祖父に新しい連れ合いができた時、修司は大学を出て、隣の県で働いていた。
結婚すると聞かされたわけではない。久しぶりに実家へ帰ったら、母に、今日はお祖父ちゃんの家には寄らなくていいから、と言われた。
何度聞いても、今ちょっとごたごたしている、としか答えなかった。祖母が亡くなって半年も経っていない。修司は金の問題でも起きたのかと思った。
祖父の家は、実家から歩いて十五分ほどの所にあった。
もとは農家だったが、裏の畑は人へ貸していた。家の前に庭があり、その半分ほどを池が占めていた。岸には大きな石が並び、向こう側へ回らなければ、玄関から池の底は見えなかった。
祖父はそこで鯉を飼っていた。赤いのや、白地に黒い斑のあるのが、石の陰からゆっくり出てきた。餌の袋を振ると、魚が重なって水を跳ねた。
子供のころの修司は、あの池が嫌いだった。
小学三年生の時、祖父に留守番を頼まれたことがある。
祖母は買物に行き、祖父は近所の人に呼ばれて外へ出た。餌をやっておいてくれと言われた修司は、袋を半分ほど撒いてしまった。
水が濁り、魚の姿が見えなくなった。
その中から白いものが浮いたので、餌を吐いたのだと思った。
白いものは池の端へ寄ってきた。小さな櫛だった。
幅は修司の指を揃えたくらいで、歯の根元に黒いものが絡まっていた。修司は網で掬い、石の上へ置いた。
祖母が戻ってきた時にも、そこにあった。
これ、どこにあったの、と祖母は訊いた。池から出たと言うと、すぐには触らず、買物袋を足元へ下ろした。
やがて新聞紙を持ってきて、櫛を包んだ。修司には、手を洗っておいで、と言った。
その後、池へ網を入れると叱られるようになった。
祖父は、魚を追い回すなと言った。祖母は何も理由を言わなかった。ただ、修司が庭で遊んでいると、用もないのに縁側へ出てくるようになった。
修司は、やり過ぎた餌のことで二人に嫌われたのだと思っていた。
高校生になるころには、櫛のこともほとんど忘れていた。
祖母が病院へ入ったのは、その数年後だった。
修司が見舞いに行くと、祖母は庭の池のことを話した。鯉を欲しい人へ分け、底を埋めて、平らにしてほしいという。
庭仕事をする人がいなくなるからだろうと、修司は思った。
「じいちゃん、怒るんじゃない」
そう言うと、祖母は布団の縁を握った。
「魚だけは、よそへやって」
それだけ言って、しばらく黙った。
次に見舞いに行った時も、同じことを頼まれた。
修司は、退院してから二人で話してくれと言った。祖母が自分の死んだ後の庭を決めているようで、聞いていたくなかった。
祖母は頷いた。退院できると思っている顔ではなかった。
修司の帰り際に、鯉を移したら水を入れないでね、と言った。
分かったよと答えたものの、祖父にも母にも伝えないままになった。
祖母の葬儀が終わると、祖父はしばらく実家に泊まった。
夜中に起きて庭へ出ようとするので、母は玄関の音がすると目を覚ました。自分の家の池へ餌をやりに行くのだと言った。
鯉なら近所の人が見てくれている。そう説明しても、じゃあ任せておけばいいか、と納得する日は少なかった。
半月ほどして、祖父は自分の家へ戻った。
一人では困るだろうと母が通ったが、だんだん嫌がるようになったという。
修司が祖父の家を訪ねたのは、その年の夏だった。
母には散歩へ行くと言って出た。祖父とは仲がよかったし、金のことで誰かに言いくるめられているなら、間に入りたいと思った。
庭へ入ると、玄関の網戸が開いていた。
知らない女の人が、廊下を雑巾で拭いていた。
年は、修司の母より少し上くらいに見えた。
地味な半袖の服を着て、髪を後ろでまとめていた。髪を留めている白いものを見て、修司は一瞬、子供のころの石の上を思い出した。
櫛に似ていた。だが、こんな物はどこにでもある。
女の人は修司に気づくと、雑巾を膝へ置いた。
「大きくなって」
昔、どこかで会った人なのだろうと思った。
祖父は奥から出てきて、上がれと言った。
女の人をどう呼べばいいか分からず、修司は話すたびに祖父の方を見た。祖父は特に紹介しなかった。
女の人は台所へ行き、冷たい茶を出してくれた。修司が一口飲むと、甘いものは食べますか、と訊いた。
祖母なら、訊かずに菓子を出していた。
その違いが妙に寂しく、修司は食べますと答えた。
祖父は機嫌がよかった。
畑を借りている人のこと、屋根を直す費用のこと。何か話すたびに、そうだったな、と台所へ声をかけた。
女の人は、ええ、と答えた。
修司が、いつから来てもらっているの、と訊くと、祖父は少し考えた。
「前からよく来てた」
女の人は否定しなかった。
茶碗を下げる時、修司の湯呑みの置き方を、ほんの少し直した。
帰って母に話すと、やはり祖父の家へ行ったのかと言われた。
母も女の人には会っていた。近くに住んでいると言うが、どの家かは教えてくれない。祖父に訊くと、根掘り葉掘り詮索するなと怒る。
金をせびっている様子はなく、むしろ買物をして持ってくる日もあった。母が心配したのは、その親切を祖父が、もう当然のように受けていることだった。
「おばあちゃんの物まで出してきて、使っていいって言うの」
母はそう言って、顔を背けた。
秋に帰った時、女の人は祖父の家に住んでいた。
修司が手土産を渡すと、わざわざすみませんと頭を下げた。祖父は座敷から、うちの者にそんな遠慮はいらん、と言った。
女の人は、困ったように笑った。
その日の服は、細かな青い模様がついていた。袖の縁だけ、布の色が濃かった。
修司は、祖母が同じ柄の服を着ていた気がして、母に写真を見せてもらった。
ところが似たものはなかった。
箪笥から残してあった祖母の服を出してもらっても、見つからなかった。母は途中で手を止め、何か気になるの、と訊いた。
修司は、別に、と答えた。
似ているから嫌なのではなかった。あの青い柄を、服ではない所で見た覚えがあった。
思い出したのは、年が明けてからだった。
高校へ入る前の春、池の縁の石に、細い布が引っかかっていた。青い模様のある、帯のような布だった。
拾おうとしたら、池の中へ続いていた。
祖父が、それはいい、と手を止めさせた。修司は藻だと思い直した。濡れた布と藻の違いなど、その時は気にしていなかった。
けれど祖父は、その後も長い間、石のそばにしゃがんでいた。
修司は母に、池を埋める話をした。
祖母が入院中に頼んでいたことも、そこで初めて伝えた。母は、どうして今まで黙っていたの、と言った。
修司には返事ができなかった。
翌月、二人で祖父の家へ行った。庭を平らにすれば転ぶ心配も減るし、草取りも楽になる。母はあらかじめ考えてきた理由を順番に話した。
祖父は首を縦に振らなかった。
女の人は、縁側で干した豆を選っていた。
母と祖父の声が大きくなっても、手を動かしていた。修司はそちらへ向き直り、池のことをどう思いますか、と訊いた。
女の人は顔を上げた。
「私は、どちらでも」
その答えに、祖父の方が慌てた。
「ここにおればいい」
女の人は、ええ、と言った。修司の母は黙った。
池には、そのころ二匹しか鯉が残っていなかった。
翌年には一匹になり、それもいつの間にか見なくなった。修司が訊くと、祖父は、人へやった、と言った。相手の名前までは聞けなかった。
魚がいないなら埋めてもいいだろうという母の申し出も、祖父は断った。
水は相変わらず張ってあった。
女の人は、魚のいない水面へ、毎朝何かを落としていた。
やがて祖父が体を悪くし、入退院を繰り返すようになった。
家の片づけを手伝いに行った修司は、庭で女の人に会った。池の縁へしゃがみ、長い棒の先に何かを掛けて引いていた。
祖父の靴下だった。
片方を石へ置くと、また棒を水へ入れた。修司は縁側に立ったまま、その手元を見ていた。
もう片方も上がってきた。履き口から水が流れた。
「洗濯物を落としたんですか」
女の人は答えなかった。
靴下を両方並べ、片方の踵を上へ向けた。祖父の靴下は、いつもそこから薄くなった。
修司は、庭の物干しを見た。竿には何も掛かっていなかった。
女の人は池へ顔を戻し、しばらく待っていた。
何かが来るのを、棒を下ろしたまま待っていた。
修司が近づくと、女の人は初めて顔を上げた。
「これ、捨てるのかと思って」
石の上の靴下を指した。
修司には、誰に言われたのか分からなかった。入院する時に洗濯物を分けたのは母だったが、靴下を捨てたとは聞いていなかった。
乾かしておきます、と女の人は言った。
いつもと同じ、穏やかな声だった。
祖父はその冬、病院で亡くなった。
女の人は葬儀には来なかった。母が連絡先を知らず、家へ行ってもいなかったからだ。
祖父の荷物を片づける間も、帰ってこなかった。
座敷には寝具が二組あり、台所には女の人の使っていた茶碗があった。母はそれらをすぐには捨てられず、一部屋へ寄せた。
池をどうするかは、春まで待つことになった。
三月の初め、修司は母に頼まれ、家の窓を開けに行った。
門を入ると、縁側に女の人がいた。
祖父の服を畳んでいた。誰も着なくなったはずのものだったが、肩と袖が濡れていた。
庭の石には、あの靴下が二つ並んでいた。
修司は鍵を手に持ったまま立ち止まった。
女の人は顔を上げ、修司を見ると笑った。
「今日はずいぶん遅かったね」
祖父に話しかける時と、同じ声だった。
修司は返事をしなかった。
女の人の前には、濡れた服がもう一組あった。祖父のものよりずっと小さく、上着の胸に、黄色い名札がついていた。
名字の下には、しゅうじ、とあった。入学したばかりの修司が、いつも裏返して遊んでいた名札だった。
女の人は膝の上の服を脇へ置き、小さな上着を持ち上げた。
「まだ、こっちの方がいいのかな」
首を傾げた。
修司は一度だけ、池の方を見た。水は静かで、魚はいなかった。
それから門へ戻った。女の人に背を向けられず、門柱へ踵をぶつけた。道路へ出てから、母に電話した。
母はその日のうちに、池を埋める人を探した。
工事に立ち会ったのは母だけだった。修司は仕事を理由に帰らなかった。
家は今、誰も住んでいない。
玄関と門の間に、四角い砂利の庭がある。修司は年に何度か草取りに行くが、祖母に頼まれた通りにできたとは、まだ思っていない。
池を埋めた日に女の人がいたかどうか、母には訊けないでいる。


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