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隣の停電

娘の部屋の電球を替えに行ったとき、俺はもう、そこに住んでいなかった。離婚して半年たっていた。娘が電話で「お父さん、直して」と言ったのがうれしくて、何も聞かずに替えの電球を買った。

天井についていたのは、電球を替える照明ではなかった。丸い板のようなやつで、本体ごと取り替える必要があった。
「先に写真を送ってって言えばよかったのに」
元の妻にそう言われ、俺は「頼み方ってもんがあるだろ」と返した。娘の前ではやめようと決めた言い合いを、玄関へ入って五分でしていた。

娘は小学三年で、俺に似て理屈っぽかった。だから、暗くなると怖い、とは言わなかった。
「点くよ。でも消えるの」
リモコンを押すと、部屋は普通に明るくなった。
「ほら」
俺が笑うと、娘も笑った。妻だけが笑わなかった。

その日は夕飯までいた。台所と娘の部屋はふすまで仕切られていて、俺は床に座って宿題を見ていた。割り算の筆算が始まったばかりだった。娘が同じところを何度も間違え、俺が消しゴムを取ったとき、照明が落ちた。
台所は明るいままだった。テレビもついていた。俺は娘の手に消しゴムを戻し、リモコンを押したが、点かなかった。

「壁」
娘に言われて、壁のスイッチを押した。明かりが戻った。
「誰か消した?」
娘は首を横に振った。台所で妻がフライパンを洗っていた。スイッチまで来れば、俺の背中のすぐ後ろを通る。気づかないはずがなかった。
「接触じゃないか」
そう言ってしまってから、俺はスイッチを何度か押した。押すたび、きちんと点いて消えた。

あの建物は、古い一軒家を左右で二世帯に分けた借家だった。娘の部屋の壁の向こうが隣の家で、階段の音や湯を流す音がよく聞こえた。俺たちが夫婦だったころは、年配の女性が一人で住んでいた。名前は上野さんだったと思う。

翌週、電気工事の人に来てもらった。照明は替えたばかりで、スイッチも配線も問題はないという。俺は隣の電気と混じっている可能性を聞いた。職人は嫌な顔もせず確かめて、別々ですね、と答えた。
「押されてるんだったら、押されてるんでしょう」
そんな当たり前のことを言って帰った。

俺は壁のスイッチを透明なカバーで覆った。子供が触らないようにする物だ。ふたを開けなければ押せない。ついでに電池式のランタンも置いた。娘は喜んで、暗くした部屋で本を読んだ。
「そういうふうにしたら、意味ないだろ」
注意すると、娘は照明を点けた。俺が帰ろうとしたとき、靴べらを渡しながら小さく「ありがとう」と言った。

しばらくして、娘から電話が来た。
「お父さん、怒ってる?」
何を怒るんだよ、と聞き返した。約束した週末に仕事が入り、会う日をずらしてもらっていた。俺が忘れていたのは、その日が娘の学校の発表会だったことだ。
「昨日、来たから」
「来てないよ」
「知ってる」
娘はすぐに言った。言い間違えたのを訂正するような速さだった。

妻に代わってもらうと、妙な話を聞かされた。夜、娘の部屋の電気が消え、妻が台所から点けに行こうとしたら、中で俺が喋っていたという。
「何て」
「そこは引くんだよ、って。宿題」
「テレビだろ」
「テレビに向かって、あの子が返事する?」
妻は腹を立ててはいなかった。疲れているようだった。以前なら、俺が来たふりをして娘をからかったとでも疑ったはずだ。それが少し気に入らなかった。

「部屋、見たのか」
「点けたら、いなくなった」
俺は電話を持ち替えた。
「誰が」
「だから、それを聞きたいんだけど」

次に行ったとき、妻の留守中に娘と話をした。娘はアイスを食べていた。俺が二人でよく行った店のものを買ってくると、少しずつ口に入れ、なかなか減らさなかった。好きだから取っておくのかと思っていたが、今は違う味のほうが好きなのだと、そのとき初めて聞いた。

「この前、お父さんが来たんだって?」
娘はスプーンをくわえた。
「来たんじゃないよ」
「じゃあ、何」
「いた」
ふすまの向こうを見た。昼間の部屋には、ランドセルと、俺の知らない水色の椅子があった。
「明るいと見えないだけ?」
「見たら、だめだから」
俺はスプーンを皿に置かせた。
「誰に言われた」
娘は、少し考えてから、俺の顔を見た。
「言われなくても、分かることあるよ」

俺は隣を訪ねた。上野さんはずいぶん痩せていたが、俺のことは覚えていた。
「またお住まいになるの?」
事情を話して、娘の部屋で変な音がしないかと聞いた。上野さんは、うちのテレビがうるさいんですね、とすまなそうに言った。そういう話ではないと説明しているうち、玄関の奥で何かが倒れた。上野さんは振り返って「置いといて」と言った。

誰かと住み始めたのかもしれない。人の家をのぞくわけにもいかず、俺は頭を下げた。そのとき、廊下の壁にあるスイッチが見えた。うちのと同じ透明なカバーで覆われていた。上野さんは俺の視線に気づき、玄関を半分閉めた。
「あれ、少しは効きました?」
訊き方がおかしかった。自分も試してみたが駄目だった人の声だった。

帰って妻に話すと、妻はカバーを外してテーブルに置いた。ふたの内側に傷があった。針で引いたような細い線が、開け口に何本もついていた。
「あなたが触ったんじゃないの」
俺は違うと言った。娘が使いづらくて何かでこじったのかと思ったが、妻は娘に訊くのを嫌がった。

その晩は泊まった。娘は俺の布団を自分の隣に敷き、寝る前に顔を見て、確かめるように笑った。妻は台所で書類を書いていた。俺が買ったランタンをつけると、娘が目を細めた。
「それ、まぶしい」
一段暗くした。それでも娘は壁のほうを向いて寝た。

明け方、ふたを開ける小さな音で目が覚めた。昼間、俺がカバーをつけ直していた。布団から見上げると、スイッチのところに手があった。人が立っているのではない。ふすまがわずかに開き、そこから手首まで出ていた。

娘が寝ぼけているのだと思い、起きかけた。隣の布団で、娘は眠っていた。
手の指が壁を探り、スイッチに触れた。俺は口を開けたが、声が出なかった。関節の太い、ごく普通の男の手だった。爪の一枚だけが白く欠けていた。俺も昼間、車のドアにはさんで、同じ爪を欠いていた。

照明は消したままなのに、何を押すのかと思った。手がスイッチを切ると、床のランタンが消えた。電池のランタンだった。
妻が台所で俺の名を呼んだ。
「起きてるなら、こっち来て」
その声には、普段通りの遠慮のなさがあった。俺は胸まで布団を引き上げた。妻が続けた。
「朝のうちに、牛乳だけ買ってきてもらえる?」

ふすまが閉じた。台所で男が返事をした。俺がいつも言っていた、眠いときの生返事だった。床板が鳴り、冷蔵庫が開いた。妻と男が、まだ残っているから小さいのでいいとか、ついでにパンをとか話していた。

俺は娘の肩をつかんだ。起きろ、と耳元で言った。娘はうるさそうに体をひねり、俺の手を離そうとした。
「靴、どこだ。帰るぞ」
そう言ったとたん、台所の話し声が止まった。

ふすま越しに、男が言った。
「今、寝たとこなんだから」
俺は娘を抱き起こした。軽いと思っていた娘は重く、布団に足が引っかかった。明かりをつけるために立たなければいけなかったが、スイッチはふすまのすぐ脇にあった。そこへ行くのが怖かった。

娘が「お父さん」と呼んだ。俺の胸に顔を押しつけていた。台所からも「なに」と返事がした。俺は娘を下ろさず、空いた手でスイッチを押した。ランタンも天井の照明も、いっぺんに点いた。

妻が流しの前にいた。こちらを見て、娘を下ろして、と言った。男はいなかった。冷蔵庫のドアが開き、床に牛乳のパックが立っていた。

朝になって娘を学校へ送り、妻と二人で話した。あの家を出るべきだと言う俺に、妻は敷金と引っ越し代の話をした。金は出す、と俺は答えた。妻は黙って家計簿を片づけた。
「何で、怖くないんだよ」
「怖いよ」
「じゃあ」
「でも、あの子、夜に泣かなくなったんだよ」

俺は、男が娘に何かするかもしれないと言った。妻はうなずいた。朝から同じ話を何度もしている、とその顔に書いてあった。
「分かってる。だから、見に行くの」
「何を」
「電気が消えたら。ちゃんとそこにいるか」

台所の窓から、隣の上野さんが庭を掃いているのが見えた。上野さんの家は雨戸を閉めきっていた。昼間なのに、奥の部屋の灯りが窓枠の隙間から漏れていた。いったん灯りが消え、すぐ点いた。庭の上野さんはほうきを置き、家の中へ入った。

俺は娘を引き取ると言った。妻は初めて声を荒らげた。言い争いながら、俺は、娘を朝何時に起こせばいいのかも知らないことに気づいた。知らないから駄目だとは思わなかった。覚えればいい。口に出すと、妻は「今からでも覚えてよ」と言った。話はそこで止まった。

引っ越しには二か月かかった。俺は週に何度か娘を迎えに行き、妻が遅い日は晩飯を作った。電気が消えると、娘の話を遮ってでも点けた。一度、もうちょっと待って、と頼まれた。
「何を待つんだ」
「最後まで聞いてくれるから」
俺は黙った。その晩は寝るまで、娘の学校の話を聞いた。怖いものを追い出すために、こんな当たり前のことをしなければならないのが、ひどく情けなかった。

荷物を運び出した日、俺が最後に残った。上野さんが玄関で見ていたので、お世話になりましたと挨拶した。何か聞かれるかと思ったが、上野さんは「今度は明るいお部屋?」とだけ言った。
俺はうなずいた。

娘の部屋には、照明とスイッチだけが残っていた。カバーはつけたままにした。掃除機をかけ、押し入れを確かめ、点いている明かりを消そうとしたとき、壁の向こうから音がした。
隣のスイッチが押された。

「お父さん」
隣の部屋から、娘が呼んだ。車の中にいるはずの娘だった。俺はカバーにかけた指を離した。
壁のすぐ向こうで、椅子を引く音がした。男がゆっくり歩いてきた。俺が立っているのと同じ場所で止まり、壁越しに低く言った。
「閉めてって。まぶしいから」

俺は照明をつけたまま、玄関を出た。鍵は妻から預かっていた。ドアを閉め、手の中に鍵があることを確かめてから、車まで歩いた。

妻が「電気、消した?」と訊いた。娘は後部座席で、窓の外を見ていた。
「忘れた」
俺は答えた。
妻は戻ろうとせず、娘にシートベルトを締めるよう言った。車を出すとき、俺たちは誰も、あの家のほうを見なかった。

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