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歌わない人

多恵子は、ほかの団員に聞こえないほど小さな声で歌っていた。
市民合唱団へ入って三か月。楽譜を読むのが遅く、皆が息を吸ったあとで歌い始める。間違えた音を出すくらいなら口だけ動かそうとすると、指揮の宮下にすぐ見つかった。
「小さくしなくていいんですよ」
その優しい言い方をされるたびに、多恵子は次の練習を休みたくなった。

仕事を辞めてから、何かを続けようと思って入った団だった。歌が特別好きというわけでもなかった。平日の夕方、決まった場所へ行き、人と顔を合わせる。それだけで家から出る理由になった。
ほかの団員は長く歌っている人ばかりで、音が揃うと顔を見合わせて笑った。多恵子もその中へ入りたかった。

見学の男が来たのは、秋の発表会の一か月前だった。多恵子より少し年上に見えた。襟の詰まった茶色い服を着て、入口で宮下へ頭を下げた。名前は聞こえなかった。
「聴くだけでも、どうぞ」
宮下が椅子を出すと、男は部屋の端へ座った。鞄も楽譜も持っていなかった。膝に両手を揃え、歌う人たちを静かに見ていた。

その夜の練習は、今までで一番よく揃った。
多恵子にも分かった。出だしで迷わず、長い音が途中で薄くならない。自分だけが遅れそうになる箇所も、誰かに支えられるように先へ進めた。曲が終わると、団員の一人が小さく拍手した。
宮下は何度も頷き、これでいきましょう、と言った。
見学の男だけは、拍手をしなかった。

休憩に入ると、多恵子は隣の中沢へ、今日は歌いやすいですね、と話した。中沢は団に十年以上いる女性で、多恵子が譜面を見失うと指で場所を教えてくれた。
「よく声が出てた」
褒められ、多恵子は嬉しくなった。
「私、自分ではあまり出してないんです」
中沢は笑って、そんなものよ、と言った。

男は次の週も来た。宮下が一緒に歌わないかと誘ったが、首を振った。声を出せない事情があるのかもしれないと、多恵子は思った。宮下もそれ以上勧めず、前と同じ椅子を置いた。
多恵子は練習の途中、男の足を見た。靴を床につけていなかった。両方とも、椅子の下へ少し引いていた。小柄な人には座面が高いのだろう。そう思ったが、男の肩は自分と同じくらいの高さにあった。

曲の終わり、宮下が手を下ろしても、低い音が残った。
誰かが少し長く伸ばしたらしかった。宮下はテノールのほうを見て、切るところを揃えましょう、と言った。全員が頷いた。多恵子も次は気をつけようと譜面へ印をつけた。
見学の男の喉が、上下に動いていた。口は閉じていた。

帰り際、多恵子は忘れた水筒を取りに部屋へ戻った。中には誰もいなかった。折り畳んだ椅子が壁に寄せてあった。
水筒を掴んだ時、床の近くから声がした。練習した曲の、一番最後の音だった。小さく揺れ、切れそうになっては太くなった。
多恵子は空調の音かと思い、顔を上げた。吹出口には何も挟まっていなかった。
椅子の隙間に、茶色い袖が見えた。多恵子が見直すと、片付け用の布袋だった。

次の練習を一回休んだ。理由には、用事があるとだけ書いた。中沢から、大丈夫、と返信が来た。最後に、昨日よりよくなった、とあった。昨日は練習日ではなかった。
気になって訊くと、自宅で録音を聴きながら歌った話だという。中沢は復習のために、毎回録音していた。
「送ろうか」
多恵子は頼んだ。自分だけが追いついていないと思われたくなかった。

家で聴くと、合唱は驚くほど上手だった。自分が同じ場所にいたとは思えなかった。ところが、誰も息を吸っていなかった。
多恵子は何度か巻き戻した。音が切れる箇所にも、譜面をめくる音と椅子の軋みしかない。歌っている間にも、団員たちの小さな咳や、鼻をすする音が混じっていた。声を出している人が、その途中で咳をする。録音の音量のせいだろうか。
最後の音のあとで、誰かが息を吸った。
ひとりで、全員の分を吸い込むような長い音だった。

多恵子は中沢へ電話した。録音のことを話すと、彼女は少し黙った。
「私、途中でお茶を飲んでたの」
「歌ってる途中ですか」
「喉が乾いて。でも、隣から私の声が聞こえてると思った」
多恵子は何も言えなかった。自分が歌っていないのに揃っていたことを、二人とも褒め合っていた。

次の練習で、宮下へ録音を聴いてもらった。先生は音の取り方を確認するのだと思い、最初は嬉しそうだった。息の話をすると、何度か同じ箇所を聴いた。
「会館の別の部屋が入ったのかもしれない」
そう言ったが、理由に自信があるようには見えなかった。
見学の男は、その日も同じ場所へ座っていた。宮下は男に、前から合唱をしていたのですか、と訊いた。男は頷かなかった。団員たちを順番に見ていた。喉が何度も動いた。

宮下は伴奏を止め、まず一人ずつ出してみましょう、と言った。
最初の団員が歌った。次の人も歌った。多恵子の番になり、声が上ずった。中沢が笑わずに頷いた。それで少し落ち着いた。
見学の男が、椅子から身を乗り出した。
多恵子の声が、部屋の端でも聞こえた。半拍遅れて、同じように上ずった。多恵子が口を閉じると、そちらも止まった。
男は膝へ手を戻した。

多恵子は、あの人が、と言いかけた。宮下が手を上げた。黙るようにという合図に見えたが、先生はピアノの椅子へ腰を下ろし、苦しそうに首を左右へ動かしていた。
中沢が水を差し出した。宮下は飲まなかった。口の中に何かあるように、唇を内側へ巻き込んでいた。
団員の一人が男へ近づいた。
「今日は、帰っていただけませんか」
男は初めて、その人の顔を見た。

合唱が始まった。
誰も構えていなかった。楽譜は閉じたままで、多恵子の手も下がっていた。それなのに、練習曲が最初から流れ始めた。入口へ行こうとした団員が立ち止まり、宮下を見た。先生の両手は膝の上にあった。
声は部屋のどこか一点から出ているのではなかった。窓の下、床と壁の境、椅子を重ねた隙間。多恵子が水筒を取りに戻った時の低い声が、いくつも重なっていた。

多恵子は廊下へ出て、受付の人を呼んだ。大きな音を流している機械がないか、隣の部屋も見てほしいと頼んだ。自分の口から出る声が、いつもの大きさに戻っていた。受付の人は驚き、一緒に練習室へ戻った。
歌はまだ続いていた。団員たちは壁際へ寄り、誰も口を開けていなかった。

見学の男だけが、椅子へ深く座っていた。口の両端が耳の下まで広がっていた。口を開けているというより、頬の下のほうがなくなっていた。中には舌も歯も見えず、いくつもの後頭部が並んでいた。耳と髪の生え際だけが、小さく見えていた。
受付の人は男へ近づかなかった。
「皆さん、一度こちらへ」
団員を外へ出した。

最後の音が、長く残った。宮下が扉の前で振り返った。多恵子は先生の袖を持ち、廊下へ連れ出した。
扉が閉まると、音は止んだ。受付の人が別の職員を呼び、二人で中を確かめた時には、誰もいなかった。見学者が来た記録も、身元を知る人もいなかった。宮下は、別の団員の紹介だと思っていた、と言った。誰も紹介していなかった。

発表会は辞退した。宮下はしばらく休みたいと言い、定例の練習もなくなった。多恵子は一人で散歩するようになった。夕方、人の話し声を聞きながら歩く。自分から誰かの輪へ入ろうという気持ちは、なかなか戻らなかった。
中沢とは時々会った。あの音源は消したと言った。多恵子も消した。二人とも、本当に自分で歌っていた箇所があったのかを確かめる勇気はなかった。

冬の初め、駅前の広場で、別の団体が歌っていた。知らない曲だった。多恵子は端のほうで少し聴いた。途中で誰かの音が外れ、歌っている人たちが目を合わせた。その小さな笑い方が懐かしかった。
足元の低い位置から、多恵子の声が聞こえた。
あの日、一人ずつ歌った時の、上ずった声だった。

多恵子は後ろへ下がった。
広場には大勢の人がいた。何人かが歌に合わせて口を動かしていた。皆、よく知っている曲のように見えた。
多恵子はその場を離れた。自分の声が、まだそこに残っていた。

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