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傘を閉じる音

借りた傘は、紺色だったと思う。
妻にそう言うと、黒だったよ、と返された。暗いところで見たのだから、どちらでもおかしくなかった。最初は色くらいの違いだった。

雨が降り始めたのは、駅へ着く少し前だった。バスは出たばかりで、次まで二十分あった。歩けば十五分。俺は売店で傘を買おうとしたが、安いものは売り切れていた。
隣で雨を見ていた女の人が、これを使って、と言った。

年は五十くらいに見えた。手に二本持っていた。一方は差していて、もう一方をこちらへ出した。無地の、持ち手が木の傘だった。
「すぐ近くなので」
女の人は言った。
俺が断ると、どのみち一本しか使わないから、と笑った。確かにそうだと思い、礼を言って受け取った。

返す場所を聞くと、駅の傘立てへ入れておいてくれればいいと言った。店の入口に、忘れ物の傘をまとめた籠があった。
「名前、ないんですか」
持ち手を見ながら訊くと、女の人は、なくても分かるから、と答えた。

家へ帰ると、妻が玄関へ来た。俺の傘を見て、誰の、と聞いた。事情を話すと、そんな人がいるんだね、と感心した。
俺は傘を外へ広げて干した。持ち手の端が少し欠けていたので、返すときに傷めたと思われないよう、場所を覚えておいた。

翌朝は晴れていた。傘を持って駅へ行き、言われた籠へ入れた。店の人にも、昨夜貸してもらった物です、と伝えた。
帰りに見ると、もうなかった。取りに来たのだろうと思った。

その晩、玄関に同じ傘があった。
妻が持ち帰ったのかと聞くと、知らないと言った。
「朝、持って出た?」
「持って出たよ」
「返し忘れて、持って帰ったんじゃない?」
妻はそう言い、夕飯の皿を並べた。俺も一瞬、自分の記憶を疑った。朝、店の人へ何と言ったかまで覚えていたのに、妻に訊かれると、昨日だったかと思えてきた。

持ち手の欠けを見た。同じ傘だった。紺色のはずの布は、玄関の明かりでは黒く見えた。
俺は翌朝、もう一度持っていった。店の人に、昨日返しましたよね、と確認した。
「はい。夕方、女の方が持っていかれましたよ」
俺が黙ると、違う方でしたか、と心配された。

女の人の特徴を聞いた。店の人は、若い方、と言った。二十代くらいで、白い上着だったという。
俺が会った人はもっと年上で、茶色いコートを着ていた。
親子かもしれない。説明はいくらでもついた。
ただ、その人がなぜ俺の家へ傘を置けたのかは、説明できなかった。

その夜は、傘は戻らなかった。俺は少し安心し、妻に、駅の人が間違えたのかもしれない、と話した。
妻は、そう、と答えたあと、少し考えた。
「最初に貸してくれた人、どんな人?」
俺が説明すると、妻は首を傾げた。
「赤い服じゃなかった?」

妻は一昨日の夜、家の前で女の人を見ていた。俺が傘を返した日のことだった。買い物から帰ると、門のところに女の人が立ち、傘を持っていたという。
「お宅の方に、借りたので」
そう言われたので、妻は受け取った。

俺は、何で昨日それを言わなかった、と聞いた。
妻は不思議そうな顔をした。
「昨日はまだ、会ってなかったから」
日付の話になった。妻は昨夜だと言い、俺は一昨夜だと思っていた。俺が家へ帰ったときに傘があったのは一昨夜で、その翌朝に返した。
妻は、昨夜受け取った傘を、傘立てへ入れたと言った。

玄関を見に行くと、傘があった。
さっきまで、なかったと思っていた。
妻は、ほら、と言った。持ち手に欠けがあった。俺は傘へ触れず、台所へ戻った。

借りた物を、借りたと言って返された。
そのことを考えると、妙に落ち着かなかった。相手は最初から、俺たちの傘だと思っているのかもしれない。
だったら、どこまで持っていっても、家へ返ってくる。

次は駅へ持っていかず、物置に入れた。いずれ持ち主が現れたら渡せばいい。盗まれた傘を知らずに借りた可能性もあった。
妻には、返しに来た人がいたら受け取らないで、と頼んだ。
妻は少し嫌そうな顔をしたが、分かったと言った。

雨の日、帰宅すると、玄関の内側が濡れていた。俺は自分の靴を見る前に、傘立てを見た。あの傘はなかった。
妻は居間にいた。
「誰か来た?」
「ううん」
「玄関、濡れてる」
妻はテレビの音を下げた。

「さっき、帰ってきたよね」
俺は今帰ったと答えた。
妻は時計を見た。
「傘、閉じる音したから」

門のところではなく、玄関の中で、傘が閉じる音がしたという。金具が外れ、濡れた布が畳まれる、ぱさっという音。それから靴を脱ぐ音がした。
妻は台所にいて、おかえり、と言った。
返事はなかったが、俺が電話でも見ているのだろうと思った。

物置を開けた。傘は置いたままだった。布は乾いていた。持ち上げると、先から水が一滴落ちた。
俺は戸を閉め、鍵をかけた。
妻は俺の後ろに立って、もう捨てよう、と言った。

勝手に捨てていいのかという考えが、まだ少しあった。親切で貸してもらった物だ。その気持ちに腹が立った。ここまで来ても、失礼にならない方法を探している。
俺は翌朝、管理されている忘れ物の窓口へ事情を話し、相談した。最初に傘を受け取った場所と、家まで返しに来た人物のことを説明した。何かあれば連絡するよう言われ、名前と連絡先を残した。

傘を預けて帰った。その日は家へ直行した。
玄関の前に女の人がいた。
片手にあの傘を持っていた。布は巻かず、半分開いたままだった。

俺は道路の向かいで止まった。
女の人は俺に気づき、軽く頭を下げた。顔には見覚えがなかった。貸してくれた人より若く、店の人が言っていたほど若くもなかった。
「返しに来ました」
女の人が言った。

「俺のじゃないです」
俺は答えた。
女の人は傘を見た。
「でも、お宅から」
「違います」
大きな声になった。近所の窓が開いた。俺はその音で、少し勇気が出た。
「持って帰ってください」

女の人は困ったように笑った。それから、すぐ近くなので、と言った。
最初に貸してくれた人と、同じ言葉だった。
俺はもう返事をしなかった。

妻が玄関を開けた。
女の人はすぐに向きを変え、妻へ傘を差し出した。
「ご主人にお借りしたので」
俺は道路を渡り、受け取らないで、と叫んだ。

妻の手が止まった。
傘の先が、玄関の敷居へ触れた。
その瞬間、家の中で傘が閉じた。

女の人の手には、まだ半分開いた傘があった。妻の後ろ、廊下の奥で、濡れた布を絞る音がした。
妻が振り返ろうとした。俺は肩をつかみ、外へ引いた。
女の人は俺たちの横を通り、玄関へ入ろうとした。

俺は扉を押した。傘の先が挟まり、金属が曲がる音がした。
女の人は怒らなかった。傘を引き、半歩下がった。
「中、濡れますよ」
そう言った。
妻が俺の袖をつかんでいた。どちらも鍵を持っていなかった。

近所の人が出てきて、どうしたの、と聞いた。俺たちがそちらを向いた隙に、女の人はいなくなった。
走る音はしなかった。傘もなかった。
玄関の扉の下に、濡れた筋が一本残っていた。

その晩は家に入らなかった。明るいうちなら大丈夫なのか、誰かと一緒ならいいのか、そんなことは何も分からなかった。
近所の人のところで、来てもらった人たちに説明した。中を確認してもらったが、誰もいなかった。窓の鍵も、物置の鍵もかかっていた。
廊下だけが、薄く濡れていた。

翌朝、預けた傘を確かめに行った。
傘はそこにあった。
担当の人は、出していません、と言った。布を巻いたまま、保管されていた。先は曲がっていなかった。
俺は持ち手を見た。欠けは同じ場所にあった。

妻は、もう同じ物かどうか考えるのをやめよう、と言った。
俺もそう思った。
傘が一本なのか、何本もあるのか。戻るのは傘なのか、返す人なのか。分かったところで、家へ入れていい理由にはならなかった。

引っ越すまで、二か月かかった。仕事もあり、すぐには家を空けられなかった。夜は二人で帰り、玄関を開ける前に電話をつないだ。家の中から音がしたら、近くの店で時間を潰した。
何も聞こえない日もあった。
聞こえないことを、安全だと思わないようにした。

新しい住まいは集合住宅で、玄関の外が明るかった。傘立ては置かず、使った傘は毎回、部屋の中へ持ちこんだ。
妻は一本だけ、派手な黄色い傘を買った。俺も持ち手に大きく印をつけた。
なくても分かる、とは、もう思えなかった。

あれから三年になる。
傘は戻っていない。知らない人が訪ねてくることもない。
妻と色のことで言い合うこともなくなった。

けれど、雨の夜、玄関の外で傘を閉じる音がすると、二人とも動かなくなる。
隣の家の人かもしれない。廊下を通る誰かかもしれない。しばらくすれば、鍵を開ける音がして、扉が閉まる。
そこまで聞いてから、俺たちはまた話し始める。

この前、妻が一人で帰ってきた。玄関の前で傘を閉じ、そのまま鍵を回そうとしたらしい。
部屋にいた俺には、閉じる音が二回聞こえた。
短い間を置いて、同じ音が、もう一度。

俺は扉へ近づき、妻の名前を呼んだ。
妻は返事をせず、電話をかけてきた。
「今、下りるから。あなたも出てきて」
俺は靴を履いた。

電話の向こうで、妻が階段を下りる音がした。
玄関のすぐ外では、まだ誰かが、傘の布を畳んでいた。
俺は電話を切らず、部屋の奥へ戻った。

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