凧糸を切ったことを、甥は今でも私に言う。
思い出して泣くとか、怒鳴るとかではない。私が結んだ荷物の紐を見て、ちゃんとできるんだ、と言う。そのくらいのことだ。そう言われるたびに、私は紐の端をもう一度引っ張る。
悠斗を海へ連れていったのは、あの子が九歳の春だった。姉が休日に試験を受けることになり、半日だけ預かった。昼は好きなものを食べさせていいと言われていたし、悠斗も楽しみにしていたらしい。私は、頼まれると断れない叔父のつもりでいた。実際には、前の日まで何をして遊ぶか考えもせず、当日の朝、子供が来る前に起きられただけで用を果たした気になっていた。
悠斗は、細長い袋を持ってきた。
「これ、揚げて」
中身は、学校で作った凧だった。白い袋を開いて、細い竹を貼ってある。絵は黒い恐竜で、目と歯だけが赤かった。凧糸を巻いた板には、鉛筆で悠斗の名前が書いてあった。
私は近くの公園でいいだろうと言ったが、悠斗は、木があるから駄目だと言った。担任に聞いた注意を、最後まで繰り返した。
そこで、車で四十分ほどの浜へ行った。
海水浴にはまだ早く、砂浜には犬を連れた人や、散歩をする夫婦がいた。堤防の近くでは私たちと同じように凧を揚げている人が、何組もいる。大きな三角形の凧を高く上げた男が、折り畳み椅子に座って本を読んでいた。
悠斗はその凧を見て、自分の袋を抱え直した。私は、あんな所まで上げなくてもいいんだからな、と言った。子供が何も言う前から、できない時の言い訳をしていたのだと思う。
最初はうまくいかなかった。悠斗に糸を持たせ、私が凧を掲げて走ると、白い袋は横を向いて砂に突っ込んだ。持つところが悪いんだと言われ、ではお前がやってみろと言い返した。
二人で場所を替えても駄目だった。
悠斗は破れた隅を見て黙っていた。私は車へ戻り、工具箱にあったビニールテープを取ってきた。穴を塞いでいる間、悠斗は私の顔を見ずに、恐竜の首のところを押さえていた。
風が変わったのは、その後だった。
さっきまで浜に沿って吹いていた風が、海から真っすぐ来た。私は凧を胸の前に立て、悠斗に少しずつ糸を出せと言った。袋が張り、手を離しても落ちなかった。二人で走る必要もなかった。
凧は悠斗の頭の上を越え、堤防より高くなった。黒い恐竜は小さくなり、赤い目だけが時々こちらを向いた。悠斗が笑ったので、私はようやく、連れてきてよかったと思った。
「もっと出していい?」
板にはまだ糸が残っていた。私は、切れない程度にな、と答えた。何を基準にすれば切れないのか、自分でも分からなかった。
悠斗は板を縦にし、少しずつ糸を送り出した。空にはほかの凧がいくつもあった。魚の形や、長い尻尾をつけた四角いもの。その中で悠斗の白い凧はずいぶん頼りなかったが、落ちそうには見えなかった。
右手の方で、誰かが糸を巻き始めた。
さっき本を読んでいた男だった。立ち上がって、丸い糸巻きを忙しく回している。椅子と本はそのままで、足元の水筒が倒れていた。
男の凧には、灰色のものが引っ掛かっていた。海に漂う袋のように、風に押されて曲がっている。大きなごみを拾ったのだろうと思った。悠斗も見ていて、あのおじさん、鳥がついた、と言った。
そのうち、私たちの糸も強く引かれた。
悠斗が板を胸に抱え込んだので、私はその後ろから両端を持った。風が急に強まったのかと思ったが、足元の砂は動いていない。私の上着も、さっきと同じ程度にはためくだけだった。
「痛い?」
悠斗は首を振り、空を見た。
「あっちにも来た」
白い凧の上に、茶色いものが載っていた。
木の皮を薄く剥がしたように長く、真ん中で折れている。私は目を細めた。先に出ている二本の細いところが、風に揺れていた。その片方が曲がり、白い袋の縁をつかんだ。
指だった。
袖口から手が出ていて、袋の折り返しを、人が洗濯物を持つようにつまんでいた。
私は板を悠斗の手から取り、自分の脇へ抱えた。
「ちょっと離れていなさい」
悠斗は後ろへ下がったが、すぐに戻ってきて、私の横から見上げた。
凧に載っているのは、薄い茶色の服を着た人だった。胴が袋の上で折れ、両足が向こうへ垂れている。顔はこちらを向いていない。首の後ろから短い髪が浮いていた。
人形にしては、手の動きが細かすぎた。右手を離す前に左手でつかみ直す。そのたびに、凧の竹がしなった。
悠斗が、人がいる、と言った。
私は返事をせずに糸を巻こうとした。板を回すと、糸が掌を横切って熱くなった。力を抜いた瞬間、今まで巻いた分が全部持っていかれた。
悠斗が、手伝う、と両手を出した。
「触るな」
大きな声が出た。悠斗は腕を下ろした。私は叱りたかったわけではないと言おうとしたが、凧の上の人が首を動かしたので、そちらを見てしまった。
顔は下を向いたままだった。両腕だけが竹を離れ、糸へ伸びてきた。
片手が私たちの方へ移り、もう片方が同じ場所をつかむ。その繰り返しで、体が凧から少しずつ離れた。
足は空に残っていた。靴の片方がぶらつき、脱げた。小さな黒い点になって砂へ落ちるはずだったのに、靴はその高さに留まった。中に足が残っているように、つま先を海へ向け、ゆっくり遠ざかっていった。
私は右の男を見た。
男はしゃがんでいた。大きな凧はさらに高くなっているのに、男の手には糸の束が垂れていた。男は私に気づくと、開いたハサミを持ち上げた。それから椅子も水筒も持たずに、堤防の階段へ歩いていった。
灰色のものは、切れた糸を両手でたぐっていた。空中でたぐるたびに、体が一回、横へ揺れた。
下りてくるためにやっている、と分かった。
工具箱には、小さなハサミがあった。
私は悠斗に車の鍵を渡した。後ろの荷物の、赤い箱を取ってくるように言った。悠斗は、何に使うの、と訊いた。
「糸が手に食い込むから」
それは本当だった。右の小指の下に赤い線ができていた。
悠斗が階段へ走っていくと、私は板を両手で握り直した。糸の先にいるものがどこまで来ているのか、しばらく見なかった。
すぐ横で、砂を引っかく音がした。
見下ろすと、濡れた靴が一つあった。さっき空を流れていった靴だったかどうかは分からない。紐がほどけ、口が大きく開いている。
靴は、かかとを私に向けて動いた。波も、水の流れも来ていない場所だった。
その隣に、もう片方の靴が下りてきた。足は入っていなかった。二つとも、人が今まさに履こうとしているように、かかとの履き口を低く潰した。
私は靴を踏まないように後ずさった。
糸が斜めに引かれ、腕をまっすぐに伸ばさずにいられなかった。ようやく上を見ると、茶色の服の人は、もう凧と私の真ん中ほどまで来ていた。
体が薄かった。風に押されて腹と背中が重なり、膝が普通とは逆の方へ折れていた。
それなのに手だけは、丸い肉のついた手だった。次に糸を握る場所を探して、一度指を開く。その掌がこちらを向いた。
「取ってきたよ」
悠斗の声がした。
私は顔を上げたまま、箱からハサミを出してくれと言った。悠斗は箱を開き、小さなハサミを渡した。握った手が汗で滑った。
「切っちゃうの」
私は答えなかった。
「落ちるよ」
悠斗がそう言ったので、私は咄嗟に、凧ならまた作れる、と言った。
糸を切った時の手応えは覚えている。
張っていた一本が、刃の間で短く鳴った。腕が軽くなり、板を持った手が胸へ戻った。切れた先はすぐに持ち上がり、私から離れていった。
茶色の服の人は、その先を両手で握っていた。握っていても、体は下へ進まなかった。糸の先端を探すように指を動かし、今つかんでいるものが終わりだと分かると、顔を上げた。
口が開いていた。歯の隙間から、青い空が見えた。
悠斗は、私の手から板を取った。
空を見上げたまま、残りの糸を巻いていた。私はハサミを箱へ戻し、地面の靴がどこへ行ったのか探した。片方はまだあった。もう片方は、堤防へ続く私たちの足跡の上に載っていた。
白い凧は、さらに高い所へ流れていた。茶色の服が、風にひっくり返った。濡れた袖の先で、まだ手が糸を握っていた。
悠斗は一度も泣かなかった。
私は悠斗の肩へ手を置き、帰ろうと言った。
階段の下で、別の家族が凧を組み立てていた。父親らしい人が糸を結び、母親は小さな子の帽子をかぶせ直していた。私はその人に、風が強くなるからやめた方がいい、と言った。
男は空を見て、そうですか、と答えた。空には、まだ何枚も凧が揚がっていた。
私は、さっき手が切れたんですよと掌を見せた。それで済ませて階段を上った。
堤防の上まで行った時、悠斗が私の袖を引いた。
「落ちるって、凧のことじゃないよ」
私は分かっていると答えられなかった。大丈夫だよ、と言った。何が大丈夫なのか、悠斗も訊かなかった。
その日の昼は、約束していた店へ入った。悠斗はうどんを食べ、残った糸巻きを椅子の隣に置いた。私が車へ置いておこうと言っても、渡さなかった。
家へ送っていくと、姉が玄関で待っていた。悠斗が揚げられたよと報告すると、姉はよかったねと笑った。それから、凧はどこなの、と訊いた。
悠斗は糸巻きを見せた。
「切った」
姉は私を見た。私は風が強くなって、と説明した。
悠斗が、私の言い終わるのを待っているのが分かった。


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