先生が返してくれたのは、木を削って作った小さな船だった。船底に、俺の名前が鉛筆で書いてあった。
「ずっと、渡せなくて」
先生はそう言い、紙袋を畳んだ。
俺はその船を覚えていた。小学五年の夏、学校の宿泊行事で作ったものだった。底を削りすぎて傾くので、片側へ石をつけた。接着剤の黄色い跡が残っていた。
三十年以上前の物を、先生が取っておいてくれたことに驚いた。
それなのに、先生は懐かしそうではなかった。
同窓会の二次会で、駅前の小さな店にいた。先生は定年を迎え、最近、昔の資料を整理しているという。俺たちは当時の失敗や、先生に叱られた話をしていた。
船を見た隣の席の三好が、お前、あれ来てたっけ、と言った。
俺は笑った。
「作ったんだから、行ってるだろ」
三好は、そうだよな、と船を持ち上げた。それで話は終わるはずだった。
先生が、出席簿では休みなんだ、と言った。
俺は夏風邪をひいていた。出発の前々日まで熱があって、母は行かせないつもりだった。熱が下がり、朝も元気だったので、父が学校まで車で送った。
玄関で先生に、無理をするなよ、と言われた。バスでは窓側に座り、車酔いした子へ飴をあげた。
そんなことまで覚えていた。
「誰の隣?」
三好に聞かれ、小松、と答えた。
三好は先生を見た。
小松はその会に来ていなかった。今は遠くに住んでいると聞いていた。
「俺の隣、小松だったよ」
三好が言った。
俺はその場で少しむきになった。船のこと、宿舎の壁にあった鹿の絵、風呂場の蛇口が一つ壊れていたこと。覚えているものを次々に話した。
先生は全部、うなずいて聞いた。最後に、そうだね、と言った。
出席簿が間違っている、と言ってほしかったが、その言葉はなかった。
宿泊先は山の中の古い建物だった。一階が食堂と大きな広間、二階が寝る部屋で、廊下の窓から裏山が見えた。
俺たちの班は六人だった。学校で決めた班長は三好で、俺は何の係でもなかった。小松は、人数を数えるときだけ大きな声を出した。
初日の夜、小松が腹を痛がった。夕飯を食べすぎたのだろうと言われ、俺が先生のいる部屋まで連れていった。
その記憶ははっきりしていた。小松は廊下で何度も止まり、窓枠につかまった。俺は肩を貸したが、二人とも同じくらいの背丈で、うまく歩けなかった。
先生の部屋には、薬の入った箱があった。小松が布団へ横になり、先生が俺へ、もう戻っていい、と言った。俺は小松を一度見てから、部屋を出た。
そのあと、廊下で点呼があった。
各班が部屋の前に並び、先生が班長の名を呼んだ。班長が人数を答える。小松がいないので、俺たちは五人のはずだった。
三好は六人、と答えた。
俺は違う、と言った。
先生がこちらへ来て、一人ずつ顔を見た。三好、田辺、岡田、俺、あと二人。
そこで、俺も六人いると思った。
誰が六人目だったか、今は思い出せない。顔を見て数えたのだから、そのときはいたはずだった。
小松は先生の部屋にいる、と俺が言うと、先生は、そうだな、と答えた。もう一度数えた。
五人だった。
先生は疲れた顔で笑い、小松を入れて六人だから、と言った。俺たちは部屋へ戻った。
灯りを消してから、三好が俺の布団へ来た。
「お前、さっき、二回返事しただろ」
俺はしていないと答えた。
「名前、呼ばれて、はいって言ったあと、もう一回」
点呼は班長だけが返事をするはずだった。先生が俺の名前を呼んだ記憶はなかった。
三好はしばらく俺の顔を見て、寝るわ、と自分の布団へ戻った。
夜中、廊下で先生の声がした。
一人ずつ、名前を呼んでいた。
隣の部屋から、眠そうな返事がした。俺たちの部屋の名前になっても、同じように返事が続いた。
俺は布団の中で目を開けた。
三好が寝息を立てていた。それなのに三好の名前が呼ばれると、廊下から、はい、と聞こえた。
田辺も、岡田も、返事をした。
俺は起き上がり、部屋を見回した。皆、布団にいた。
俺の名前が呼ばれた。
返事をしようとしたとき、隣の布団から手が出て、俺の足をつかんだ。三好だった。目を開け、こちらを見ていた。
廊下で、俺が返事をした。
最後に小松が呼ばれた。
返事がなかった。
少しして、もう一度、小松、と聞こえた。声が低くなっていた。
三好の手が、俺の足首を強く握った。
廊下を、誰かが歩き始めた。部屋の前で止まり、扉に触れた。引き戸だった。内側には鍵がなかった。
俺は小松の布団を見た。入口にいちばん近く、空だった。自分の布団は、その隣だった。
三好が這ってきて、俺の布団を少し奥へ引いた。
戸が数センチ開いた。
廊下に灯りはなく、顔は見えなかった。下のほうに、白い靴下が二つあった。先生は黒い靴下を履いていた。俺はそんなことを考えた。
隙間から、布団を探るように指が入った。
三好が小さく、はい、と言った。
俺のそばで言った。
廊下の人が止まった。
「小松?」
戸の向こうから聞こえた。
三好はもう一度、はい、と答えた。
指が引っ込み、戸が閉まった。足音が遠ざかり、階段を下りた。
朝になると、小松は部屋で寝ていた。入口に近い布団へ、普通に入っていた。腹痛は治ったと言い、朝飯も食べた。
俺は先生へ夜の点呼の話をした。
先生は、見回りはしたけど名前は呼んでいない、と言った。
小松を先生の部屋へ連れていった話をすると、先生は一瞬、困った顔をした。
「君が連れてこられたんだよ」
先生は俺の額へ手を当てた。
「夜、また熱が出たから。覚えてないか」
小松は俺に肩を貸したと言った。俺は小松に肩を貸した。どちらも、廊下の窓のところで休み、先生の部屋へ入ったことを覚えていた。
三好は俺たちの話を聞き、自分は寝ていたと言った。
夜中に足をつかんだだろうと訊いても、知らないと言った。
その話は、先生が船を返してくれるまで、俺の中でほとんど眠っていた。同窓会の席で話すと、三好は途中でビールを置いた。
「それ、言わなくてよくないか」
俺は口を閉じた。
先生は船の底を見ていた。鉛筆の名前を、指で隠していた。
宿泊行事の出席簿には、俺が欠席と書かれていた。出発前に母が休むと連絡したので、そう書いたのだろう。先生は、そこまでは説明した。
「じゃあ、直し忘れですよね」
俺が言うと、先生はうなずかなかった。
帰りのバスの名簿にも、俺の名前には斜線があった。班ごとの人数は五人で、小松は含まれていた。
「人数、合ったんですか」
先生は長く黙った。
「合うまで、数えたんだよ」
宿舎を出るとき、先生は何度も点呼をした。最初は一人多く、次は一人少なかった。顔を見て数えると違い、名を呼ぶと合う。
最後に、来ている子だけ返事をして、と言ったという。
「何人いるかより、誰がいるかを確かめようと思って」
先生は、俺が返事をしなかったと言った。
バスに乗る子たちの中に、俺の顔はあった。けれど、名前を呼んでも返事をしなかった。肩へ手を置こうとすると、ほかの子が間に入った。
そのうち、三好が返事をした。
俺の名前で。
三好は先生を見ず、テーブルの水滴を拭いた。
「帰りたかったから」
それだけ言った。
俺は三好の顔を見た。昔の面影はあるが、髪が薄くなり、顎の下が少し太っていた。夜中に足首をつかんだ手は、爪の短い、大人の手になっていた。
先生は、あの船を最後に宿舎で見つけたと言った。皆がバスへ乗ったあと、忘れ物を確かめに戻った。俺たちの部屋の床に、船があった。
拾って廊下へ出ると、広間から、はい、と聞こえた。
俺の声だったという。
先生はその場で止まった。
「戻らなかったんですか」
俺が聞くと、先生は首を振った。
「バスに、君がいたから」
先生の声が細くなった。
「いたと思ったから」
会はそこで終わりになった。駅まで歩く途中、三好が船を見せてくれと言った。袋から出すと、裏の名前を確かめた。
「お前の字?」
そうだと答えた。
三好は、そっか、と言って返した。俺は船を袋へ入れず、そのまま持って歩いた。
「何で、小松の名前で返事したんだ」
俺が聞くと、三好は足を止めた。
「お前、また連れていかれそうだったから」
「小松の布団、空だったろ」
三好は首を振った。
「空だったの、お前のだよ」
それ以上は話さなかった。
話せば、いまここに並んで歩いている二人のことまで、分からなくなる気がした。
翌日、母に電話をした。宿泊行事へ行ったかと聞くと、行ったでしょう、とすぐ答えた。父が車で送ったことも、帰ってから熱を出して二日寝たことも覚えていた。
「何で、そんなこと」
不思議そうに訊かれ、先生に会ったから、と答えた。
母は、懐かしいね、と笑った。
「帰ってきてから、名前呼んでも返事しなくて。怒ったの、覚えてる?」
俺は電話を持ち替えた。
「小さい声で、誰が呼んでるか見てからって言ったのよ。先生に教わったって」
船は家の本棚に置いてある。捨てればいいと思ったこともあるが、自分で作った物だと分かるので、捨てられない。
家族には、学校で作ったとだけ話した。
寝る前、部屋の外から呼ばれると、俺は今でも返事をする前に戸を開ける。
妻でも、子供でも、顔を見てから答える。
向こうが急いでいても、そこだけは譲らない。


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