船で荷物を運んでいたころ、宛名を声に出して読む癖があった。耳でも確かめておけば間違わない。人数の少ない会社だったから、一個の誤配でも翌日の仕事に響いた。
その癖をやめたのは、辞める年の秋だった。老眼になったせいじゃない。声に出すと、返事をする荷物があると知ったからだ。
木の箱だった。蜜柑箱より少し長く、古い引き出しを板で塞いだような形をしていた。底に鉄の車輪が四つついていたが、一つだけ回らない。港の待合所の庇の下に、ほかの荷物と並べて置いてあった。
出航は夕方の四時だった。朝の便が風で欠航して、荷物が溜まっていた。私は名簿と照らし合わせながら積み、最後にその箱が残った。荷札の表には「井上修繕所」、その下に島の名前があった。
「これ、誰が持ってきた」
事務の女の人に聞くと、分からないという。裏に書いてあるんじゃない、と言われ、札を返した。荷物を置いた人の名ではなく、地図が描いてあった。港から坂を上がり、二つ目を海のほうへ折れる。赤い丸が目的地だった。
井上という修繕屋は知っていた。船の小さな故障なら何でも直す人で、私も若いころ世話になった。道具を貸すときは文句を言うが、返しに行くと使い方を教えてくれた。十年ほど前に店をやめ、島を出たと聞いていた。
伝票がないので置いていくことも考えた。ただ、朝から置かれた荷を一晩、雨ざらしにするのも気が引けた。着いたら港で聞けばいい。私は名簿の余白に箱一個と書き、荷札の宛名を読み上げた。
船べりの下で、水を打つ音がした。誰かが泳いでいて手を上げたような音だった。私は箱を載せかけたまま見下ろした。係船用の古いタイヤが一つ、波に持ち上げられていた。
島までは四十分ほどかかる。風は落ちていたが、船はよく揺れた。甲板に積んだ袋が動くたび、箱の車輪が短く鳴った。私は足で押さえながら、箱の中に何が入っているか考えた。音のしない、重いものだった。
船長は同じ会社の先輩で、名前を武田さんといった。私が井上さんの話をすると、まだ生きてるのか、と訊いた。知らないと答えると、知らん荷をよく積むな、と笑った。責めているわけではなかった。島へ行く荷物には、そんなものも時々あった。
港では宿の人や商店の人が待っていた。順に荷を渡し、最後に箱のことを聞いた。井上の修繕所、と言うと、皆、坂の上を見た。一人が、もうないだろう、と言った。家は残っているはずだという人もいた。届け先を確かめてくれる人はいなかった。
武田さんは次の港へ回る前に、二十分だけ待つと言った。荷札の地図なら、往復しても十分かからない。私は箱を台車に載せ、坂を上がった。
島の家は塀が低く、台所の窓から夕飯の支度が見えた。鍋を火にかけた女の人が私を見て、どこまで、と訊いた。
「井上さんとこ」
「下でしょう」
荷札を見せると、女の人は眉を寄せた。
「それ、昔の道だよ」
二つ目の曲がり角へ行くと、道の先は草で塞がっていた。家は見えなかった。女の人が追いついてきて、台車を引くのを手伝ってくれた。そこは以前、岬へ続く道だったが、大雨で崩れて通れなくなったという。
「井上さんの家も?」
「そこは壊してない。下から行けるよ。潮が低ければ」
私は礼を言って港へ戻った。武田さんに事情を話すと、船から見てみようと言った。修繕所には船を横づけしたことがある。家の下に小さな作業場があり、引き上げた船を直していた。その辺へ置いて、誰かに伝言してもらえばいいということになった。
岬を回るころには、陸の上だけがまだ明るかった。海面は黒く、家の窓に映る夕日が赤かった。私は船首に立ち、見覚えのあるコンクリートの斜面を探した。二軒の家の間に、白い道が見えた。奥に、トタン張りの低い建物があった。
「あそこ」
指をさすと、武田さんは速度を落とした。
「斜面、あったか」
「ありますよ」
武田さんは窓から顔を出して見たが、首を傾げた。私には、コンクリートに刻まれた滑り止めの横線まで見えていた。海水に濡れた下半分が黒くなっていた。
船を寄せるにつれ、白い斜面が細く見えた。満潮が近いからだと思ったが、濡れた線は同じところにあった。潮の高さは変わっていない。斜面だけが、岸の奥へ引っ込むように短くなっていた。
武田さんが船を止めた。私は箱の紐をほどき、台車から下ろした。斜面に足をかけるには、少し距離があった。船べりにつかまって、まず箱を置こうとしたとき、海の中で青い光が動いた。
細い魚が何匹も並んでいるのかと思った。光は二列あって、船から修繕所まで続いていた。斜面の両脇に沿うように、ゆっくり揺れた。
「足、出すなよ」
武田さんが言った。私は引っ込めた。
「底、ないぞ」
私にはコンクリートが見えていた。光の間に、乾いたところさえあった。片足を置けば、靴底が鳴りそうだった。
武田さんは長い竿を出した。私が立とうとしていたところへ差すと、竿は抵抗なく沈んだ。沈んで、先が見えなくなった。武田さんは私を見なかった。黙って竿を引き上げ、舷側に置いた。
家の奥から、戸を開ける音がした。
「そこ、置いといてくれ」
男の声だった。井上さんの声だと思った。何年も聞いていない声なのに、そう思った。
私は返事をしそうになったが、武田さんが片手を上げた。誰もいない戸口を見ていた。
「聞こえたか」
「はい」
「何て言った」
私が答えると、武田さんは口を結んだ。それから、小さな声で言った。
「俺には、乗せてくれって聞こえた」
エンジンの振動で箱が少し動いた。止まっていたはずの車輪が回り、船べりへ向かって転がった。私は取っ手をつかんだ。箱は見た目より軽くなっていた。持ち上げると、中で何かが片側へ寄る感触がした。海で濡れた作業着をまとめて運ぶときのような、重みだった。
荷札が裏返っていた。地図の赤い丸が、水で滲んでいた。紙を指で拭くと、港へ戻る道だと思っていた線が、箱の下へ続いているように見えた。私は札を伏せ、箱の上に両手を置いた。
武田さんは船を沖へ出した。家が遠ざかるあいだ、私は箱を押さえていた。誰かが中から押しているわけではなかった。それなのに、手を離したら箱がひっくり返り、開いてしまうと分かっていた。
青い光が船の横についてきた。水を切る白い泡の下を、細い列が乱れず進んだ。武田さんが速度を上げると、光も速くなった。島の港の灯りが見えるころ、列は急に短くなり、ひとつずつ消えた。
私たちは次の港へ行かなかった。会社に連絡し、機械の調子が悪いと嘘をついて引き返した。荷を待っている人には、あとで二人で謝った。そのときの私には、箱を一刻も早く、積んだ場所へ戻すことしか考えられなかった。
待合所は閉まっていた。箱を庇の下へ置き、朝に事務員へ説明するつもりでいた。武田さんが先に船へ戻ると、私は名簿の余白に、持ち戻り、と書いた。
「井上修繕所」
無意識に、また声に出していた。
待合所の中で、椅子が鳴った。誰かが座り直した音だった。窓の曇ったガラス越しに、ベンチの端が見えた。昼間、誰も座っていなかった場所に、膝が二つ並んでいた。作業ズボンの膝だった。
私は箱を抱え直した。車輪がコンクリートを擦り、甲高く鳴った。膝が動いた。立ち上がろうとしていた。私が海のほうへ歩くと、待合所の中の足音も、同じ速さでついてきた。
窓が途切れるところまで来ても、私は振り向かなかった。
船へ戻ると、武田さんは何も聞かず、箱を受け取った。船倉には入れず、甲板の真ん中に置いた。二人で離れて座り、夜が明けるまでそこにいた。
途中、一度だけ箱の中で水が動いた。船はほとんど揺れていなかった。
朝の職員が来る前に、武田さんが荷札を外した。針金を切るには、私が箱を押さえる必要があった。武田さんは札を裏返し、それから私を見た。
「これ、お前の家だろ」
赤い丸の横に、私の姓があった。港から上がって二つ目の角を曲がるのは、私が子供のころ住んだ家への道だった。島の道とは違う。昨日まで気づかなかったことが信じられなかった。荷札に描かれた港の形も、防波堤の向きも、私の故郷のものだった。
家はもうない。父が死んだあと更地にして、隣の家に売った。赤い丸の場所には、車庫ができている。
私は父の名を言いそうになって、口を閉じた。
箱は会社の倉庫に置いた。事情を全部話すと、社長は最初、困った顔で笑った。武田さんが笑わなかったので、途中から黙って聞いた。開けてみようという話にはならなかった。紙には持ち主不明と書かれた。それ以上、誰も詳しく書こうとしなかった。
後日、井上さんの消息を確かめた。本人は本土の娘さんのところで元気にしていた。電話をかけると、箱の車輪が一つ動かないことまで知っていた。
「ああ、俺が作った道具入れだ」
どこかへ送ったかと聞くと、そんな重い物は持って出ていない、と答えた。店の奥に置いてきたらしい。
「まだあったのか。あの家、床が抜けただろうに」
私は、荷札のことは聞かなかった。井上さんが父を知っていたかどうかも、確かめなかった。知りたいと思わなかったわけではない。もし父の名前が会話に出たら、自分も返事をしてしまいそうだった。
年末、私は会社を辞めた。武田さんは送別会で酔い、あのときお前を下ろしていたら、俺は一人で帰ったのかな、と言った。私は笑えなかった。武田さんも、それ以上は言わなかった。
倉庫に置いた箱は、しばらくして軽くなったという。運ぼうとした若い社員が、空っぽじゃないですか、と言ったらしい。ただ、開けたという話は聞かない。荷札は今も社長が机の引き出しに入れている。表には、井上修繕所。裏は、見ないようにしているそうだ。
私は年に一度、会社へ挨拶に行く。倉庫の前を通るときは、なるべく誰かと話をする。天気のことでも、魚の値段でもいい。口を動かしていれば、間違って名前を言うことはない。
この前は、少し離れた場所から呼び止められた。若い社員だった。返送する荷物を持って、宛先が分からないと言っていた。
「裏に、地図しかないんですけど」
私はその場で止まり、こっちへ持ってくるな、と言った。
社員は驚いた顔をした。それから、宛名ならあった、と札を返した。
私が耳を塞いだのを見て、彼は読み上げるのをやめた。


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