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花の前で

商店街へ行ったのは、妻の眼鏡を受け取るためだった。土曜日の昼過ぎで、私はその後に靴を見たかった。美紀は眼鏡屋の鏡を見ながら、古い方も捨てないでね、と言った。家の引き出しには、もう使わない眼鏡が三つあった。私は返事をせず、店の人が差し出した袋を受け取った。

店を出ると、美紀が私の左側へ回ってきた。私が袋をそちらの手へ持ち替えたので、邪魔だったのだろう。彼女は私の右側を歩きたがらない。理由は何度か聞いていたはずだが、その時は思い出さなかった。靴屋へ行く前に何か食べようと言うと、昼は家で食べたでしょう、と返された。美紀は朝から煮物を温めていた。そうだったなと思っているうちに、一本先の横道へ花を持つ人が曲がっていった。

花屋の前には、白い菊と黄色い菊を一本ずつ組にしたものが並んでいた。値札は三百円だった。私は二つ取り、代金を払った。誰にあげるの、と美紀が訊くまで、花を買うつもりで立ち止まった覚えさえなかった。
「あそこ、お葬式じゃないのか」
私が指した先には、閉まった店の前に長い台が出ていた。そこだけ人が集まっている。美紀は首を伸ばし、知ってる人、と訊いた。私はまだ顔を見ていなかった。

小さな額が、台の奥に立ててあった。白い髪の女の人が、片手で顎を支えて笑っていた。飾りのない写真だった。後ろには植木鉢らしいものが写り、口元に一本、深い皺があった。額の下に名前はなく、台の手前に「お花はこちらへ」と紙が貼ってあった。隣には花束が積まれていたが、供物も線香もなかった。

私は写真を見たところで泣いてしまった。
恥ずかしいので鼻を押さえ、顔を横へ向けた。それでも顎が震えた。美紀が袋を引き取ろうとしたので、私は花の方を渡した。結局、彼女は二つとも引き取り、片手に花、もう片方に眼鏡の袋を持って私を見ていた。
「誰なの」
声を出そうとすると、喉が狭くなった。女の人が片膝を折って、低い戸棚から何かを出す姿を思い出していた。開いた戸の裏に、赤い布が掛かっている。女の人は私を待たせたことを謝り、片手に蜜柑を載せて立ち上がる。爪の間に白い筋が残っていた。

私がどこでその人に会ったのかは、分からなかった。親戚の集まりだったのか、仕事先だったのか。けれど、渡された蜜柑の冷たさは覚えていた。その人の手も冷たく、二人で笑った。あんなに冷たい手の人が、もういない。そう考えると顔を上げられなかった。
「ちょっと、待って」
美紀が台へ近寄る私を止めた。私は、少しくらいいいだろう、と言った。写真の前で大きな声を出したくはなかった。美紀は花を渡し直し、一歩下がった。

隣にいた男が、端を空けてくれた。紺色の作業着を着た、私より少し年上の人だった。片方の手袋を外し、鼻を拭っていた。
「よくしてもらってね」
男は額を見ながら言った。私は頷いた。自分の知っていることを話したくなった。戸棚の赤い布のことを言うと、男は分からないという顔をした。
「俺は、店に来てもらう方だったから」
何のお店ですか、と訊きかけてやめた。思い出の違いを確かめる場所ではないと思った。男は外した手袋を両手で丸め、額の前へ置いた。すぐに持ち上げたが、花束の間に指を入れたまま、なかなか手を引かなかった。

私も花を置いた。水のついた切り口が台へ当たり、透明な包みに小さな滴が広がった。それを見ている間に、美紀が私の袖を引いた。
「靴は、また今度にしよう」
私は買い物の途中だったことを思い出した。腹の立つ言い方だった。靴はいつでも見られる。ここへ来たばかりなのに、もう行こうとする人の気持ちが分からなかった。
「先に帰ってていいよ」
そう言った途端、美紀の顔つきが変わった。怒ったのだと思った。私は写真へ向き直った。

女の人は、相変わらず顎に手を当てていた。今度は、私に傘を貸した時のことが浮かんだ。雨が上がりそうだったので断ったのに、持っていきなさいと戸の外まで押し出された。玄関の敷物がめくれ、私が足で直すと笑っていた。あの傘を返したかどうか、思い出せない。それがひどく申し訳なく、花を二組とも置いたのは少なすぎた気がした。

美紀が横から私の手を取った。握るのではなく、人差し指を一本、自分の指で挟んだ。その触り方をされるのが嫌で、私は手を引いた。
「そういうの、やめてもらえますか」
言ってから、自分でも奇妙に思った。美紀にそんな頼み方はしない。相手は手を下ろし、私を見つめていた。新しい眼鏡の下で、目の周りが赤くなっていた。
「今、私のこと分かる?」
私は、美紀だろ、と答えた。十四年、一緒に暮らしている。先月には風呂場の給湯器が壊れ、二日間、銭湯へ行った。そういうことなら幾らでも言えた。

それなのに、風呂上がりの美紀を思い浮かべようとすると、誰も出てこなかった。銭湯の入口も、洗い場も浮かぶ。帰りに寄ったコンビニで、二本の飲み物を買ったことも覚えている。その横にいるはずの人が分からない。目の前の顔を記憶の中へ置こうとすると、今の眼鏡を掛け、同じ袋を持ったままになる。
「今日、何を食べた」
私はさっきの会話を思い出し、煮物、と答えた。美紀が唇を引き結んだ。
「煮物だけじゃないよ」
美紀は怒鳴りもせず、私の口元を見て待っていた。私は箸でつまんだ物を思い出そうとした。

写真を見れば、台所にいたあの女の人の姿は、すぐに出てきた。火にかけた小さな鍋から、柔らかくなった葱を箸で引き上げている。熱いから待ちなさいと言われ、私は椅子に座った。醤油の染みた木の箸の感触まであった。私はあの家で何度も食事をしていた。ならば、家がどこかも知っているはずだった。最寄りの駅さえ出てこなかった。

「眼鏡、見て」
美紀が言った。私は言われたとおり見た。さっき受け取った、細い茶色の縁だった。
「これを選んだの、誰」
分からなかった。店の人が勧めたのだろうと思ったが、答える前に美紀が眼鏡を外した。鼻の両側に、小さな赤い跡があった。
「あなた、前のはきつそうだって、ずっと言ってた」
目の前の人に言われたので、私は頷いた。その顔を覚えているという感覚はなかった。長く見ていると、誰かを待つ間に何度も目が合ってしまう人のようで、気まずくなった。

私は台から離れた。美紀がついてくる。その歩き方まで初めて見る気がした。右の靴が少し鳴る。さっきから同じ音だったのかもしれない。私は通りの反対側まで行き、自転車置場の柵を握った。そこからも額が見えた。泣いている女の人が二人いた。作業着の男は、まだ手袋を握りしめていた。

美紀が、私の名を呼んだ。私は振り向いた。何度も呼ばれれば何か戻るかと期待したが、相手の声を聞いたことがある、という感じにさえならなかった。私も美紀の名を呼んだ。彼女は、うん、と返事をした。その後で、私の頬へ手を伸ばしかけ、途中で下ろした。
「どこで知り合ったか、覚えてる?」
彼女の言う職場の名前は知っていた。私は三十歳の頃に辞めている。そこで美紀と向かい合わせに使っていたという机も覚えていた。椅子の脚に輪ゴムを巻いたことがあった。ただ、美紀が向かいに座る姿だけが、どうしても作れなかった。

私は気持ちが悪くなり、柵の向こうへ屈んだ。吐きはしなかった。美紀が背を擦ったが、知らない人に触られているので、身体が固くなった。彼女はそれに気づき、少し離れた。
「ごめん」
謝らなければと思った。それでも、戻って花の前に立ちたかった。ここにいる人に幾つも質問をされるより、あの女の人の死んだことを考えていたかった。あの人を悼む間だけ、自分の思い出を疑わずに済んだ。

作業着の男が、こちらへ歩いてきた。小柄な女の人が隣にいた。女の人は男の袖をつかみ、顔を覗き込んでは何か話していた。男は立ち止まり、手袋を持っていない方の手を振った。
「ちょっと、一人にしてください」
女の人が袖を離した。男はその隙に台へ戻った。彼女は後を追わず、空いた手を見た。美紀が一歩近づきかけたが、私の方へ戻ってきた。何を言えばいいか分からない、と小さな声で言った。

「私の方も、おかしい」
美紀は眼鏡を掛け直しながら言った。
「さっきまで、お昼のことを覚えてたのに。あなたが何て言ったか、出てこなくなった」
私は、それなら今日は何を作ったのかと訊いた。美紀は料理の名前を三つ言った。私が残した茄子も覚えていた。ただ、食卓で聞いたはずの私の声も、箸を持つ私の姿も出てこないらしい。彼女の目が私から外れ、通りの向こうへ動いた。
「あの人、私の書いた字を褒めてくれた」
彼女はそう言ってから、自分の口を押さえた。

私は写真を見た。女の人の手は、少しも動いていなかった。美紀は、買い物を頼まれて、メモを書いて、と続け、そこで言葉を切った。台のそばでは誰かが、もう一度会いたかった、と泣いていた。私はその人に頷きたくなり、柵から手を離した。

美紀が私の前へ出た。私をつかまえるのではなく、背中を向けて立ったので、額が見えなくなった。
「どこか、座りたい」
私は頷いた。美紀は、そっちに来て、と花台とは逆を指した。私たちは横道を戻った。花屋の店先には、さっきと同じ二本組があった。私は一つ取りかけた。美紀は止めず、何に使うの、と訊いた。答えられなかった。花を戻すと、包みが隣の花の葉に引っ掛かった。外すのに手間取り、その間も、美紀は先へ行かなかった。

靴屋の横に小さなベンチがあった。美紀は端へ座り、私の分を空けた。私は反対の端に腰を下ろした。二人の間に、眼鏡屋の袋が置かれた。女の人の葬式に最後までいなかったことを、私はまだ後悔していた。誰の葬式かも分からず、式が行われていたかも知らない。目を閉じると、鍋の葱を皿へ移す手が見えた。目を開ければ、知らない女の人が膝を揃えて座っていた。

美紀は結婚指輪を回していた。抜いて内側を見せようとしているのだと分かり、私は、いいよ、と言った。
「疑ってるわけじゃない」
自分の指輪にも傷がある。彼女と結婚しているという話を、嘘だとは思わなかった。そう言うと、美紀は指輪を元へ押し戻した。私の方を見ないまま、どちらの手に鞄を持つか迷い、いったん膝へ戻した。

私はその鞄を持とうと手を伸ばした。美紀が先に取ったので、指が触れた。彼女の肩が少し上がった。先ほど私がされた時と、同じ反応だった。私は手を引き、鞄を持ってもいいかと訊き直した。
「重いから」
付け足すと、美紀は鞄を開け、中の財布を自分の上着へ移した。それから両手で私に渡した。私は受け取って膝へ載せた。彼女が財布を抜いたことを、気にしない顔をしようと思った。

しばらくして、どちらから帰るのかと美紀が訊いた。私は家への道を覚えていた。一緒に来てもらえますか、と言うと、美紀は頷き、先に立ち上がった。私は鞄を抱えて立った。道を空けるつもりで左へ寄ると、彼女も同じ方へ動いた。二人で一度止まった。美紀は、こっちの耳の方が聞きやすいの、と自分の右耳を指した。

私は自分の左側を空けた。十四年間、何度も聞いたはずのことを、初めて教えられたように聞いていた。あの女の人の冷たい手を思い出し、また涙が出た。美紀はそれを見て、鞄の外側に紙がある、と言った。私は勝手に開けていいものか迷い、彼女が頷くのを待ってから、ポケットへ指を入れた。

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