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風のない売場

店の外では雨が降っているのだと、その人は言った。
私は入口のガラスを見た。歩道は白く乾き、向かいの自転車屋の主人が店先で打ち水をしていた。七月の、風もない午後だった。
客は濡れていなかった。ただ、畳んだ傘を大事そうに両手で持ち、しばらく置かせてもらえますか、と私に頼んだ。私は傘立てを指した。客はそこへ何も入れず、両手を下ろした。

布地を売る店で、短期の手伝いをしていた。縫い物が好きで、以前から客として通っていた店だった。店主の岩瀬さんが手術のあとで重い反物を運べなくなり、知り合いに人を頼んでいた。
私は切る作業には慣れていなかったが、巻いた布を持ち上げ、棚へ戻すことならできた。岩瀬さんは、長いこと一人でやってきたから助かる、と言った。頼りにされているのが嬉しかった。

雨の話をした客は、薄い緑の綿を買った。何を縫うのか訊くと、寝間着にする、と答えた。会話は普通だった。私が会計をしようとすると、岩瀬さんが奥から来て代わった。
「帰り、足元に気をつけて」
彼女はそう言った。客は頷き、傘立てに手を伸ばし、何も持たずに店を出た。自動扉の向こうで、片手を頭上へ上げた。そのまま、雨を避けるような小さな歩幅で駅のほうへ歩いた。

岩瀬さんは売れた布の切れ端を捨てていた。
「あの方、傘を忘れてませんか」
「持って帰ったと思うけど」
私はそれ以上言わなかった。見えない物を手にする人の話を、働き始めたばかりの店でするのは気が引けた。私が傘立てを確認している間に、次の客が来た。

その人は夏なのに厚い上着を着ていた。首へ小さな布を巻き、入口でしばらく足踏みをした。
「今日は、すごいね」
私は暑いですね、と返した。客は一瞬だけ黙り、それから、そうだね、と言った。岩瀬さんがこちらを見た。私は何か間違えたらしかった。
客の靴には、白い粒がついていた。砂糖のような細かいものが、床へ落ちる前に消えた。

閉店前、入口の軒先へ吊るした布を取り込んだ。店では季節ごとに大きな一枚を掛け、通りを歩く人にも色が見えるようにしていた。その日は濃い青だった。
外へ出た私の顔に、冷たい風が当たった。ほんの一瞬だった。布の上の端を外すと、熱い空気に戻った。隣の店の旗は動いていなかった。青い布だけが、下から押されるように膨らんでいた。

私は縫い目のほつれを見つけた。岩瀬さんへ渡すと、彼女は直さなくていいと言った。
「明日は別のを出そう」
選んだのは、薄い茶色の布だった。私は青いほうが目立つと思ったが、口に出さなかった。

翌日、店の前に五、六人が立っていた。開店前から並ぶ店ではない。バーゲンの予定もなかった。皆、入口の上を見ていた。年齢も服もばらばらだった。薄着の人も、冬の帽子を被った人もいた。
私が鍵を開けようと近づくと、全員が道を空けた。
「今日は出ないんですか」
男の一人に訊かれた。
「何がでしょう」
男は岩瀬さん、と言った。彼女ならあとから来ると答えると、全員が少し後ろへ下がった。待っているというより、近づきたくない場所を見張っているようだった。

岩瀬さんが来た時には、誰もいなくなっていた。私はその話をした。彼女は入口の上を見てから、昨日の青を出して、と言った。
「ほつれてますよ」
「今日は、それでいい」
私は脚立へ上り、青い布を掛けた。指に細かい砂がついた。床へ置いていたわけでもないのに、縫い代の中に灰色の粒が溜まっていた。

昼過ぎ、よく来る年配の客が窓辺で布を見比べた。生成りと白を重ね、光へ透かしていた。
「ここの通り、だいぶ変わりましたね」
客に言われ、私は駅前の工事のことだと思った。舗装も新しくなった、と答えた。
「あの川も、なくなっちゃったのね」
私は言葉に詰まった。店の前には片側一車線の道路がある。この町で二十年以上暮らしているが、そこに川があったとは知らなかった。
「橋のあたり、まだ臭います?」
岩瀬さんが奥から、今日は大丈夫、と答えた。

客が帰ってから、昔は川だったのですかと訊いた。岩瀬さんは手を止めた。
「ここは、ずっと道路だよ」
「さっき、橋って」
「聞こえたことを、全部拾わなくていい」
初めて、少し強い口調で言われた。私は謝り、棚を整理した。古い店には、客に合わせて話をする事情もあるのだろう。そう考えたかった。

夕方、岩瀬さんが隣の薬局へ行っている間に、若い女が入ってきた。抱えた紙袋から、裁ちかけの布を出した。青い花柄だった。柄の向きを間違えたので、あと少し買いたいという。
私は同じ反物を探した。棚にはなかった。以前の商品かもしれないと伝えると、女は昨日ここで買ったと言った。私は昨日、一日中いた。青い花柄を売った覚えはなかった。
「お店、違いませんか」
女は困った顔をした。
「ほかには、ないんです」

店の名を確かめると、合っていた。私は謝り、岩瀬さんが戻るまで待ってもらった。女は入口のガラス越しに外を見た。顔色が変わった。
「橋が」
私は振り向いた。道路の向こうに、自転車屋の主人が立っていた。こちらを見て、手を振っていた。ほかには何も見えなかった。
女は店の奥へ下がった。
「今、渡れない」
その声を聞いて、私は入口へ走った。

扉が開くと、向かいの自転車屋がなかった。低い石垣と、黒い水が見えた。水はすぐ下を流れていた。道路と歩道の幅が丸ごと消え、狭い板の上へ一歩出かけていた。
私は入口の枠を掴んだ。水の向こうには人が並んでいた。朝の人たちだった。皆、私の頭上を見ていた。店先の青い布が、風のないまま、ゆっくり持ち上がった。
石垣の上から、黒い水が筋になって落ちていた。上流からではなく、人々の立つ足元から流れ込んでいた。

後ろから岩瀬さんに腕を掴まれた。私が店へ戻ると、外はまた普通の道路だった。彼女の手には薬局の袋があった。青信号になり、自転車が一台通った。
「顔、真っ白だよ」
私は外を指さした。川が見えた、と言った。岩瀬さんは入口から通りを見たあと、扉を閉めた。女はまだ店の奥にいた。
「帰れるの、待ってるんです」
女がそう言うと、岩瀬さんは小さく頷いた。

私は店の奥から、自分の携帯で母へ電話した。迎えに来てほしかった。母は買い物の途中で、十分ほどで来られると言った。岩瀬さんは、今日は帰っていい、と言った。
待っている間、女に出身を訊いた。知らない町の名だった。聞き返すと、女は同じ音を繰り返した。私は携帯へ打ち込もうとして、漢字を尋ねた。
「書かないんです」
女は笑わずに言った。岩瀬さんが奥から青い花柄を持ってきた。私の探した棚にはなかった反物だった。

母が来た時、女はまだ布を抱えて座っていた。母は入口で私の名を呼び、岩瀬さんへ挨拶をした。私は母の顔を見て、泣きたくなるほど安心した。
「向かい、自転車屋だよね」
歩道へ出る前に確かめた。母は驚いて、そうだよ、と言った。私は母と一緒に扉を出た。乾いた舗道を、靴の裏で二度踏んだ。
振り返ると、女がガラスの向こうから私を見ていた。こちらに来られない人の顔だった。

そのまま手伝いを辞めた。岩瀬さんは給料を振り込み、気にしなくていいという短い連絡をくれた。私は店の悪い噂を誰にも話していない。母には熱中症かもしれないと言われ、自分でもその可能性を考えた。ただ、青い布が揺れるところを思い出すと、腕を掴まれた感触まで戻ってきた。

秋に、店の前を通った。岩瀬さんは普通に営業していた。入口には茶色い布が掛かり、自転車屋の主人が道の向こうから声をかけていた。私は足を止めずに通るつもりだった。
中から、あの若い女が出てきた。
手には、出来上がった青い花柄の服を持っていた。彼女は私に気づき、あ、と言った。何か言いたそうだったが、私の後ろを見ると口をつぐんだ。

「帰れましたか」
私が訊くと、女は頷いた。向かいの自転車屋を見ていた。
「そちらも、今日は道があるんですね」
女はそう言って、私の来たほうへ歩いていった。

私は振り返れなかった。青い花柄が角を曲がるまで、岩瀬さんの店のガラスを見ていた。
映り込んだ通りで、人が何人も、私と同じように店を見上げていた。
足元だけが、水の下にあった。

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