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夜の白布

虫を見に行くという話だったので、私は昼間のうちに山へ入るものだと思っていた。
電話で集合時刻を確かめると、夕方の六時だと言われた。夜に灯りをつけ、白い布へ飛んでくる虫を見るのだという。
それなら私にも手伝えると思った。
仕事を辞めて、三週間ほど経っていたころの話だ。知り合いに頼まれた半日の手伝いでも、その時の私にはありがたかった。

水野先生は、退職した学校の先生だった。
植物や虫に詳しく、町の催しで子供を連れて歩くこともあるらしかった。連れていってくれる知人は、説明が少し長いけれど悪い人ではない、と言った。
私は虫の名前をほとんど知らなかった。見つけたものを大きさで分けたり、箱を持ったりするくらいならできる、と返事をしておいた。

当日は知人の都合が悪くなり、先生と私の二人になった。
私は昼過ぎに家を出た。早く着いてしまったが、先生に電話するのも気が引け、集合場所の手前にあった小さな駐車場へ車を入れた。
見晴らしのよい場所だった。道路の下には斜面があり、細い川が見えた。
私は窓を開け、持ってきたパンを食べた。

その時、父から電話があった。
仕事のことを訊かれたので、今は休憩だと答えた。
辞めたことは、まだ両親に話していなかった。先に次の勤め先を決め、移ったとだけ言うつもりだった。父は、しっかり飯を食えと言い、電話を切った。
私は食べかけのパンを袋へ戻した。
車から出て、しばらく手摺へもたれていた。

下の藪で、枯葉を踏むような音がした。
猿か何かがいるのかと思った。木の枝に、茶色い物が引っかかっていた。大きな枯葉のように見えたが、周りの葉が揺れても、それだけは動かなかった。
私は携帯を向けかけてやめた。虫だったら、拡大してまで見たくなかった。
車へ戻る時、右の頬が濡れていたことに気づき、手の甲で拭った。

六時前に集合場所へ行くと、水野先生は軽い上着を脱ぎ、車の屋根へ広げていた。
私は名前を言い、遅れていませんかと確かめた。
先生は時計を見て、早いくらいだと言った。
荷物は先生の車に積んであった。私の車を駐車場へ残し、隣へ乗った。そこから山道を十分ほど上がり、舗装の終わる手前の空き地で止まった。

谷に向かって開けた、草の低い場所だった。
先生は二本の棒を立て、その間へ白い布を張った。私は布の下を引き、皺を伸ばした。灯りの向きや、箱を置く場所は、先生の言う通りにした。
虫を見るための準備なのに、何かを映す幕を張っているようだった。
私は、夜の山は怖くないんですか、と訊いた。

先生は笑った。
「怖いのは、人のいる山だよ」
昔、誰も来ないと思っていた林道で、人と鉢合わせしたことがあるという。虫を見ているだけなのに、何を探っているのかと詰め寄られたそうだ。
先生は、それから場所を選ぶようになったと言った。
「人の気配のある所は、分かるんだ」
そう言って、谷の方へ顔を向けた。
しばらく耳を澄ませ、ここは大丈夫、と灯りを点けた。

薄暗くなると、小さな虫が白布へ集まり始めた。
羽のあるもの、細長いもの、布の上を歩くだけのもの。先生は順番に名前を言い、私に形の違いを見せた。
ひっくり返って落ちたものを拾い、また布へ戻した。指先の動きが早かった。
私は虫に触れなかったが、怖がってばかりもいられないと思い、蓋のある小箱を持って先生の隣に立った。

大きな茶色の物が、布の端へ止まった。
昼間、駐車場の下で見た物に似ていた。両側へ折れた薄い面があり、真ん中が盛り上がっている。枯葉に似ていたのは、ただ色が茶色いからではなかった。
葉脈のような筋が、途中で切れていた。
その切れ目から、別の色が見えた。
私は、これも蛾ですか、と訊いた。
先生は布の反対側で箱を閉めながら、そう、と答えた。

「何ていう蛾ですか」
返事はすぐにはなかった。
私は少し近づいた。
茶色い面の端がめくれ、その内側に、湿った赤いところが見えた。口の中を、横から覗いたようだった。
私は小箱を下ろした。
先生が戻ってきたので、ここを見てくださいと言った。先生は私の手元を見て、蓋を開けたままにしてはいけないよ、と箱を取った。

私は白布を指した。
茶色い物は、もう端にはいなかった。
落ちたのだと思って草を見たが、見つからなかった。
先生は、ああいう形のは見失いやすいんだ、と言った。虫は食われないように色々な形をしている。枯葉そっくりなものも、枯枝にしか見えないものもいるのだという。
私は、それは知っています、と答えてしまった。

少し気まずくなり、私は離れた所で空き箱を揃えた。
先生は私を叱らず、また来れば見せるからと言った。
谷の下で、何かが鳴いた。短く三つ、間を置いてまた二つ。鳥だろうと思った。
先生も顔を上げた。
何という鳥か尋ねると、先生は、今のは虫だ、と言った。

次に聞こえた音は、もっと近かった。
笑ったように聞こえた。
私は先生を見た。先生は白布の真ん中へ止まったものを見ていて、気づいていないようだった。
笑い声は、私の右後ろからした。
私は振り返り、灯りの外を見た。車と、草と、その向こうの木があるだけだった。

「何か聞こえますか」
先生は、色々聞こえるよ、と言った。
私にはどれも同じように聞こえるのだろうが、慣れると区別できるのだという。ひとつずつ教えてくれようとしたので、そういうことではない、と遮った。
人が笑っている。
そう言うと、先生は口を閉じた。
耳を澄まし、しばらく私と同じ方を見た。

「人はいない」
先生は言った。
昼間に場所を見に来て、林の奥まで確かめてある。道から入ってくれば、車の灯りか足音で分かる。
何度も来ている所だから、見えない場所のことも分かるのだと。
私は頷いた。
先生に説明してもらうために来たわけではなかった。けれど、何も分からない自分より、この人の方が正しいと思う癖が、その一晩でついていた。

灯りが一度、弱くなった。
先生が電源の方へしゃがんだ。
私は白布を押さえた。風が出たのではない。下の隅がめくれ、片側だけが後ろへ引かれていた。
結んだ紐が緩んだのだと思った。
布の裏から、男の声がした。

「休憩だって」
小さな声だった。
私は手を離した。
男が鼻で笑った。
「仕事、もうないのに」
私が父へ隠したことだった。

先生、と呼んだ。
声が裏返った。
先生はしゃがんだまま、少し待って、と言った。私は、誰かいる、と言った。
先生が立ち上がり、布の裏へ回った。
私は止められなかった。
白い布の向こうで、草が踏まれた。先生は紐を張り直し、いるのは草ばかりだよ、と戻ってきた。

私は、もう帰りますと言った。
先生は不機嫌そうな顔になった。
まだ始めて一時間くらいだった。私は手伝うと言って来たのに、片づけの途中でもない所で帰ろうとしている。
そう思うと、理由を説明しなければならない気がした。
父への電話を聞かれていた、と言った。
先生は、誰に、と訊いた。
私は、分かりませんと答えた。

先生は私の顔をしばらく見ていた。
それから、昼間、どこにいたのかと尋ねた。
駐車場で父と話したことを言うと、電話の声は遠くまで聞こえるんだよ、と言った。
誰かが近くにいたのだろう。そう考えれば、驚くようなことではない、と。
「ここには人がいないんじゃなかったんですか」
私が訊くと、先生は答えなかった。

私は先生の車へ行き、助手席の扉を開けた。
自分の車まで送ってもらわなければ帰れない。それを忘れて、座った途端に悔しくなった。
白布は車の前方、十歩ほど先にあった。先生の姿は見えた。
私は扉を引き寄せ、窓も閉めた。
先生は一度こちらを見たが、まだ箱を片づけようとはしなかった。

フロントガラスの左端に、茶色いものが貼りついていた。
昼間と同じ形だった。
私は顔を後ろへ引いた。
茶色い面が少し持ち上がった。ガラスに触れている側に、細かい歯が並んでいた。
それが虫のどの部分なのか、もう先生に尋ねるつもりはなかった。

歯の間が開いた。
声がした。
窓は閉まっていた。
「撮ればよかったのに」
昼間、私は誰にも何も言わず、携帯を向けるのをやめた。
それを思い出し、私は膝の上で携帯を裏返した。

先生が箱を車の後ろへ積んだ。布を外す音がして、灯りが消えた。
運転席へ戻ってくると、虫が苦手だったんだね、と言って、鍵を差した。
私は前を指した。
先生はガラスを見て、ワイパーのつまみへ手を伸ばした。
やめてください、と私が言うと、先生は手を止めた。
「葉っぱだよ」
私は首を振った。
先生はもう一度ガラスを見た。そのまま、しばらく鍵を回さなかった。

エンジンがかかった時、先生の膝が震えているのが見えた。
何も言わずに車を出した。灯りに照らされた木が、一列ずつ後ろへ流れた。
茶色いものは、風でも落ちなかった。
私はそこを見ないように、窓の下の取っ手を両手で握っていた。
先生は一度も、あれの名前を教えてくれなかった。

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