父が峠の事故を見たという話を、美枝は長いこと信じていなかった。
父は小さな話を大きくする人だった。釣った魚の長さくらいなら、美枝も笑って聞けた。困るのは、本人がその場にいなかった出来事まで、自分の思い出にしてしまうことだった。近所の工場が火事になった時、閉じ込められた犬を父が助けたことになっていた。犬を連れ出したのは、たまたま通りかかった新聞配達の人だった。
ただ、峠の話は酒の席でも自分からはしなかった。テレビに山道が映ったり、車で曲がり角に差しかかったりすると、急に窓へ顔を向ける。美枝がどうしたのと訊けば、昔、車が落ちるのを見てね、と小さな声で答えるのだった。
「どんな車だったの」
「白い車。屋根の後ろに荷物があった」
「人は」
「若い女の人だな。隣に子供が座ってた。あとは知らん」
そこから先を尋ねると、話は決まって途切れた。幼い頃の美枝は、人が死んだ話をせがんだことが恥ずかしくなり、黙ったものだった。父の話を疑うようになってからも、この話だけは途中で切り上げる癖が残っていた。
母の三回忌が済んだ秋、地元の小さな新聞に、廃道になる峠の思い出を募集する記事が載った。
七十四歳になった父は、そこに電話をした。美枝に知らせたのは、記者が家を訪れる当日の朝だった。
「昼は要らん。人が来るから」
父は仏壇の前の座布団を二枚、客間へ移していた。記者一人のはずだと言いながら、どちらにも新しいカバーを掛けた。
美枝は取材が終わる頃に実家へ寄った。記者は三十代の女性で、父と並んで古い地図を覗いていた。亡くなった女の人はどのくらいの年でしたか、と訊かれ、父は四十前後と答えた。美枝の記憶では、運転手は若い女だったはずだ。
「お父さん、場所、分かるの」
口を挟むと、父は眼鏡を外して、美枝を見た。
「それを今、調べてもらってるんだ」
地図には、三本の道が引かれていた。父は真ん中の細い道を指し、それから爪を少し右へずらした。記者が鉛筆で丸をつける。美枝はその指先を見ていた。思い出の場所を示すというより、描きやすい空白を選んだように見えた。
取材が終わってから、美枝は母の古い家計簿を出した。父が事故を見たという年、二人は海辺の町で暮らしていた。父はまだ運転免許を持っていなかった。
「自転車で行った」
「そんな所まで?」
「若かったからな」
父は笑った。美枝がそれ以上言うと、今は母親もいないから何でも嘘にできる、と怒った。美枝は家計簿を閉じた。正しさを証明するためだけに、死んだ母を二人の間へ引っ張り出したくなかった。
二週間後の記事に、父の名前は載らなかった。
峠の大きな事故を調べたが、証言に該当する記録が見つからないので、今回は保留にしたい。記者からは丁寧な電話があった。美枝は父に伝える役を引き受けたが、父は案外あっさり頷いた。
「だったら、なかったんだろう」
そう言って湯飲みを洗った。その横顔を見て、美枝は責めすぎたかもしれないと思った。
変な訪問者が来たのは、その日の夕方だったという。
美枝は父から電話を受けて、実家へ向かった。父は玄関の上がり框に座り、靴を履いたまま待っていた。
「誰か、まだいるの」
父は首を振った。玄関の外には誰もいなかった。美枝が靴を脱ぐと、父が腕を伸ばして、下駄箱の上の写真立てを裏返した。母と三人で温泉に行った時の写真だった。
来たのは、小柄な女の人だった。門のところから何も言わずに父を見ているので、知り合いかと思って戸を開けた。女は敷居を越えず、靴を揃える場所をしばらく見下ろしていた。
やがて、
「お隣、子供に見えましたか」
と訊いたそうだ。
「何のことか、すぐには分からなかった」
父は美枝に言った。
「まだ、お巡りさんには話していないと答えた。そしたら、警察の話じゃありません、と」
その後は黙って立っていたという。父が戸を閉めると、ガラスの向こうに女の肩が残った。暗くなっても帰らないので、玄関の明かりを消した。しばらくして明かりをつけ直すと、もういなかった。
美枝は記者に連絡した。取材のことを知った誰かが、いたずらをしたのかと思ったのだ。記者は録音とメモを確認し、父の名前も住所も外へは出していないと言った。取材を知っているのは編集部の数人だけで、その人たちにも父の話は掲載できないと伝えてあるという。
「似た事故があった場所を、こちらでも当たっているんですけど」
記者はそう付け加えた。美枝は、もう結構ですと言いかけ、言うのをやめた。女が実在するなら、父の記憶に何か根拠があるのかもしれなかった。
その夜、美枝は実家に泊まった。父はいつもの時刻に風呂へ入り、テレビの前で眠くなった。玄関を気にする様子はなかった。ただ、客間の二枚の座布団を片づけようとすると、置いておけと言った。
「取材、終わったんでしょう」
「ああ」
「また来るって?」
父は答えなかった。美枝が顔を覗き込むと、眠ったふりをする時の、力の入ったまぶたになっていた。
翌朝、美枝は峠へ行こうと言った。自分も一緒に行き、事故があったという場所を確かめる。何もなければ、それでもいい。父は断ったが、美枝が車の鍵を持って玄関へ行くと、黙って上着を着た。
出がけに父は、写真立てを元へ戻した。美枝は女が家族の顔を見ていったのではないかと心配したが、そんなことを父に訊けば、また別の話が生まれそうで怖かった。
旧道はまだ通れた。新しい道へ入る車と分かれ、細い坂を二十分ほど上ると、木々の間に古い待避所があった。父はそこで停めてくれと言った。
「ここ?」
「もう少し先だったと思う」
父は降りて歩き始めた。足の悪い人なので、美枝は杖を取って追った。父は杖を受け取らなかった。
道は右へ緩く曲がっていた。外側に、低いコンクリートの壁が続いている。古い補修の跡はあったが、車が落ちた場所など美枝には分からなかった。父は壁の向こうを見ず、道の真ん中に立った。
「ここへ、白い車が来た」
自分たちが来た方を向いて、父は言った。
「ゆっくりだった。女の人が何か喋っていて、隣に頭が見えた」
「その頭が、子供だったのね」
父は小さく頷いた。
美枝は父の隣に立って、同じ方を見た。山の影が道を半分覆っている。
「その後、落ちるのを見たんでしょう」
「いや」
父の返事は、今までで一番はっきりしていた。
「見ていない。ここを曲がったから、見えなくなった」
美枝は父の顔を見た。
「じゃあ、どうして事故だと思ったの」
父は唇を舐めた。叱られる子供のように顎を引き、道の上を見続けていた。
「帰りに、また来たんだ。女の人が」
「車で?」
「歩いて。隣の人を、抱えてた」
父の両腕が、胸の前で丸くなった。
運転していた女は、来た道を一人で戻ってきた。両腕には、誰かの頭があった。首から下は見えなかった。子供だと思ったのは、その頭だけだったからかもしれない。女は父の前で足を止めたが、父は見ないふりをした。
「白い車の中から、こっちを見てたんだ。その人が」
父は腕を下ろした。指が上着のポケットを探り、何も出さずに離れた。
「見えましたかって、女に訊かれた。何も見てないと言って、帰った」
美枝は、その先を尋ねなかった。父がなぜ何十年も黙っていたのか、何を事故と呼び替えたのか。答えを一つずつ得れば、この道を安心して帰れるわけでもなかった。
車へ戻ろうと言うと、父はようやく杖を受け取った。
その時、坂の上で、車のドアを閉める音がした。
二人とも振り返った。
曲がり角の先から、白い車が下りてきた。美枝の軽自動車より背が低く、屋根の上に細い金属の棒が組まれていた。白い塗装には泥ひとつなかった。
運転席の女が、窓を下げた。
「こちらも、見えますか」
女は父へそう訊いた。父は壁に背中をつけ、口を閉じていた。
美枝は、助手席を見た。
父が言った通り、窓の下に小さな頭があった。座面へ沈むように低い位置にあり、顔の下半分はドアに隠れている。
髪は白かった。目元に茶色い染みがあり、左右の目が美枝を見た。子供ではなかった。ひどく年を取った人の顔だった。
女は片手を伸ばし、その頭をつかむと、窓の高さへ持ち上げた。見せるために持ち上げられた顔は、父を見ようと、女の指の中でゆっくり向きを変えた。
美枝は父の前へ出た。
「見えません」
声が裏返った。
「見えませんから、行ってください」
女の腕は、しばらくその高さにあった。父が息を吸う音がしたので、美枝はその方を見た。父は目を開けたまま、自分の唇を噛んでいた。
白い車は動き出した。二人の横を通り、待避所に停めた美枝の車も通り越して、坂を下りていった。
車の走る音が聞こえなくなっても、美枝は父の前を離れられなかった。父は壁から背中を起こし、杖の先で道を二度ついた。何かを話し始めようとしているのが分かった。美枝は先に口を開いた。
「今の人、昔から、あんな顔だったの」
父は坂の下を見ていた。
「女の人は、変わらん」
父は道を渡り、山側の日の当たる場所まで歩いた。美枝も後に続いた。父の背中が曲がったのはいつからだったか、思い出そうとした。子供の頃、夏に触ったうなじはいつも汗ばんでいた。今の父の襟足には、いくつも小さな窪みがある。
父は足を止めずに言った。
「隣の人は、若かったんだ」


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