描いてしまえば仕事を終えられたかもしれないが、あそこへ線を通す気にはならなかった。自分の見た風景へ、小関をもう一度立たせることになる。
先月、彼と昼飯を食べた。店のガラス越しに、向かいの駐車場が見えた。小関は壁側の席へ移ってもいいかと聞いた。私はすぐ席を替わった。箸袋を破る彼の手から、白い砂が一粒落ちた。彼はそれを指でつまみ、窓を見ずに、紙の中へ折り込んだ。


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