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写真に入らない部屋

売り家の写真に、人が写ってはいけない。赤井は撮影に行くたび、それを最初に説明した。鏡の前に立たないでください、窓に映ることがあります、と言うと、大抵の人は部屋の隅へ移動する。そこも写るのだが、何度も追い立てるようで言いにくかった。

その家の持ち主は、説明を聞く前から玄関で待っていた。七十は過ぎているだろう。口紅を引き、薄い水色の上着を着ていた。売却する家の最後の写真だから、自分も写ると思ったのかもしれない。

「お母さんは、こっち」
娘が声をかけた。赤井より十ほど年上に見えた。庭へ出るよう促された母親は、一度だけ奥の部屋を振り返り、靴を履いた。
「きれいに撮ってくださいね」
赤井はうなずいた。娘はうなずかなかった。

不動産会社の営業は遅れていた。メールには、片づけは済んでいる、鍵は持ち主が開ける、とだけあった。赤井は玄関から順に撮り始めた。廊下の床は日焼けしていたが、板の継ぎ目に埃がなく、長く大切に使われた家だと分かった。娘は二階へ上がり、袋に何かを詰めていた。

一階の奥に四畳半があった。南側の庭に面しているはずなのに、その部屋には窓がなかった。隣の座敷を回りこんで増築したらしく、外壁までの間に細い納戸がある。そういう間取りは時々見た。日当たりが悪くても、広角で明るく撮れば、小さな仕事部屋として紹介できる。

赤井は入口の外に三脚を立てた。左右の柱を少し入れ、床が広く見える高さにカメラを下げた。モニターの中に、赤井自身がいた。

背中ではない。正面から見た顔だった。カメラの脇にかがみ、液晶をのぞいている。撮った瞬間の顔が、部屋の入口に写っていた。

反射だと思い、顔を上げた。部屋の奥には薄い桃色の壁紙があった。鏡はなかった。赤井は部屋に入り、壁に手を当てた。紙の表面に細い凹凸があり、爪で触ると古い糊が粉になった。
入口のカメラまで戻り、一枚前の写真を確認した。廊下は普通に写っていた。もう一度撮ると、今度はカメラに手を載せている赤井が写った。三脚の脚まで見えた。

部屋の奥から入口へ向けて撮ったような写真だった。使っているカメラは、入口から奥を向いている。赤井は一度電源を切り、レンズを外してつけ直した。ばかばかしい作業だと分かっていたが、ほかに思いつかなかった。

階段で物音がした。娘が額縁を二つ抱えて下りてきた。
「そこも撮ります?」
「はい。ちょっと、光が」
赤井はそう答えた。自分の顔が写った画面を見せる気にはなれなかった。娘は部屋を見ずに、額縁を台所へ運んだ。

額のガラスを抜く音がした。金具を外すには固いのか、時々、小さく舌打ちが混じった。赤井はカメラを手に持ち、部屋の反対側から撮ってみた。写真には、向かいの壁の前に立った自分が写った。部屋の中央に、いつもこちらを向いている誰かがいる。その位置から撮られた絵だった。

赤井はこれを、カメラの不具合ということにした。他の部屋を先に撮り、最後にもう一度やればいい。仕事で妙なことが起きても、納品できれば、それ以上は考えなかった。

二階には二部屋あった。片方はほぼ空で、壁紙の色が違うところに学習机があったらしかった。もう片方には、畳の上に段ボールが積んであった。蓋の開いた箱に、アルバムが何冊も入っていた。いちばん上の見開きには、海辺で座る若い夫婦と、小さな女の子の写真があった。

赤井は写真を読もうとしたのではない。箱を画角の外へ動かそうとして、手が止まった。写真の中央に、丸い穴が開いていた。日傘を差した女性と、隣の男性の間。人物を切り抜いた跡にも見えたが、抜かれたところは腰の高さで、子供が座るには低すぎた。
次のページも、同じように穴があった。場所は違った。遊園地の地面、食卓の端、女の子の膝の横。大きさもまちまちで、どれも輪郭を丁寧になぞって切られていた。

「それ、捨てるやつです」
階段の下から声がした。赤井は蓋を閉じた。
「すみません、動かそうと」
「いいんです。全部捨てるので」

昼近くに営業が来た。持ち主の母親も庭から戻り、台所で三人が話し始めた。赤井は二階の撮影を終え、廊下へ下りた。
「四畳半だけ、撮れませんでした」
営業は困った顔で笑った。
「物が残ってます?」
「いえ、何もないです」
「じゃあ撮れるでしょう」
娘が「そこはいいです」と言った。母親は湯飲みをテーブルに置いた。
「どうして」
娘は答えなかった。

赤井はカメラを出した。営業には見せる必要があった。報酬は一軒分で、撮れない部屋があったら、あとで撮り直しを求められる。液晶を向けると、営業は最初、赤井が間違って自分を撮ったと思った。
「向きを反対にしたんじゃなくて?」
赤井は三脚を持って四畳半へ行った。営業を隣に立たせ、シャッターを押した。

二人が並んで写った。営業は写真を拡大し、部屋の奥に立っている自分のように画面をのぞいた。
「あれ」
それだけ言って、液晶を赤井に戻した。
撮影位置に戻ると、娘も来ていた。母親は台所に残り、湯飲みを片づけていた。

「間取り図があればいいでしょう」
娘が営業に言った。声が固かった。営業は、写真がなくても募集はできる、と返した。赤井はすぐに三脚を畳み始めた。この場から離れたかった。
「待ってください」
娘が言った。
「今の、消してください」

その頼み方で、赤井は初めて、娘が写真に驚いていないことに気づいた。赤井は二人の前で画像を消した。自分だけが写ったものも消した。廊下を撮った写真は残した。
娘は消えた画面を最後まで見ていた。

玄関で母親が待っていた。
「お部屋、写った?」
赤井が答える前に、娘が「暗いから駄目だったって」と言った。母親は納得したように笑った。
「あそこはねえ。いつもそうなの」
靴を履く赤井の背中に、母親が続けた。
「うち、家族で撮った写真が少ないでしょう。みんな、あそこにいるから」

車へ戻ってから、営業は物件資料を開いた。図面の四畳半には、手書きで「納戸」と追記されていた。
「昔、何かあったんでしょうね」
仕事の話をする口調だった。赤井は、ほかの撮影者を呼ぶなら事情を伝えてほしいと言った。営業は返事をせず、写真をいつ納品できるか聞いた。

その日の夕方、娘から電話が来た。名刺を渡したのは営業だけだったが、番号を聞いたのだろう。
「廊下の写真、残ってますか」
「あります」
「奥の部屋、少しでも入ってたら、それも消してもらえますか」
赤井はパソコンで写真を開いた。四畳半の入口が、廊下のいちばん奥に小さく写っていた。敷居と、桃色の壁。そこだけを見ると、何もおかしくなかった。

「何が写るんですか」
訊いてから、赤井は後悔した。仕事で預かった家のことを、面白半分に尋ねたように聞こえたかもしれない。
電話の向こうで、娘が息を吸った。
「写らないんです」
赤井は画像を拡大した。壁紙の継ぎ目が見えた。
「兄がいるんです、そこに」

兄が死んだ部屋なのだろう、と赤井は考えた。娘はしばらく黙ってから、昔、母親が家族写真を撮ろうと言い出した日のことを話した。三脚にカメラを置き、タイマーを使って四人で並んだ。現像すると、三人しか写っていなかった。
「兄が撮った写真みたいになってたんです。兄は、私の横にいたのに」

以後、兄のいるところで写真を撮ると、必ず兄の場所から見た景色になった。兄が写らないことより、カメラを持っている人間が写るほうが、家族には怖かったという。
「母は喜んだんです。お兄ちゃんにはこう見えるのね、って。父も、そのうち慣れて」

赤井は、穴の開いたアルバムを思い出した。娘は、写真から何を切っていたのか、なかなか言わなかった。
「見たら、思い出すから。ここにいた、っていう場所を」
「お兄さんは、今」
「家にいます」

そこで母親の声がした。電話の近くで、何かを包んでほしいと言っていた。娘は赤井に小さく詫びて電話を切った。

赤井は納品する写真から、奥の部屋が見えるものを外した。廊下の写真は反対側から撮った一枚を使った。あの家について調べたりはしなかった。画像を削除したあとは、机の前に座り、自分の部屋の窓が暗くなるのを見ていた。

翌週、もう一度だけ、あの家へ行くことになった。外観の正面に配送車がかぶっていたので、撮り直してほしいという。仕事としてはもっともな理由だった。赤井は、持ち主のいない時間を希望した。営業は笑ったが、段取りをつけた。

門の前に立つと、母親が庭の椅子に座っていた。いないと聞いていたので、と言いかけたが、母親は立ち上がらず、赤井を手招きした。
「娘は、車を取りに行ったの」
膝に写真立てがあった。中には何も入っていなかった。
「それに入るのを、一枚だけ撮ってくれない?」

赤井は断ろうとした。母親はもう椅子から立ち、玄関の前へ移動していた。水色の上着を整え、赤井を見た。あの家を離れる前の記念なのだと思った。室内には入らない。庭で一枚だけ撮ればいい。
赤井はカメラを構えた。

母親の後ろにある玄関は、半分開いていた。暗い廊下の先を見ないようにして、上半身を大きく入れた。シャッターを押し、画面を見ると、赤井が写っていた。門の前に立ち、カメラを構えていた。母親の姿はなかった。

目を上げると、母親は同じところに立っていた。赤井は息を止めた。母親のすぐ背後から、細い腕が伸び、上着の襟を直した。指先が襟の折り目を丁寧になぞり、ゆっくり引っ込んだ。母親は肩を少しすくめただけだった。

「撮れた?」
赤井は返事ができなかった。
「一緒に、写ったかしら」
母親はそのまま、玄関を背にして待っていた。

車の音がした。娘が門の外に止め、赤井を見て顔色を変えた。車を降りるなり母親の腕を取り、助手席へ連れていった。母親は写真立てを取りに戻りたがったが、娘はドアを閉めた。
赤井に近づくと、カメラを見ずに言った。
「消してください。すみません」

赤井は最後の一枚を開いた。画面の赤井は、カメラのファインダーをのぞいていた。その横に、娘の車の先端が少し入っていた。撮ったとき、車はまだ来ていなかったはずだ。赤井は考えるのをやめて、画像を消した。

娘が写真立てを拾いに庭へ入った。赤井はとっさに、行かないほうがいい、と言った。娘は振り向かなかった。
「これだけは、持っていかないと」

空の額を抱えて戻ってきた娘は、玄関の鍵をかけなかった。母親が車の中から、まだ中にいるでしょう、と言った。娘はうなずき、ドアを閉めるだけにした。

赤井は外観を撮らずに帰った。営業には、依頼分は請求しないと連絡した。電話で理由を説明しようとすると、営業は、その家の撮影はもう結構です、と先に言った。

数日後、広告用の写真が送られてきた。赤井が撮ったものを、持ち主が確認したという事務的なメールだった。掲載してよい写真には、丸印がついていた。赤井は一覧を開き、廊下の写真で手を止めた。

玄関から奥を撮ったものではない。奥の部屋の入口から、玄関に向けて撮った一枚だった。そこには確かに丸がついていた。赤井が撮った写真の中で、それだけが、誰の顔も写さずに済んだ写真だった。

廊下の手前、画面の下の端に、赤井は自分の指を見つけた。両手を床についていた。赤井はその日、床に手をついて撮った覚えがなかった。

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