この話は、友人から聞いたものだ。
そいつは夜の長距離ドライブが好きで、用がなくても車で遠くまで流しに行く。
誰ともすれ違わない道を走るのがいいのだと、よく言っていた。
ある晩も地方の国道をひとりで走っていた。
山あいの灯りのほとんどない区間だったという。
燃料計が下がってきたところで、道の先にぽつんと給油所の灯が見えた。
古い対面式のスタンドだ。
今どきは少なくなった、店員が給油してくれる型のところ。
年配の男が一人で出てきて、給油をはじめた。
その男が給油しながら車の後ろのほうを覗き込んだ。
男はこう言ったらしい。
「後ろの方は、降りないのかい」
友人は一人で乗っていた。

後部座席には誰もいない。
バックミラーを見ても、空のシートが映っているだけだ。
給油のあいだに男は一度、誰もいない後ろの席へ軽く会釈をしたという。
誰も座っていない席に向けて、ぺこりと頭を下げてみせた。
返事に困っているうちに給油は終わって、逃げるように店を出る。
家に帰ってから気になって、その給油所のことを調べた。
その店は何年も前に廃業している。
その男の言い方が引っかかった、と友人は言っていた。
連れがいるかと聞くのではなく、降りなくていいのか、と聞かれたことが。
後ろに誰がいるかを、男のほうが先に知っていたみたいに。
その話の場所を詳しく聞き出した。
心霊スポットの撮影をしているから、こういう場所は確かめに行きたくなる。
週末の深夜にカブにまたがって現地へ向かった。

房総の山のほうで、国道とは名ばかりの細い道だった。
街灯はほとんどなく、両側から木が道に張り出している。
対向車の一台も来ない。
友人の言ったとおりの場所に、その給油所はあった。
灯は消えていた。
看板は錆びついている。
料金表の単価は今よりずっと安い数字のまま止まっている。
給油機のホースは、根元から裂けて垂れ下がっていた。
どこからどう見ても、何年も人の入っていない廃墟だ。
カブを停めて敷地のなかを一通り撮った。
割れた窓。倒れたのぼり。色の抜けた自販機。
ひととおり済ませて、もう帰ろうと思った。
カブにまたがって、エンジンをかける。

エンジンの音にまぎれて、暗い事務所の奥から、ざざという雑音が聞こえた気がした。
古いラジオの放送と放送のあいだに挟まるような音だ。
こんな夜の山には、電波の届く局などないはずだった。
何気なく給油所のほうを振り返る。
灯が点いていた。
さっきまで真っ暗だった事務所の蛍光灯が、ジジと音を立てて瞬いている。
給油機の上のランプも、ぼんやりと赤く灯っていた。
その光のなかに人が一人立っている。
年配の男だ。
作業着のような上下を着て、こちらをじっと見ている。
いつのまに出てきたのか、足音は聞こえなかった。
近づいてよく見ると、男の目はこちらを見ていなかった。
男が見ているのは、私の顔ではない。
焦点はもっと上の、私の頭の後ろのあたりで結ばれていた。

そこにいるはずのない相手と、ずっと目を合わせているようだった。
「給油していくかい」
男がそう言う。
廃墟のはずの給油機から、ホースを引き抜いてこちらへ歩いてくる。
断る言葉をうまく口に出せなかった。
男がカブの給油口を開けて、ノズルを差し込む。
古い給油機がガコンと低い音を立てて動きだした。
表示の数字がゆっくりと上がっていく。
ノズルはまだ差し込んだばかりなのに、表示はもうひとり旅にしては多い量を回していた。
給油をしながら男がふと手を止めた。
私の後ろのほうへ、視線を上げる。
カブの荷台よりも、もっと上だ。
ちょうど人がもう一人またがっているくらいの高さだった。

男の足元を見ると、濡れてもいない地面に、足跡が二人ぶん残っていた。
私の靴の跡のとなりに、もう一回り小さい誰かの跡がある。
跡は私のすぐ後ろから、給油機のほうへ点々と続いていた。
立ち止まって見ているあいだにも、その小さな跡だけが、すこしずつ増えていく。
「後ろの方は降りないのかい」
背筋にすっと冷たいものが落ちた。
後ろを振り返っても、そこには夜の道があるだけだ。
誰も乗っていない。
「ひとりです」
やっとそれだけ言った。
男は私の言葉を聞いていないようだった。
私の背後の高さを見たまま、小さくうなずく。
そこにいる誰かと、目を合わせたみたいに。

給油が終わった。
表示の数字は満タンにしては多すぎる量を示している。
私は財布を出して、その金額を払おうとした。
「二人ぶんもらうよ」
男はそう言って私の手から札を取った。
札を二枚抜き取って、釣りはよこさない。
受け取った領収書には、給油の量とは別に、人数の欄があった。
その欄に二という数字が書かれていた。
「行きはいいんだ」
男が給油機のノズルを戻しながら言う。
「帰りに気をつけな。後ろの人は降りる場所をずっと探してる」
何を言っているのか、聞き返したかった。
顔を上げたときには、もう男はいなかった。

事務所の灯も給油機のランプも、いつのまにか消えている。
あたりは来たときと同じ真っ暗な廃墟に戻っていた。
逃げるようにカブを出す。
来た道を引き返しはじめて、すぐに気づいた。
カブの後ろが重い。
荷物は積んでいないのに、後輪のあたりに人ひとりぶんの沈み込みがある。
背中にぴたりと貼りつくものがあった。
服の上から体温が伝わってくる。
後ろから私の背中に頬を押しつけているような熱だった。
ミラーを見た。
私の顔のすぐ後ろに、もう一つ頭の輪郭がある。
肩のすぐ向こうから、こちらをのぞき込んでいた。
やがてその輪郭は、私の肩越しに進む先の道のほうへ向き直る。
行く手を確かめるような、まっすぐな目の動きだった。

ちょうど耳のうしろで、息のような音がひとつ漏れた。
カブのスピードを上げても、背中の重みは離れない。
むしろ速く走るほど、しがみつく力が強くなる気がした。
信号もない真っ暗な道で、私はカブを停めた。
振り返る。
誰もいない。
冷たい夜気が首のあたりを撫でていくだけだった。
ためしに誰にともなく、どこまで行くのかと声をかけてみる。
返ってきた答えのかわりに、背中の重みがほんの少しだけ増した。
ふたたび走りだすと、また背中が温かくなる。
止まると消える。
動いているあいだだけ、後ろに誰かがいた。
家の近くまで来て、ようやく背中の熱が薄れた。

最後の角を曲がったあたりで、後ろの沈み込みが、ふっと軽くなる。
誰かがそこで降りたような感じだった。
あの夜のことをしばらく調べてみた。
あの給油所はやはり何年も前に店を畳んでいる。
最後まで年配の主人が一人で続けていたらしい。
廃業の少し前から、妙な話が地元にあったという。
夜にあの店で給油した車は、帰り道で後ろが重くなる。
誰かを乗せた覚えはないのに、家に着くまで後ろに人がいる。
家の近くまで来ると、その誰かは降りていく。
誰かが降りた場所には、決まって帰りを待つ家があったらしい。
後ろの人というのは、自分の帰る家を探して、知らない車に乗り込むのだという。
あの主人は店を閉めるまで、その客たちを一人ずつ見送っていたそうだ。
どこへ行くのかは、誰も知らない。

何を探しているのかも、分からないままだ。
私が撮った映像を、あとで見返した。
給油所の場面には、男の声が入っていた。
その「後ろの方は降りないのかい」のあとに、もう一つ小さな声が重なっている。
聞き取れるか取れないかの、細い声だ。
それは子どもの声にも、ずいぶん歳をとった人の声にも聞こえた。
何度も再生してみて、ようやく言葉になった。
「ここでいいです」
私のすぐ後ろで誰かがそう答えている。
あれから夜にカブで遠出をするのを少し控えている。
それでも走らなければならない晩はある。
家まであと少しという、あの最後の角に来たときだけ。
背中のすぐうしろが、ほんのいっとき温かくなる。


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