余った給食を子供に渡していいかと聞かれて、芳江は駄目だと答えた。勝手に渡せば、食べてはいけない物まで食べさせるかもしれない。そう説明すると、若い調理員の岸さんは「ですよね」とうなずいた。
「何年生だった?」
「分からないです。小さい子。返却口から声だけで」
「次に来たら、担任の先生に言ってねって」
岸さんはもう一度うなずき、流しの中の鍋に向き直った。
月曜日は揚げパンだった。子供たちの好きな献立で、食べ残しが少ない。芳江は調理室の外に立ち、食器を返しに来る当番に、パンの屑をこぼさないよう声をかけていた。一年生の男子が、空の箱を抱えたまま立ち止まった。
「おばちゃん、余った?」
芳江はしゃがんだ。
「おかわり、できなかったの?」
「僕のじゃない」
隣の子が袖を引いた。
「いいから。あとで言えば」
二人は箱を置いて走っていった。ひと組、次のひと組と当番が来た。芳江は一年の担任を見つけ、さっきの子のことを伝えた。担任は配膳の数を間違えたのかと青くなり、教室へ戻った。
その日の片づけの終わりに、揚げパンが一本戻ってきた。紙袋に包まれ、箱の端に置いてあった。芳江は袋を開いて、少しだけかじった跡を見た。調理室の揚げパンは、箱に直接並べて教室へ運ぶ。紙袋は使わなかった。
午後、担任が謝りに来た。数は合っていた。子供たちにも聞いたが、おかわりできなかった子はいないという。
「茶色の、胸に恐竜がついてる服の子です」
芳江が言うと、担任はその子の名前を答えた。直人というらしかった。
「今日はお休みなんですけど」
芳江は、似た服を着た別の子でしょう、と言った。担任も、そうですね、と笑った。子供の服はよく似ている。
水曜日に、また声がした。岸さんは休みで、芳江が返却口の網戸を洗っていた。外へ開く腰の高さの窓で、子供が立っても頭のてっぺんしか見えない。
「余ってますか」
芳江は手袋を外した。
「何年何組?」
「先生に聞いてきました」
「先生の名前は?」
返事がなかった。芳江が窓に近づくと、廊下の床を、白い上履きが二足、壁際へ動いていった。一人がもう一人を引っ張っているような動きだった。
「待って。先生に連絡するから」
二人は階段のほうへ曲がった。
芳江は職員室へ電話をかけた。一年の先生なら校庭にいると言われたので、あとで話そうと思い、余りのシチューを片づけた。具のついた鍋は、水を張る前にへらでこそげる。鍋の底に残ったものを集めるうち、これは子供一人分くらいある、と考えてしまった。
その日の返却食器に、シチューを少し残した椀が一つあった。最後のクラスが返したあと、さっきまで空だった台に載っていた。芳江は洗い忘れたものだと思った。内側に、こびりついた茶色い皮があった。昼に出したシチューが、そんなふうに乾くには早すぎた。
直人は木曜日に登校した。芳江は給食の時間に教室へ行き、担任に頼んで話をさせてもらった。胸に恐竜の服を着ていた。月曜に会った子と同じだと、今度ははっきり分かった。
「この間、お話ししたよね」
直人は、はい、と言った。担任が芳江を見た。
「月曜日?」
「違うよ。先週」
直人は椅子から足を浮かせ、踵をこすり合わせていた。
「誰の分が欲しかったの?」
直人は床を見た。
「持ってってくれる子の」
「何を持っていくの」
「給食。おばちゃんが、あっちに運んでって言ったから」
芳江は、自分は言っていない、と答えかけてやめた。子供の言葉をすぐ否定すると、あとは何を聞いても、うん、としか言わなくなる。直人の隣の席の子が口をはさんだ。
「言ってないよ。倒れたんだよ」
担任が、今は直人君と話しているから、とたしなめた。
その子は泣きそうな顔をした。
「だって、見たもん」
先週の金曜日、給食用の台車が廊下の段差に引っかかった。芳江も覚えていた。三年生が二人で押していて、載せた食器がずれた。近くにいた一年生が大きな声を上げたので、芳江が調理室から出て手を貸した。台車を引き戻し、三年生を叱った。怪我人はいなかった。
直人は、そのとき泣いている子のそばにいたらしい。隣の席の子は、直人自身が倒れていて、別の子が起こしていたと言った。担任は保健室の記録を調べたが、直人が来た記録はなかった。
「恥ずかしくて言わなかったのかもしれないですね」
担任はそう言った。芳江も、そうだろうと思った。
ただ、あのとき廊下に出た自分が、どちらの子を見たか思い出せなかった。台車から食器を下ろすのに夢中で、泣き声がうるさいと感じた。それだけは覚えていた。自分が静かにしてと言ったあと、泣き声は止んだ。
翌日の給食の前、芳江はその段差を見に行った。廊下と渡り廊下の境目に、金属の細い板が渡してあった。学校は新しくはないが、そうした箇所は丁寧に補修していた。芳江がしゃがんで見ると、板の下から給食帽のゴムが出ていた。引いてみたが抜けなかった。
用務員に頼むと、板の端を少し持ち上げてくれた。ゴムは途中で切れていて、先に小さな白い布がついていた。泥で汚れ、何度も踏まれたらしく、紙のように薄かった。
「いつのだろうね」
用務員が言った。芳江はそれを捨ててもらおうとして、やめた。手の中の布に、油の染みがあった。きな粉の甘い匂いがした。
職員室へ持っていくと、一年の担任は困った顔をした。
「直人君、今日は早退したんです」
腹が痛いと言って、母親に迎えに来てもらったという。月曜も、腹痛で休んでいた。担任は芳江が何も言わないうちに、給食を食べる前です、と付け加えた。
芳江は調理室へ戻り、手を洗った。朝から腹の底に固いものがあるようだった。給食を出す仕事を十年以上やっていた。食べておいしかったという言葉も、嫌いな物を少し食べたという話も、うれしかった。けれど、廊下で子供が泣いていたら、今は邪魔だと思うこともあった。そんなことは、別に自分だけではない。
その日はうどんだった。芳江は麺をほぐしながら、廊下の話し声を聞いていた。食器を取りに来た三年生が、台車を押すのを嫌がった。先週と同じ二人だった。一人が芳江を見て言った。
「あそこで、呼ぶから」
「誰が」
「下から」
芳江は台車を止め、担任を呼んだ。大人が運ぶからと二人を先に教室へ行かせた。担任は、段差のことなら気をつけさせます、と言った。芳江は、それだけではないんです、と答えたが、何から話せばいいのか分からなかった。
担任と二人で台車を押した。金属板の前まで来たとき、芳江の足首に何かが当たった。布が擦れた程度の感触だった。見下ろすと、白い上履きの先が、台車の下から出ていた。子供がうつ伏せで下に入っているようだった。
「止めて」
芳江は台車の縁をつかんだ。反対側の担任も同時につかんだ。鍋の蓋が滑り、金属がぶつかる大きな音がした。
「何してるの、危ないでしょう」
担任が下をのぞきこんだ。芳江にはその声が、先週の自分と同じに聞こえた。
台車の下から、小さな手が出た。床に手のひらをつき、指を開いた。芳江はしゃがみ、その手首をつかもうとした。担任が彼女の肩を引いた。
「動かさないで。頭が」
担任は別のところを見ていた。芳江の足元を、ひどく怯えた顔で見ていた。
その一瞬だけ、芳江は、自分が廊下に寝かされていると思った。冷たい床が頬に当たり、視界の上半分を台車の底が塞いでいた。誰かが余った食器を運んでいる。車輪が近づいてくる。声を出さなければと思うのに、喉が痛く、息しか出ない。
「もう食べた?」
自分の口から、その言葉が出た。いつ、誰に向けて言ったのかは分からない。
床についていた手の指が曲がった。芳江の靴に触れ、つま先を押した。台車の反対側で担任が悲鳴を上げた。芳江は立っていた。立ったまま、空になった台車の下を見ていた。
うどんは無事だった。蓋がずれただけで、こぼれなかった。そのことを職員室で説明している自分が、芳江にはおかしかった。担任は、子供がいたと思ったがいなかった、としか言わなかった。彼女が何を見たか、芳江は聞かなかった。
午後、直人の母親から学校へ連絡があった。家で昼食を食べさせたところ、息子がパンの話をしたらしい。月曜は母親と病院へ行き、パンは食べていない。それなのに、少し硬かった、あの子は食べられなかった、と言っていたという。
返却口に、椀が一つ戻っていた。底にうどんが二本残っていた。芳江はすぐには洗わず、担任を呼んで見てもらった。担任は椀を持ち、裏の印を確かめた。
「これ、今のじゃないですね」
学校で使う食器は数年前に替えていた。形はよく似ていたが、縁の線の色が違った。
その学校で昔何があったか、芳江は調べてもらった。給食の運搬中に子供が亡くなった記録はなかった。似た事故も見つからなかった。ずっと勤めていた用務員も知らなかった。食器なら倉庫に古いものが残っているはずだと言われ、担任と探したが、同じ印の椀は見つからなかった。
月曜の昼、芳江は返却口の脇で待った。直人は登校していた。担任が、全員に給食が渡ったことを確かめていた。芳江は洗い物を岸さんに任せ、網戸の向こうの廊下を見ていた。
「余ってますか」
足元で声がした。芳江は窓に手をかけた。
「お腹、すいてるの」
しばらく返事がなかった。
「持っていかないと」
「誰に」
「下にいる子」
芳江は窓を開けなかった。代わりに、廊下へ出る扉を開けた。そこには誰もいなかった。少し先の金属板の上に、白い給食帽が載っていた。先週拾ったものよりずっと新しく、ゴムが切れていなかった。
板の下から、子供が咳をする音がした。芳江はその場にしゃがみ、担任を呼んでもらうよう、調理室の中へ声をかけた。それから床に向かって、聞こえているよ、と言った。
もう一度、同じことを言った。
今も、給食の余りを勝手に子供へ渡すことはない。あの学校の廊下の段差も、夏休みに直された。直人は普通に給食を食べている。芳江が知っている範囲では、腹痛も治まった。
ただ、ときどき、食器が一つだけ遅れて戻る。芳江はほかの食器を全部洗い終えてから、それを洗う。食べ残しがある日も、何も残っていない日もある。誰が返したのかを確かめようと、返却口で待つことはもうしない。
一度だけ、岸さんが空の椀を見つけて、「今日は全部食べたんですね」と言った。
芳江は椀を受け取り、裏を返した。底の窪みに、乾いた御飯粒が二つ残っていた。洗う前に、そこだけ指でこそげた。
岸さんには見せなかった。自分でも、椀を伏せて床に置いてみることはしなかった。


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