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一匹だけの足音

クルミの骨を迎えに行く朝、母は犬用の毛布を洗っていた。もう乾かないよと言うと、持っていくんじゃない、と洗濯機の蓋を閉めた。帰ってから骨壺の下へ敷くのだという。私は助手席の足元に転がっていた長靴を荷室へ移した。母がそこに置いたまま、一度も畑へ行かなかった長靴だった。

犬は十六歳まで生きた。最後の半年、後ろ脚を支える帯を腹へ回して散歩させたのは母で、私は週末に餌の大袋を運ぶ係だった。それでも病院への車を出したというだけで、近所の人から親孝行だと褒められた。母はそのたび、助かったわ、と言った。本当に助かったこともあっただろう。そう思っておくのが楽だった。

引き取りは山際の動物霊園だった。火葬に立ち会う予定を仕事で変え、二日ほど預かってもらっていた。窓口の女性は布袋に包んだ小さな壺を差し出し、名前を確かめてくださいと言った。母は札を読む前に袋の底を手のひらで支えた。「軽くなっちゃった」と言うので、女性と私はうなずいた。

帰り道で一度、こつ、と音がした。袋は母の膝にあった。壺が中で傾いたのかと思ったが、音は後部座席から聞こえた。続けて、こつ、こつ。車輪が継ぎ目を踏むのとは合わない間隔だった。母が後ろを見た。私はミラーで荷物を確かめた。長靴のほかには傘が一本だけだった。

「クルミ、爪伸びてたね」
母が言った。病院で切ってもらおうと言っていたことを思い出したのだろう。私は相槌を打ったが、すぐ違うと気づいた。フローリングを歩くクルミの爪は、もっと細かく鳴った。いま聞こえるのは四つの脚がばらばらに動く音ではない。同じ硬いところが、ひとつずつ床を叩いていた。

信号で停まると、音も止まった。走り出す前にもう一度鳴った。母が袋を抱え直したとき、背もたれに膨らみができた。布の上を、小さな踵のような形が下から上へ移った。私は車を路肩へ寄せた。後ろのドアを開け、傘を取った。床にも座席の下にも、何もいなかった。

母は降りなかった。膝の袋を見つめていた。蓋が鳴るんじゃない、と私が言うと、そうかもねと返した。その手の甲に一滴、水が落ちた。母の顔は乾いていた。天井にも染みはない。私はエアコンを切った。母は濡れたところを拭かず、手を袋の下へ入れた。

家へ着くなり、母は壺を座敷の棚へ置いた。仏壇へ入れるつもりだったが、扉の中に収まらなかった。私は棚板を一枚外そうとした。母は、そこまでせんでいい、と言い、まだ湿った毛布を物干しから持ってきた。厚く畳んで壺の下へ敷くと、部屋に犬の体の匂いが戻った。

昼ご飯は買ってきた弁当だった。食べ終えるまで、何も鳴らなかった。母が台所へ立つと、座敷から、こつ、と聞こえた。母は足を止めた。私も箸を置いた。十秒ほど待って、母がまた歩く。こつ。今度は居間との境の敷居だった。私は座敷へ顔を向けた。壺は棚に載っていた。

「ついてくるんだね」
母が言った。笑いかけて、途中でやめた。私には同じ言葉が出せなかった。クルミは母の後を追うとき、鼻先を膝の裏へ押しつけた。こんなふうに一歩ごと待ち、人が振り向くまで止まっている犬ではなかった。

私は母を座らせ、廊下を歩いてみた。音はしない。母がトイレへ立ったときだけ、二歩目から後ろへ続いた。廊下の窓に薄日が差していた。母の足の影とは別に、親指ほどの濃い影が跳ねた。床へ落ちた虫かと思い、新聞を丸めかけたが、影は母の踵より先へ出た。

母はトイレの扉を閉めなかった。私は居間から見える場所で待った。水が流れる音のあと、母が「そこにいる?」と聞いた。私は返事をした。「あんたじゃない」と言われた。その言い方が怖かった。私を間違えたのではなく、そこへいるはずの何かに話しかけていた。

壺を開けたのは私だった。母は嫌がった。お骨を触るなら手を洗ってとだけ言い、洗面所へタオルを取りに行った。骨の形を見たところで、私に分かるはずもない。白い欠片の間に、灰色の細いものが一本あった。ほかの骨は粉をまとっているのに、それだけは乾いた小枝のようにつやがあった。

指でつまむと、思ったより重かった。親指と人差し指の腹に、曲がった輪郭が食いこんだ。両端の太さが違い、細いほうは丸く擦り減っていた。私はそれを皿へ置いた。音が、こつ、と鳴った。さっきまで母の後ろについていた音だった。廊下から、母がタオルを持って戻ってきた。

「それ、違う」
見ただけで母は言った。どこが、と聞くと、火葬の前に撮ったクルミの写真を携帯に出した。傷んだ脚をかばって、毛布に伏せている写真だった。「この子のものなら、そんな置き方しないで」。骨が違うのか、扱いが違うのか分からなくなった。私は皿ごと母の前へ置いた。

母は触らなかった。皿を近づけると、椅子を後ろへ引いた。目は灰色の骨に向いているのに、片手が膝の上を撫でていた。そこにクルミの頭があるような動きだった。私は霊園へ電話し、混ざっているものがあると言った。窓口の女性は担当を呼びますと答え、別の男に代わった。

「こちらで見せていただければ」
男は落ち着いた声だった。私は写真を送れないかと聞いた。現物を見なければ、と同じことを言われた。電話の向こうで、金属の引出しを閉める音がした。その音に合わせて、皿の上の骨が立った。私は携帯を離した。骨は細い先で皿の中心を突き、一度だけ左右へ揺れた。

母がその上からタオルをかけた。骨は倒れたらしく、皿に当たる音がした。電話を切ると、母が私の手を握った。骨をつまんだ指だけ、皮がふやけていた。風呂に長く入ったときのような皺だった。触ると冷たかった。母はそこを自分の両手で包み、膝へ押しつけた。

夕方まで待つ理由はなかった。私は壺へ骨を戻そうとした。母が止めた。もう一緒には入れないでという。タオルに包んだまま菓子箱へ収め、壺は元の袋へ入れた。どちらを持っていくか決められず、結局、両方を車に載せた。母は膝に壺を置いた。箱は後ろの座席へ、シートベルトを通して固定した。

出発する前に、母がクルミの首輪を取りに戻った。泥のついた赤い革の輪だった。車の窓を少し開けて待っていると、家の奥から母が犬を呼ぶ声がした。その直後、後ろの箱の角が丸く膨らんだ。中に押しつけた何かが、こちらへ鼻を寄せてきたように見えた。

私はクラクションを鳴らした。母が玄関から出てきた。首輪を片手に、怒った顔をしていた。鳴らさなくても聞こえるでしょう、と言われた。私は、名前を呼ばないで、と答えた。母はドアへ手をかけたまま、なぜ、と聞いた。返事をしようとすると、後ろの座席から母と同じ声で、なぜ、と聞こえた。

母は助手席へ座り、両手で口を覆った。車を走らせてしばらくすると、こつ、こつ、と鳴り始めた。箱の中ではなかった。車の底を叩いていた。後ろから前へ、前から後ろへ、一つの点がゆっくり移る。曲がり角では横へずれたが、身体が振られたようなぶつかり方はしなかった。

「名前、忘れるかと思って」
母が言った。犬のほうが忘れるのか、自分が忘れるのか、私は聞かなかった。赤い首輪を握る母の手に、小さな茶色い毛がついていた。私は、十六年だよ、とだけ言った。忘れるわけがないとも、覚えているとも、うまく言えなかった。

霊園は閉まるところだった。電話の男が駐車場まで来てくれた。箱を渡すと、軽いですね、と言った。私にはとてもそう思えなかった。降ろすために両腕を使った箱を、男は片手で持った。壺も見せようとしたが、母は抱いていた袋を離さなかった。

事務所の長机でタオルを開くと、骨は寝ていた。男は拾い上げず、机の横からライトを当てた。「うちでお預かりするものかもしれません」。さっきとは違う言い方だった。母が誰の骨ですかと聞いた。男は、動物の種類までここでは、と答え、タオルをかけ直した。

机の下で、何かが母の靴に触れた。私からは革が一瞬へこむのが見えた。母は動かず、袋を抱えていた。男が机の脇をどけて通り道を作った。こちらへ、と案内されたのは裏の出口だった。私が振り向くと、タオルの端が一箇所だけ、椅子の座面に届く高さまで持ち上がっていた。

外へ出た母は袋を私に渡し、首輪の金具を外した。赤い帯を、出口の下のコンクリートへまっすぐ置いた。何をしているのか聞こうとしたが、母は顔を上げなかった。首輪はしばらく動かず、先端の穴に、暗いものがひとつ通った。細い脚が、革を踏み越えたのだと思った。

帰りの車では音がしなかった。壺は母の膝にあり、後部座席には空の菓子箱だけがあった。私は箱を置いてくればよかったと、家へ着くまで考えていた。母は途中で窓を開け、外へ手を出した。前はクルミがそうして鼻を出した。そんなことを言える雰囲気ではなかった。

あれから私は餌を運ばなくなった代わりに、母と買い物へ行く。母は畑にも戻った。犬の毛布を洗ったことを後悔しているらしく、乾いた毛布を畳むたび、もう匂いがせんねと言う。壺の中身を全部確かめたわけではない。骨は、あの棚に置いたままだ。

首輪だけは返ってこなかった。翌週、霊園から電話があり、駐車場の入口で赤い革を見つけたが、お宅のものではないかと聞かれた。母は受け取りに行かなかった。そのまた翌月、道路の向こうの側溝で見たと男から連絡が来た。どちらも、落ちていた場所だけでは私には分からなかった。

母は地図を出して二つの場所へ指を置いた。霊園から家まで、クルミが歩いたことのない道だった。私がしまおうとすると、母はまだ、と押さえた。買い物のメモに、次の曲がり角の名前だけを書いた。私はそれを読んだあと、いつもの大通りを通って車を出した。

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