久江は、若菜の仕事着をもう一度洗うつもりでいた。姪は二日前に洗ったと言ったが、襟を見せてもらうと、縫い目のところに白い粉が残っていた。洗剤だろうか。最後に返すものなのだから綺麗にした方がいい。そう言って洗濯袋を持ち上げると、若菜は、好きにして、と部屋の鍵を掛けた。
若菜は二十七歳で、駅前のスーパーの惣菜売場を辞めたところだった。久江が先に聞いていたのは、勤務を減らすという話だった。いつ辞めると決めたのか、姉に知らせたのか。会えば訊こうと思っていたことが幾つかあった。若菜からは、叔母さんの方からお母さんへ言わないでね、と先に頼まれた。
「心配するから」
久江が言うと、若菜は、私が言うから、と答えた。白い仕事着二枚と黒いズボンが、袋の中で固まっていた。
銭湯の隣のランドリーには、ほかに客がいなかった。土曜の午後で、ガラス戸の向こうを買物の人が通っていた。若菜は家で洗濯するつもりだったのに、と小さく言い、硬貨を数えた。久江は乾燥まで済ませれば今日返せると答え、自分の財布を出した。
「今日は返さないよ。月曜に店長がいるから」
久江は財布を開けたまま、そう、と言った。若菜が洗濯物を押し込んだ。ドラムの底は空で、銀色の穴が並んでいた。ポケットを探るために一度全部引き出していたので、それは久江も見ていた。
洗い終わるまで、二人は銭湯の前の自販機で買ったお茶を飲んだ。若菜は別の仕事を探す前に、一週間くらい休みたいと言った。久江は家で考えすぎるのもよくないと言いかけ、お茶の蓋を閉めた。姪は携帯を見ていた。眉をしかめもせず、時々、画面へ指を滑らせていた。久江がその年頃には、叔母と二人で洗濯の終わるのを待ったことなどなかった。
乾燥機の扉を開けると、中は空だった。若菜が袖をつかんでシャツを振り、濡れた物を移し始めた。久江は、そんなに引っ張ったら伸びる、と言った。
「もう着ないから」
「誰かが着るでしょう」
若菜は何も返さず、残りを入れた。機械が回り始めると、姪は今度は外へ出て、商店街の方を見ていた。久江は店内の畳み台へ腰を寄せて立った。机の端に白い粒が二つ落ちていたので、指で押し、床へ払った。
二十分後、機械が止まった。若菜が扉を開けた途端、砂がこぼれた。少し湿ったような、重い落ち方をした。黒いズボンを出すと、裾からさらに落ち、若菜の靴へ細い山ができた。
「砂、入ってた?」
久江が訊くと、若菜は首を振った。仕事場にも自分の部屋にも、こんな砂はないという。久江はズボンを受け取り、片方の裾を広げた。暖かい。乾燥機から出たばかりだから当然だったが、砂はその布より熱く感じられた。
二人は洗濯物を畳み台へ置いた。若菜は乾燥機の中を覗き、ゴムの縁に残った砂をつまんだ。顔へ近づけ、鼻を寄せた。
「いい匂い」
久江には、生臭く感じられた。海の磯よりも、魚を包んだ紙を開いた時に近い。姪は指をこすり、懐かしいような匂い、と言った。
「砂浜の?」
「違う。何だろう」
若菜は答えを見つけないまま、もう一度嗅いだ。久江は、手を洗いなさい、と言った。口へ入れそうな近づけ方だった。
砂には、透明な殻が交じっていた。久江の小指の爪より小さく、丸い粒が片側へ巻いている。貝なのか、虫の卵なのか分からなかった。光へ向けると、表面は滑らかで、中に何も入っていないように見えた。乾いて軽いと思ったのに、指から落とすと、台へ硬い音を立てた。
「これ、洗う前にはなかったよ」
若菜はシャツを広げた。胸に刺繍された店のマークを指で払うと、同じ殻がひとつ転がった。
久江は、機械の中に残っていたのだろうと言った。前の人が海へ行った服を洗ったのかもしれない。若菜は、最初、空だったじゃない、と乾燥機を指した。久江も空だったことは覚えていた。けれど、砂なら小さな穴へ入っていたかもしれない。そう説明しながら、店の連絡先を探した。壁に電話番号が貼ってあった。
携帯を取り出し、番号を押しかけたところで、若菜が久江の腕に触れた。台の端に落ちた殻から、白いものが出ていた。久江は携帯を台へ伏せ、眼鏡を掛け直した。貝なら中に身があってもおかしくはない。ところが白いものは折り畳んだ脚のようで、二度曲がった先を伸ばすと、殻からずっと離れた場所へ届いた。
久江の指より長かった。細い先が台へ触れ、引っかくように左右へ動いた。殻は転がらず、丸いままそこにあった。白い脚は、光の反射する曲面から伸びている。久江はその根元を見た。殻には、割れた線も、開いた隙間もなかった。
若菜がシャツの袖を持ち上げた。白い先が、袖口の糸を一本つかんだ。糸は少しほつれていて、久江が洗う前に切ろうとしたものだった。それが伸び、シャツが台の上を動いた。
「引っ掛かってる」
若菜は袖を軽く振った。殻の方は動かなかった。若菜がもう少し強く引くと、袖の縫い目が、端から開いた。引き抜かれた糸が白い脚へ巻きつき、殻の丸い面へ入っていった。
久江はシャツを押さえた。若菜が引っ張りすぎたと思った。だが、手のひらの下でも布はずれ続けた。殻の近くへ寄った袖口が細く畳まれ、その先が見えなくなった。透けた殻の中には、まだ何もなかった。
「放して」
若菜が言った。久江が手を離すと、袖が一度跳ねた。袖口から二十センチほどの布が、台の上からなくなっていた。残った端は破れず、細く皺を寄せて殻へ続いていた。
久江は半歩下がった。台へ置いた携帯を取ろうとして、手を止めた。別の殻にも、白いものが出ていた。脚が二本、互い違いに曲がった。両方の先が黒いズボンの腰へ触れた。布が引き寄せられると、ファスナーの金具だけが台に引っ掛かり、乾いた音を立てた。
若菜は、どうしよう、と言った。砂の匂いを嗅いでいた指を、反対の手で包んでいた。久江は、返す物なのに、と言いかけて口を閉じた。シャツを取り返したいのか、これ以上近づかないでいたいのか、自分でも決められなかった。両袖を失った仕事着の胸に、まだ店のマークが見えた。
「置いていこう」
若菜が言った。
「店には、私が話す」
久江は頷いた。姪は空の洗濯袋へ手を伸ばしたが、口をつまんだところで、それも放した。袋の底の砂から、細い白いものが立っていた。
久江の左脇で、小さな音がした。糸が切れた時の音だった。ブラウスが脇腹へ寄り、背中を引かれた。首を曲げると、左の脇腹を覆う布に、透明な殻がひとつ載っていた。畳み台の端へ腰を寄せていた場所だった。久江は指でつまもうとした。殻の横から白い脚が折れ、彼女の指の下へ潜った。
久江は手を引いた。触れられてはいなかった。それでも、指を服へ近づけられなくなった。殻はブラウスに留まり、そこから伸びた細いものが、脇の縫い目へ先を差し込んでいた。糸が抜けるたび、布が小さく跳ねた。皮膚へ痛みはなかった。久江は腹を引き、身体からブラウスを離そうとした。襟が喉へ当たった。
「脱いで」
若菜が言った。久江は胸元へ手を置いた。下は薄い肌着一枚だった。
外を自転車が通った。男の人が前籠に何かを入れていた。ガラス戸のこちらで服を脱いだら、丸見えになる。久江は奥へ行こうとした。店には洗濯機が並ぶだけで、隠れる場所はなかった。ブラウスの脇から細い糸が下がり、途中で殻の方へ引き戻された。
「背中、どのくらい」
久江が訊くと、若菜は見ようとして横へ回った。
「見てないで、どのくらいなの」
姪に向けた声が荒くなった。若菜は一度だけ顔を上げ、久江を見た。
「ボタン、外せる?」
久江は頷き、上から外し始めた。二つ目が指から滑った。殻の重さは感じないのに、ブラウスだけが後ろへ集まっていく。若菜は自分の上着を脱いだ。中に着ていた半袖のシャツが捲れ、姪は片手で裾を下ろした。
「これ、着て」
黒い上着を差し出されたが、久江はまだボタンを外していた。若菜はそれを台の空いた端へ置き、久江の袖口を引き抜くのを手伝った。
ブラウスが身体から離れると、久江は肌着の上から両腕で胸元を押さえた。若菜が外した服を台へ投げた。薄い花柄が、落ちる前に小さくすぼまった。左脇の殻を中心に、袖も背中も寄っていった。ふわりと広がるはずの布が硬い玉のようになり、台へ当たった。襟に残ったボタンが、ひとつ床へ落ちた。
若菜は自分の黒い上着を取った。裾が上がらなかった。久江からは、縁に巻きつく白い脚が見えた。砂のところまで上着が垂れていた。姪が片手を持ち替えると、布が細かく引きつり、ファスナーが机の角を擦った。
「それも」
久江はそれだけ言った。若菜が手を離した。上着は台の向こう側へ滑り、袖の先だけが残った。間もなく、その先も後ろへ引かれた。砂の落ちる音が続いた。
久江は出口を見た。すぐ外に、買物袋を提げた女の人が立っていた。銭湯が開くのを待っているらしく、携帯を見ている。久江はガラス戸へ一歩近づき、また止まった。肌着は腕を上げると脇が見えた。そういう格好で町を歩いたことがなかった。自分の鞄は入口の椅子にある。大きいものなら身体の前に持てたが、今日は肩へ掛ける小さい鞄だった。
若菜がその鞄を取ってきた。久江は受け取り、胸へ抱えた。隠せるのは真ん中だけだった。
「服、買ってくるから」
姪が言った。久江はすぐに、お願い、と答えそうになった。待っている間に台から何が出てくるか、見ないでいられるだろうか。黒いズボンの金具が床へ落ちた。片足分の布が、乾いた砂の上へ垂れ、じわじわ短くなっていた。
「一緒に行く」
久江が言うと、若菜は戸を押した。店の前にいた女の人が顔を上げた。久江は鞄を強く抱えたまま、外へ出た。女の人が何か言いかけたが、久江は首を振り、戸口から退いてもらった。若菜は、入らないでください、とだけ言った。久江の携帯はまだ畳み台にあった。
明るい歩道へ立つと、久江は日傘を持ってこなかったことまで悔やんだ。背中を隠せたかもしれない。風が直接肩へ当たった。若菜は洋服屋のある方を指し、近いから、と言った。
久江は鞄を胸へ抱えたまま、若菜の横へ出た。ガラス戸の向こうでは、ブラウスの襟だけが台の縁に残っていた。店の中で、その襟がひとつ折れ、見えなくなった。
久江は洋服屋の方へ向き直り、道を渡りかけた。若菜が袖のない腕へ触れ、待って、と言った。久江は鞄を抱き直し、自転車が通り過ぎるのを待った。


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