由紀は吊り橋の手前で、夫の写真を一枚だけ撮った。誠二は看板の横に立ち、どこへ手を置いていいか迷っていた。笑ってと言うと笑う。もういいと言っても、その顔をしばらく続ける。旅行へ誘ったのが夫のほうだったので、由紀は写真を消さずにおいた。
誠二が勤めを辞めて三か月になった。夜勤のある職場だったが、辞めてからも眠る時間が戻らない。昼食の途中で箸を持ったまま目を閉じ、布団へ行けば、と由紀が言うと起きていると言い張った。夫婦の会話は眠っていたかどうかの言い合いで終わるようになった。
山の温泉なら、というのは由紀の母の勧めだった。二人で遠出をするのは何年ぶりだろう。宿へ着くにはまだ早く、車の地図に出ていた吊り橋へ寄った。駐車場に一台の軽トラックがあった。荷台に積まれた刈草から甘酸っぱい匂いがした。誰かは来ているのだと安心した。
橋には幅があり、両側の網も胸の下まであった。誠二は先に渡り出した。由紀は少し遅れた。橋が揺れると足裏が浮く気がしたからだ。下の川は深い谷を細く流れ、白い石の間にだけ水が光った。頭上では鳥が鳴いていた。由紀が夫の背中を呼ぶと、彼は振り向かず手を上げた。
十歩ほど進んだところで、誠二が網にもたれた。眠っていた。立って寝るほど疲れているのかと由紀は腹を立てたが、近づいてその背に触れると、夫はすぐ顔を上げた。「水見てた」。いつもと同じ言い訳だった。由紀が先に行こうとすると、足元の板が横へ動き、二人とも網につかまった。
揺れはすぐ収まらず、緩やかに往復した。怖いから止まって、と由紀が言った。誠二は、俺じゃない、と答えた。二人が動かなくなっても橋は揺れた。右へ来るときは少し速く、左へ戻るときには長い間があった。何度か繰り返すうち、由紀はその間に身体の力が抜けることに気づいた。
谷のほうから、鼻を鳴らす音がした。誠二の寝息かと思ったが、夫は口を開けて川を見ていた。「いびき?」と由紀が聞くと、うん、と答えた。誰の、と聞いても、うん、としか言わない。目が開いているのに相手の言葉を聞いていない。由紀は肩を揺すった。
誠二は顔をしかめた。初めて眠ったのに、と小さく言った。由紀は手を離した。本人が眠れたと言うのを、ずいぶん久しぶりに聞いた。宿で寝ればいいでしょうと返したが、声が弱くなった。誠二はまた網へ背を預け、ずるずるとしゃがんだ。膝を抱えて目を閉じた。
橋の下で息が抜けた。風なら木も動くはずだった。岸の葉はじっとしている。由紀は夫を引き上げようとして両腕をつかんだ。重く、どうしても立たせられなかった。誠二は寝言で、あっちを持って、と言った。由紀が片手を離すと、橋が大きく片側へ傾いた。
網の下を、小さな白いものが通った。手だった。板の隙間からではなく、橋の外側に浮かんでいた。指が網へ一本ずつ巻きつき、由紀の靴と同じ高さへ来た。男の手らしかったが、手首から先に袖も腕も見えなかった。由紀は夫の名を怒鳴った。谷底から短い返事があった。
誠二は眠ったままだった。彼の左手だけが網に巻きつき、橋の外へ指先を出していた。白い手はちょうどそこへ重なっていた。由紀は自分の鞄を二人の間へ落とし、両手で夫の手首を内側へ引いた。爪が網へ引っかかった。痛ければ起きるはずだと思った。夫の顔は少し緩んだだけだった。
駐車場へ助けを呼ぼうと振り返ると、入口が遠かった。まだ橋の三分の一も来ていないはずなのに、看板の文字が読めない。向こう岸も遠い。橋は真ん中から低く下がり、二人が底にいるように見えた。由紀は携帯を取り出した。圏外ではない。だが橋の名前を伝えるには、入口の看板が必要だった。
最初に撮った写真を開いた。誠二の横に看板が写っていた。由紀が読もうとすると画面が暗くなった。下から太い影が上がり、携帯を持つ手へかかった。誰かが頭上に立っている影だった。由紀は見上げた。空には雲しかない。谷の寝息が一度、喉につかえた。
橋が止まりかけると、その影が濃くなった。由紀が足を動かすと薄くなった。彼女は揺れに合わせて膝を曲げた。右から左、左から右。橋の上では他に誰も動いていない。それでも膝を伸ばすたび、板の下から押し返す重みがあった。誠二の肩がその拍子に小さく上下した。
呼び出したのは宿だった。橋の名前を言えば分かる人がいると思った。女将らしい女性が、予約のお客さんですね、と答えた。由紀は急に泣きたくなった。夫が橋の上で寝てしまって、と言った。女性は聞き返し、倒れたのですかと確認した。由紀が違うと言う前に、受話器が別の手へ渡った。
男は橋の位置をもう一度聞き、近くの作業員へ連絡するので待ってと言った。人をよこしてくれる。それだけで由紀は腰が抜けそうになった。動きを止めた瞬間、下で誰かが咳払いした。自分たちよりずっと大きな喉が、すぐ足元にあった。由紀は慌てて膝を曲げた。
「眠れたんだよ」
誠二が言った。目は閉じていた。由紀が耳元で名前を呼んでも起きない。「俺だけ、いつまでも起きてるんだ」。夢の中で由紀に言っているのだろう。妻は返事をしなかった。夫をどうやって起こすか考えながら、足元の揺れを保っていた。
夜中、誠二は台所に立っていた。由紀が水を飲みに行くと、換気扇の下で窓を見ていたことがある。昼に寝るからよと言って、彼女は寝室へ戻った。誠二が何を見ていたのか聞かなかった。きょう橋の上でも、川を見ていると言われて信じなかった。だが今は、眠っていると認めなければ、ここから連れ出せない。
入口で男が叫んだ。草刈りの作業着を着て、長い棒を持っていた。止まっていて、と言ったように聞こえた。由紀は首を振った。止まれないと叫び返すと、男は看板の柱をつかみ、足を一本だけ板に載せた。橋が逆へ振れた。由紀の手の下で、誠二が嬉しそうに笑った。
男は足を戻した。その横にもう一人、人がいるように見えた。暗い服で、由紀たちのほうを向いていた。軽トラックにそんな人がいたかは分からない。由紀は助けて、と何度も言った。男が何か答えた。二人目の口が同時に動いたが、違う言葉が、由紀の耳のすぐ脇で聞こえた。
「代わりますよ」
誰が言ったのか見えない。誠二が首をうなずかせた。由紀は夫の顎をつかんだ。うなずかないでと言った。誠二の口は眠った子供のように開き、唇の奥から、さっきの男とは違う低い声が出た。「もう少しだけ」。息が、川の水より冷たかった。
由紀は頬を叩いた。一度では起きなかった。二度目は手が痛くなるほど叩いた。誠二が目を開け、彼女の腕を払った。「何するんだ」。はっきりした声だった。由紀は泣きながら、立って、と言った。謝るのはあとにした。怒ったままの夫の腕を肩へ回し、膝の下へ手を入れた。
誠二は由紀の髪をつかんだ。立ち上がるためだった。二人の足が板に並ぶと橋が止まった。谷底の寝息も止まった。これまでの音が消えたところへ、歯をすり合わせる音が上がってきた。由紀は目を閉じなかった。入口の男が振っている棒の先を見つめ、夫を引いた。
一歩出すたび、向こうの木が横へずれた。枝の折れた杉が、橋の柱の後ろからまた出てきた。何度も同じ木を見た。橋を渡っているのに岸へ近づかない。誠二もそれに気づいたらしく、どっちへ行ってる、と聞いた。由紀は入口だと答えた。地面があるほう、と言い直すと、誠二は足元を見て顔を白くした。
板の間から、木の葉が出ていた。谷の木が橋まで伸びてきたのではない。乾いた葉のついた枝が、二人の下に同じ向きで並んでいた。踏むと橋の板とは別のものがたわんだ。誠二が妻の肩を外した。自分で歩くと言った。彼が立った場所で、網の外の白い手がひとつほどけた。
入口の男が、鞄、と叫んだ。振り向くと鞄は橋の真ん中に残っていた。由紀は取りに戻りかけた。誠二が腕をつかんだ。その動きは眠っていた時とは違っていた。由紀は携帯だけを握り直し、鞄を置いたまま進んだ。家の鍵も財布もその中だった。そんなことを一つずつ思いながら歩いた。
男の棒へ誠二がつかまり、由紀もその腕につかまった。最後の一歩で、地面が動かないことに驚いた。ずっと揺れていた膝が勝手に曲がり、二人とも土の上へ座りこんだ。男は一人だった。暗い服の人はと聞くと、仲間は宿へ電話しに行っただけだと言った。橋へは誰も入らなかったらしい。
少し離れた杉が倒れた。川へ向かってではなく、隣の木へゆっくりもたれかかった。大きな音がすると思ったが、枝が揺れただけだった。もたれられた木がまた隣へ傾いた。男は由紀たちを立たせ、駐車場へ急がせた。背後で橋の金具が鳴った。規則正しい揺れが、岸の木へ渡っていた。
鞄はその夕方、作業員が届けてくれた。由紀は礼を言い、中身を確かめた。財布も鍵もある。底へ入れていた旅の案内だけが、何度も折ったように柔らかくなっていた。昼の橋へ一人で取りに戻ったのか聞くと、男は、入口にあった、と答えた。それ以上は話したくなさそうだった。
誠二は宿で寝なかった。夕食の前に女将の勧めで町の病院へ行き、帰ってから窓際の椅子で由紀とお茶を飲んだ。さっきは痛かった、と頬を押さえた。由紀が謝ると、いや、起きたから、と言った。それから勤めていたころの夜勤の話をした。眠る直前になると、辞めたはずの工場の音がするのだという。
由紀は初めて聞く場所の名をいくつも聞いた。途中で分からなくなっても聞き直した。誠二も、何度か言い間違いを直した。外は風がなく、宿の窓へ触れている笹だけが横に動いていた。由紀がカーテンを閉めようとすると、誠二はその手を止めた。
「見えてたほうがいい」
彼はそう言い、窓へ椅子を向け直した。由紀も隣へ座った。夜のあいだ、どちらかが席を立つと笹の揺れが速くなった。二人とも寝るとは言わず、朝になってから、冷えた茶碗を盆へ戻した。


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