弟は乾杯する前に、私の杯を取り替えた。欠けているという。見ても分からず指で縁をなぞると、ほんの少し爪に引っかかった。「そっち、おやじのだから」。自分の前へ引き寄せ、弟は平気で酒を注いだ。父が自分で焼いた、形の悪い杯だった。
実家を片づけた晩のことである。父が施設へ移ることになり、二人で大きな家具を運び出した。亡くなったわけではないので、欲しいものを勝手に分けることもできなかった。箪笥の引出しを空けては本人へ電話し、結局また戻す。それで午後が終わった。弟とゆっくり話すのは十年ぶりだった。
十年前、弟は私が紹介した会社を半年で辞めた。社長は私の大学の先輩で、私は何度も頭を下げた。弟には、それを電話で言った。途中で切られた。以来、母の法事でも長く同じ部屋にはいなかった。私は謝罪を待ち、弟は私を避けていた。父の入所手続きで連絡を取り、昔の話はしないまま今日になった。
酒は台所の棚の奥から出てきた。ラベルのない茶色い一升瓶だった。父に電話すると、飲んでもいいと言った。古そうだが大丈夫か聞けば、自分も最近飲んだと返された。弟が少し舐め、変な味はしないと言った。私は買ってきた惣菜を並べ、箸を二膳出した。
「お疲れ」
弟が杯を持ち上げた。「いろいろな」と私が付け足すと、そういうのいいからと笑われた。杯を合わせた。ちん、と高い音がしたあと、少し遅れてもう一度鳴った。私は弟が瓶へぶつけたのだと思った。弟は酒を口に含み、長いこと飲み込まなかった。
「ここ、まだ寒いな」
言った声が若かった。私の向かいに、辞めた会社の作業着を着た弟が座っていた。日中は茶色いシャツだったのに、胸に薄緑のポケットがついている。弟は私の視線に気づき、何、と聞いた。私は、着替えたのか、と聞き返した。弟は自分の胸を見て、暑かったからね、と答えた。
次に目を上げたときには、もとのシャツへ戻っていた。照明の具合かと思い、頭上の蛍光灯を見た。紐の先に、昔の青い飾りがついていた。あれは中学生の弟が夜店で買ったものだ。昼には紐だけだった気がした。私は酒を置いた。弟は瓶を持ち、私の杯へまた注いだ。
まだ半分以上残っていた。それなのに、注がれた酒は縁のずっと下で止まった。弟も自分の杯を満たした。瓶の中の線は下がらない。弟は気にした様子もなく、冷めるから食べなよとコロッケを押してよこした。私は割り箸を割った。片方だけが細く割れ、弟に笑われた。
子供のころ、私はそうして失敗した箸を弟と取り替えた。兄だから当然のようにやっていた。あの晩も、何も考えず弟のまだ割っていない箸へ手を伸ばしかけた。弟は自分の箸をさっと膝へ隠した。「自分で食えよ」。二十歳そこそこの声で言った。私は手を引いた。
弟は会社を辞めたあとの話を始めた。隣県の倉庫へ働きに行き、最初の部屋は窓を開けると別の部屋の壁だったそうだ。夏には壁が熱を持ち、夜も窓から熱い風が入った。私は、そんな所にいたのかと言った。弟は驚いた顔をした。「住所、送ったじゃん」。確かに封筒が来た覚えはある。
年賀状だったか、誕生日のカードだったか、思い出せない。弟の胸のシャツが、今度は襟のよれたTシャツになっていた。私が知っているどの服でもない。手の甲に細かな傷が並び、爪が短い。私は杯を置いたまま、弟が咀嚼する口を見ていた。左の奥歯を避けて噛んでいた。
「歯、どうした」
「抜いた。去年」
弟はあっさり答えた。私の知っている去年には弟は別の会社にいたはずだった。「今、何歳だ」と聞くと、弟は眉を寄せた。私が本気で聞いていると分かったのだろう。杯を下ろし、二十八だけど、と言った。今年四十になる弟が。
電話で父へ聞けばよかった。だが、何を聞くのか。弟は何歳かと、施設の父へ尋ねる自分を想像して口を閉じた。私は弟の杯を押さえた。もう飲むな、と言った。弟の手が熱かった。指の間に酒が滲んでいた。「まだひと口だろ」と笑った唇に、小さな切り傷ができていた。
私は自分の杯を飲み干した。酒を減らせば元へ戻ると思った。甘くも辛くもない、冷えた水のようだった。飲み終えて向かいを見ると、弟の髪に白いものが混じっていた。私より老けて見えた。彼は大根の煮物を口に運び、これ、やっぱり市販のは違うなと言った。
「おふくろのは、もっと甘かった」
私は違うと思った。母は甘い味を嫌った。だが口に出す前に、弟の頬が引きつった。「そういうことじゃなくて」と言った。私が何も言っていないのに、彼は首を振り続けた。声だけが、私自身の若い声へ変わっていた。
「せっかく世話したのに。先にひと言、俺に言うのが筋だろう」
十年前、私が電話で言った言葉だった。弟は話すつもりがないらしく、口を両手で押さえた。指の隙間から私の声が続いた。先輩の顔、私の信用、これまでの付き合い。そんな言葉ばかりが、狭い居間に落ちた。
私は瓶へ手を伸ばした。弟が腕をつかみ、首を振った。言葉が止まるまで二人で待った。弟の喉がようやく動いたとき、彼は畳に顔を伏せて咳をした。私は背へ手を置いた。骨ばっていた。つい昼間、一緒に箪笥を運んだ弟とは思えないほど、肩の肉が薄かった。
水を持ってきたが、弟は受け取らなかった。杯の酒を飲み、顔を上げた。目尻に日中と同じ皺があった。「全部は、あんたに言えなかったよ」。私は、その話はあとで、と言いかけた。いつもそうやって、都合の悪い話を先へ延ばしていた。水のコップを卓の端へ置き、何があった、と聞いた。
会社の人間が嫌だったのではなかった。弟は仕事が遅かった。何度教わっても同じ作業を間違え、そのたびに兄さんは優秀なのにと言われた。悪気がないのは分かる。だから笑うしかなかった。辞めるときも、兄さんへ迷惑がかかるよと言われた。「それ、俺にも分かってたんだって」。弟は箸で煮物の端を潰していた。
謝れば済むとは思わなかった。けれど私は先に、ごめんと言った。弟は返事をせず、瓶を持った。今度は私の杯へ酒が高く上がった。溢れそうになったが溢れない。縁より上へ、透明な丸い山ができた。弟が瓶を離すと、山が少し震えた。私は飲まずに見ていた。
向かいの弟が、一人ではなくなっていた。後ろに影が重なったというのではない。伏せた目とこちらを見る目が、同じ顔の中にあった。四つあるはずなのに、見直すと二つだった。顎の下に別の顎があり、その下からまだ新しい声がした。弟は黙っているつもりなのか、口をまっすぐ結んでいた。
「それから、どうしたんだ」
私が聞くと、弟の額がひとつに戻った。倉庫で働いたあと、食堂へ移り、賄いで太ったのだと言った。腹をつまむ手は、昼間より丸かった。そこで女の人と暮らした。結婚するつもりもあったらしい。なぜ知らせなかった、と私はまた言いかけ、代わりに、どんな人、と聞いた。
弟は笑った。よく笑う人だったよと言った。夜中に隣の部屋から聞こえるテレビで、勝手に笑ってしまう人だったらしい。話しているあいだ、弟の左手の薬指に跡が見えた。昼間にはなかった白い輪だった。私はそれを見ないよう、弟の顔を見た。女の人の名前は二度聞いたが、二度とも違って聞こえた。
杯の酒は、飲まなくても少しずつ減っていた。私はそれを確かめるつもりで見つめ、すぐ目を上げた。話を聞いているのかと弟に言われたくなかった。弟は暮らしていた部屋のことや、別れる前に買った冷蔵庫を誰が引き取ったかを話した。私はどれも知らなかった。母からも父からも聞いていなかった。
時計が十時を打った。父の時計は電池を抜いて箱へ入れたはずだった。私は音のほうを向いた。壁には白い四角だけがある。その下に小さな背中が見えた。弟が昔座っていた位置だった。私が息を飲むと、向かいの弟が、そっちじゃない、と言った。
弟は杯を両手で持っていた。手首が細くなり、また中年の太さに戻った。「今、こっちにいるんだから」。私は頷き、卓の向こうへ顔を戻した。壁のほうで誰かが足を組み替えた。その爪先が私の腿に触れた。子供のものではなかった。靴を履いた、大人の足の硬さだった。
私は少しずつ身体を卓へ近づけた。杯に顔を落とすと、酒の中に顔が映らなかった。小さな蛍光灯と、窓を塞ぐ壁が見えた。弟が住んでいたという部屋を私は知らない。杯を傾ければ、そこへ酒がこぼれそうだった。私は杯を置き、弟へ最後に会った母の様子を聞いた。
弟はその話をすぐにはしなかった。瓶の口を指で塞ぎ、困ったように笑った。私は催促せずに待った。母は病院の食事を毎回半分残し、退院したら自分で作ると言っていたらしい。その間にも弟の顔は何度か変わった。私は一度だけ、水を飲んだ。水は普通に喉を通った。
夜が明けるころ、瓶は空になった。杯も空だった。私たちは酒に酔っていなかった。弟は長いこと話して疲れたらしく、座布団を二枚重ねて横になった。顔は日中の弟の顔だった。私は布団を出した。片づけで残してあった二組を、同じ部屋に敷いた。
私が横になると、卓の上で杯が触れ合った。ちん、と鳴り、次が少し遅れ、そのあと低い音がもう一つ続いた。弟は目を開けたまま、知らないふりをした。私も起き上がらなかった。三つ目の杯を出した覚えはない。出していないと確かめるために、暗い卓へ手を伸ばすこともできなかった。
朝、欠けた杯だけが濡れていた。弟は洗うと指を切るからと言い、紙に包んで持ち帰った。瓶は私が捨てた。父には古い酒を飲んだとだけ報告した。父は、あれは水を入れていたんだが、と言った。施設へ持っていく花の水に使うつもりだったそうだ。私はそうかと答えた。
弟とは連絡を取るようになった。ただ、今でも電話に出た声が若く聞こえると、私は名前を呼ぶまで少し待つ。昨夜の話のどこまでが、いま生きている弟に起きたことなのか分からない。彼が持ち帰った杯の底には、父の名前が彫ってある。それを弟は一度だけ裏返して見せ、俺の字だよ、と言った。


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