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土を捨てる日

底の土を捨てれば、バケツはもう少し軽くなる。そう思って水を切った。陶芸教室の最後の日だった。午前中の生徒が帰り、私は流しの前で、二十年使ったという青いバケツを傾けていた。縁は白く乾いた土で固まり、持ち手には自転車のチューブが巻いてあった。持ち上げると、肘まで痛くなる重さだった。

「それ、置いておいて」入口から沢井さんが言った。いつ来たのか分からなかった。手には、スーパーの袋を二つ提げていた。

「もう片づけますよ。先生も、残った土は全部って」

「うん。それだけは、私が持つから」

私はバケツを床へ戻した。沢井さんは財布を出しかけたので、お金はいりません、と先に断った。教室には、作り損ねた器や削り屑を水へ戻しておくバケツが何個もあった。それも同じだと思っていた。私が代わりに使う土は新しく買っていて、棚の下の古い物まで開けたことがなかった。

先生が脳梗塞で倒れてから、教室は私が代わりに開けていた。先月、娘さんから、父を連れて帰るので今ある作品だけ仕上げてほしいと頼まれた。私は別の町の窯元でも働いていて、ここへ来るのは週二日だった。教室を続ける気はなかったし、家賃を払えるほどの生徒もいなかった。

沢井さんは生徒ではない。先生の知り合いだと聞いていた。月に一度くらい、外の水道でバケツを洗ったり、雑巾を干したりして帰る人だった。私は今日まで、少し謝礼をもらって掃除に来ているのだと思っていた。

「車、どこですか。運びます」

「あとで息子が来るの」

袋の中には、蓋つきの小さな容器がいくつも入っていた。沢井さんはそれを机へ並べた。漬物を分けて持っていくときに使うような、角の丸い容器だった。私の見ている前で青いバケツの土をすくい、一つずつ詰め始めた。全部移すつもりらしかった。

私は窓を開け、乾燥棚の板を拭いた。夕方までに空にしなければ、頼んだ軽トラックが来てしまう。先生の娘さんは、焼けた作品を生徒へ送り終えたか、そればかり気にしていた。先生が倒れる前の日に作られた物まで、私はどうにか焼いた。自分の仕事を休んだ分は、誰にも言っていなかった。

棚の奥に、濡れた布をかけた板が一枚あった。布をめくると、小皿が載っていた。縁の片側が内へ倒れ、底は厚すぎた。初心者が途中でやめた物に見えた。裏の名前を確かめようと持ち上げると、まだ土が柔らかく、親指が少し入った。

「これは沢井さんのですか」返事がなかった。流しで水を出したまま、沢井さんは別の棚を探っていた。私が皿を持って近づくと、急いで蛇口を閉めた。

「押した?」叱られたようで、私は指を離した。

「ちょっと跡がつきました。まだ直せます」

「どこ」

皿を渡すと、沢井さんは私の親指の跡を見た。その脇に、もともと小さな窪みが五つあった。指でつまんで縁を作った跡だと思ったが、土の内側から外へ押してできたような形だった。沢井さんは窪みの一つへ、人差し指を添えた。

「ここ、埋めなかったよね」

「埋めてません」

沢井さんは椅子に座った。皿を左の掌へ載せ、右手をその上へかぶせた。もう帰ってもらってもいいのだが、教室に長く来た人なのだから、少しくらい名残を惜しんでもらおうと思った。

そのあいだに、私は青いバケツを流しへ上げた。中の土はほとんど移され、底に薄く残っているだけだった。水をかけると泥が濁った。こびりついた所を取ろうと、スポンジを持って手を入れた。

底から、握られた。

私の手首より少し先、親指の付け根だった。スポンジをつかんだまま引くと、向こうの指も滑り、四本が私の手の甲へ回った。反射的にバケツを倒した。床へ水が広がった。足に泥をかぶり、私は流しの縁をつかんだ。手は抜けていた。痛みはなかった。

横になったバケツの底に、茶色い土が張りついていた。奥行きは指の先ほどしかない。私はしゃがまず、立ったままそこを見た。土に埋まっていたスポンジが、半分だけ出てきた。黄色い角が持ち上がって、落ちた。

「ごめんなさい」沢井さんの声で、私は振り向いた。彼女は立とうとしていた。膝の上の小皿を置く場所を探しているのかと思ったら、両手を離せないようだった。左手を下から支え、右手を上へ重ねたまま、肘で椅子の背を押して立った。

「布。そこにあるのでいいから」言われるまま雑巾を拾った。沢井さんはそれを皿の下へ敷かせ、机へ置いた。右手をゆっくり起こしたとき、私には、土が指を一本ずつ離したように見えた。掌に赤い跡が残っていた。半円に並ぶ、小さな四角い窪みだった。

私は自分の手を見た。濡れた手の甲にも、同じものがあった。指で押された跡だと思っていた所が、二重に並んでいた。歯形だった。小さく、揃いがよく、一か所だけ間が空いていた。

「何ですか、これ」沢井さんは答えず、バケツを起こした。私が持っていた雑巾を取り、水たまりの端から泥を集め始めた。流しの下へ入った分も、椅子をどかして掻き出した。

「流さないで。排水のほう、塞いで」声を荒らげられたので、私はゴムの栓を踏んだ。沢井さんは顔を上げ、すみません、と言った。その謝り方で、たまたま起きたことではないと分かった。

私は仕事場へ電話した。明日の窯詰めを手伝う約束だったが、行けないかもしれないと伝えたかった。ところが相手が出ると、バケツに手があって、と言いかけてしまった。怪我をしたのかと聞かれ、していない、と答えた。

「刃物じゃないの?」

「違う。手で」

相手が黙ったので、私は、あとでかけますと言って切った。沢井さんはこちらを見ずに、泥のついた雑巾を小さな容器の上で絞っていた。

「息子さん、早く呼んでください」もう一人、普通に話のできる人が来てほしかった。

沢井さんは壁の時計を見た。

「仕事中だから。迎えは六時なの」

四時を回ったところだった。私は入口まで行き、外の空気を吸った。隣の家の子が自転車で帰ってきた。車輪を門へぶつけ、母親に怒られていた。見慣れた角の石に、小さな蟻が列を作っていた。そのまま駅へ歩けばよかった。

けれど、沢井さんが私の背中へ、手を洗わないで、と言った。今は、という言葉を添えた。私は自分の手に目を落とした。歯形の空いた所が、さっきより狭くなっていた。

教室へ戻り、机の角で待った。沢井さんは集めた泥をバケツへ戻し、容器へ分けた分まで、一つずつそこへあけた。泥を受けるたび、底で何かが握り直すように沈んだ。

「息子の手なんです」沢井さんが言った。私は時計を見た。六時に迎えに来る息子のことだと思ったからだ。

「弟のほう」彼女には息子が二人いて、下の子は小学一年の夏にいなくなった。海のない町で、泳ぎを教えたくて、夫が川へ連れていった。夫だけが帰ってきた。警察も消防も捜したが、見つからなかった。

その年の秋、先生が沢井さんの家へ小皿を持ってきた。子供が作った物ではない。土を練っていたら、指の跡が消えなくなったのだという。押してならしても、手を離せば同じ所がへこんだ。先生はその土で皿を作り、沢井さんへ見せた。先生も息子を捜すのを手伝い、沢井さんの家には何度も来ていたそうだ。

「先生には、何て言われたんですか」沢井さんは、何も、と言った。皿を触ったときに握り返され、彼女のほうから息子だと言った。人差し指と中指の間へ自分の指を入れてくる。ふざけて、痛いほど開こうとする。手をつなぐときの息子の癖だった。

私は自分の手の甲を隠した。これも息子さんなのかとは聞けなかった。子供の口が私の手に当たる様子を、もう考えたくなかった。

沢井さんはバケツへ新しい水を足した。私にも椅子を勧めたが、私は立っていた。

「焼くと、どうなるんですか」

「知らない。先生は、焼かないでくれた」

皿が崩れかけると、土へ戻した。乾かないように水を替え、また少し形を作った。先生がここを借りる前から、別の仕事場でそうしていたという。沢井さんが来たときだけ、彼女が触れる大きさにしてもらった。

「今までは、このくらいだったの」小皿の縁を両手で囲った。

私は、握られた手の大きさを思い出していた。あれは小学一年の子供の手ではなかった。沢井さんもそれを知っているようで、私の手から目を逸らした。

「どれくらいになるんですか」

「二十七年」私は何も言えなかった。六歳の子が、三十三になる。それだけの間、沢井さんは土の水を替えに来ていた。小皿の上の五つの窪みは、互いに離れすぎていた。あの皿に指先だけを置いているのだとしたら、私より大きな手がそこにあった。

沢井さんが電話をした。今すぐ来られないかと頼み、しばらく相手の話を聞いた。工場に一人しかいないらしかった。いいから気をつけて、と言って切り、携帯を裏返した。

「お兄さんは、知ってるんですか」

「知ってる。だから、持っていこうって」家で見ればいい、母さんも年なんだから、と言われたそうだ。

沢井さんは小皿の歪んだ縁を撫でた。私がへこませた跡には触れなかった。私は自分のしたことを謝るべきか迷ったが、謝れば、この仕事を最後まで手伝うことになる気がした。

そのとき、小皿が割れた。乾いて割れた音ではなかった。机の上で厚い底が二つに裂け、真ん中へ水が浮いた。沢井さんは両手で寄せようとした。左の指が土へ入り、手首まで沈んだ。

皿の下には、さっき私が敷いた雑巾が見えていた。机に穴などない。沢井さんの指はどこにも出ていなかった。

私は彼女の肘をつかんだ。

「引いて。こっちに」

二人で力を入れた。皿の半分が手首へ巻きつき、土の中で何かが動いた。沢井さんの爪が見えたと思ったが、爪は大きく、手の向きも逆だった。

青いバケツが、床を擦って動いた。誰も触っていない。机の脚へ寄ってきた。中から水が一度跳ねた。沢井さんはバケツを見下ろし、私へ、手を離して、と言った。

「駄目です」

「私のじゃない。そっちの手」

私の右手は、皿の割れ目に入っていた。沢井さんを引いたとき、机に手をついた。その指を、誰かが下から握っていた。向こうの親指が、私の人差し指と中指の間へ入ってきた。私は左手で自分の腕を押さえた。引けば、右手の指が外へ開いた。爪のつけ根が白くなり、手首が皿のほうへ向いた。

痛いと言ったつもりだった。息ばかり出た。沢井さんが私の隣へ来て、空いている右手を、皿の裂け目へ差し入れた。

「お母さん、こっち」

彼女は自分の肘を机へ押しつけた。私の指が一本、自由になった。もう一本が離れ、私は体ごと後ろへ倒れた。椅子を蹴った音で、隣の家の犬が吠えた。

沢井さんの両腕が、手首のところで皿の中へ入っていた。私は入口へ走り、助けてくださいと叫んだ。隣の人が門から顔を出した。何があったのと聞かれたが、説明せずに手を振った。二人で教室へ戻るまで、ほんの少しだった。

沢井さんは、一人で机に向かっていた。皿は原形をなくし、濡れた土の山になっていた。その上へ、彼女は両手を置いていた。指を見せてくださいと言うと、いいの、と小さく首を振った。

隣の人は流しの下の水を見て、転んだのかと訊いた。腕を痛めたなら救急車を呼ぼうか、と携帯を出したが、沢井さんは、動くから、と指を持ち上げてみせた。薬指だけが少し遅れた。私は濡れた袖をまくり、自分の手の甲を見せた。歯形は消えていた。

沢井さんの携帯が鳴った。机の上で震え、落ちそうになったので、私は取った。息子さんだった。少し早く出られた、あと十分で着くと言った。

私は母親を見た。沢井さんは、うなずいた。両手を土の上へ置いたまま、口だけで、ありがとう、と言った。その顔は、子供の迎えを待っている人の顔に見えた。私は電話に、ここにいます、と答えた。隣の人へタオルを借り、床の水を拭いた。椅子を一つ運び、沢井さんの横へ座った。

彼女の右の袖が上がっていた。手首の内側に、さっきまで私にあった歯形が見えた。一か所空いていたはずの並びは、全部つながっていた。

沢井さんはそれを隠さなかった。私が見ているのに気づくと、土を少し寄せた。表面へ、彼女の指より太い指が、一本だけ浮いた。

「大きくなったでしょう」私は返事をしなかった。彼女の肩へタオルをかけ直し、車の音がするまで、一緒に座っていた。

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